どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「罪を二度犯した者は、もはやそれを罪とは考えない」?

利己的だからこそ利他的に振る舞う人と真に利他的な人は多くの場合見分けがつかない。

こんな長文自分語りが習慣になっている私はもちろん、自意識が強く他者からの評価を気にして行動する前者側の人間です。

 

さて、この間不思議なことにツイッター以外の場でpapa活の話題に巡り合ってしまって。私は他人がしている分には構わないけれど、自然な稼ぎ方だとは思っていないので自分ではやらない、と話しました。過去に「P活しないの?(すればいいのに)」と問われたときにも使った答えです。

お金になるかならないかの感覚で人と関係を築く感覚が身についてしまうこと、労働とそれによって得られる対価のバランス感が壊れてしまうことが怖い。何よりも、なけなしの自尊心を底支えしているのが「自分は自分なりに正しいと思うことをして生きている」という自負だから、それを損なうくらいなら若い女であることを換金なんてできなくてもいい。まあ23になったことだし、もう言うほど若くもないしね……という私の答えに対する鋭い切り返しが、今夜ブログを書くきっかけになりました。

「で、P活をしないことによって守りたいその倫理観と不貞行為の折合いはどうつけてるの?

 

清く正しく生きてきた、つもりだった

Wikipediaで不貞行為を引くと「法律用語であり、配偶者としての貞操義務の不履行を意味し、民法770条に離婚事由として規定されている」と出てきます。

私はツイッターなどで度々「不倫は絶対にしない」と言ってきました。今の私の中で不倫には2つあって、1つは自分に夫がいるときにその人以外と関係を持つこと。もう1つは、自分がフリーであっても相手の男性に妻がいる場合に継続的な恋愛関係に身を置くこと。

つまり不倫と不貞行為はイコールではないという定義になっているわけですが、私が自分に禁じる不倫から「恋愛関係になく継続的とも言えない不貞行為」が抜けたのは勿論偶然ではありません。そうしないと自分の罪悪感を往なせない事態が起きたからです。

 

不倫は良くないことだと思うし、自分が生殖家族をもつことになったときには決して不貞行為をするつもりはありません。もちろん付き合っているだけの相手に対しても不義理なことをしたくないし、相手もそうあってくれたらいいなと思っています。

でも同時に、たとえば私の彼氏や未来の夫を他の女が「あわよくば……」と下心から誘ったとして、世間が沢尻じゃないエリカさんを叩くように彼女に対して烈火の如く怒ることはできないなと思ってもいるのです。

 

こんな風に「配偶者や恋人を思いやるのは当事者の仕事で、ポッと出の男女には責任を問えない」という考え方になったのは、そう、まさに自分がポッと出の女になったことがあったから。

彼女がいる男子と(そうとは知らず)恋愛関係になり、結果的に彼女の立場を奪ってしまったとき、彼は「君は悪くないよ、俺がずっと隠していたから」と言いました。でも彼女がいると分かってからも会うのをやめなかった私の行為自体、良心に反するものだったはずです。

そのとき私は「私ができたことは他の誰かにもできるわけで、略奪した恋は結局誰かに略奪されて終わるよね」、そう自虐に走ることで、結果まで全部引き受ける覚悟の上ですみたいな顔をして、良心の呵責から逃げました。

 

つまり私は、決して寛容な人間だから「好きになった相手に恋人がいようが結婚した相手がいようが 誘う権利は誰にでもある」などと言えるのではなく、自分がやってしまった以上他人のそれを否定することはできないという針の穴程度の道徳心から、事後対応的に善悪の基準をズラしてきたに過ぎないのです。おそらくは。

 

見えないのと無いのは違う

最近、「どうにもなっちゃいけない貴方とどうにかなりたい夜」という、タイトルからして矛盾がヤバい歌を聞きました。

この歌をサイコパスと評した理由。

それは私を「倫理観と自分の不貞行為の折合いはどうつけてるの?」という質問で刺した人が、この歌と同じように倫理観を棚に上げて行為し、さらにその行為を棚に上げて今度は倫理観を語る私のことをサイコパスと称したからです。

 

まず事が起こって、それを受け止める過程で自分の中の善悪の基準を変えて「これは悪ではない、だから罪悪感に苛まれる必要はない」と自分に言い聞かせる。時にはブログやツイッターを使って。

この自己正当化のプロセスには「悪いのは私だから」という相手の言葉、それから私のことを好意的に見てくれる人たちも「あなたは悪くない」「大丈夫、大したことないよ」と力を貸してくれます。

「配偶者や恋人を思いやるのは当事者の仕事で、ポッと出の男女には責任を問えないと思ってる」なんてわざわざ言うのは、その論理が自分の抱える罪悪感を一瞬だけでも軽くするような気がするから。

 

さてそろそろまとめに入りますが、今回のタイトルにつかったこの言葉の出典は、ユダヤ教の律法集『タムルード』です。

罪を二度犯した者は、もはやそれを罪とは考えない

言いたいことはわかるような気がするのです。確かに良心の声を黙らせてポッと出の不貞女になったあと、既婚者に騙された被害者女面もしますし、自己正当化のための理屈だって3,000字くらい平気で捏ねます。罪の意識に押しつぶされそうになっているようには見えないでしょう。

それでも私はこの教えに完全に同意はできません。良心はずっと黙り込みはしないし、躱したつもりの罪悪感だって消えはしない。自分が時々強大な憂鬱感に襲われて「ゆるされたい」と寝言を言ってしまうのはおそらく、過去の行為と無関係ではないと思っています。

 

私はこれからも自分の正当性を言葉を尽して証明しようとするだろうし、同時に自分の過去の行為と選択に苦しむのだろうと思います。

でもせっかく自分がいかに棚上げを得意としているか気付かされたので、今後はその自覚を持った上で図太くストイックに、善な人間を目指したいです。少なくとも、利己的な私が自分の為に使う言葉で私を優しい人だと評価して、それに救われたと言ってくれる人に対して、後ろめたさをおぼえることがなくなるくらいには。

 

余談ですが、ストイックという言葉の語源になったストア哲学にハマりそうです。ストア派は衝動や不運に対抗する手段として自制心や忍耐力を鍛えることを説いているので、どうにもなっちゃいけない人とどうにかなりたい夜に役立たずだった私の理性も叩き直せるかな。それはさておき、この本の「コントロールできるものとできないものを区別せよ」という教えはストレートに響いたのでご紹介しておきます。

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

懺悔もどきの長文に最後までお付き合いいただきありがとうございました!

おやすみなさい。さやかでした。