今付き合っている人は、出会ってから一度も私に可愛いと言ったことがないし、好きだと言ったこともない。私の記憶の限りでは。
(画像出典:2013年夏広告メイキング ~Hide & Seek Lady~ | Ad Making | LUMINE MAGAZINE)
私は私の顔を特別好きなわけではないし、美人だと思ってもいないけれど、私のことを好きな男性で私に「可愛い」と言わなかった人はこれまでいなかった。それに私は、頻繁に「かわいい」と言ってくれる会社の先輩・同僚、友人に常々甘やかされている。
いつもと系統が違う服を着てるとみんな珍しがって「今日可愛いね」などと言ってくれるんですが、爆イケ先輩だけはさらっと「今日“も”可愛いね☺️」だったのでそういうところ〜〜そういうところだぞ〜〜と思いました。好きです
— さやか (@oyasumitte) 2020年3月5日
だからちょっと傲慢であることはわかりつつも、私と付き合っている、つまり私に好意を抱いていると推定される男性には可愛いと思われていたかった。
私は「言わなくてもわかってよ」みたいな察してちゃんが嫌いだ。自分がそうなるのも嫌だったので、一度もかわいいとも好きだとも言われたことがないと気づいたとき、直接本人に尋ねた。返ってきた理由はいくつかあったけれど、すべて「私のことを可愛いとも好きだとも思っていない」というものではなかった。でもやっぱり可愛いとは言われていないし、好きだとも言われていない。
さて、こんな話があるのをご存知だろうか。
運が良い人と悪い人の違いは、たった1つ「何を数えるか」だけだという。自分のことを運が良いと思っている人は自分にとって都合の良い偶然だけを数え、運が悪いと思っている人は望ましくなかった偶然ばかりを数え、それぞれ数えたものをより頻度が高いと思い込む。両者に起きていることは変わらないのに、自意識によって自分が恵まれていると思えるかどうかが大きく左右される。
運が良い人と悪い人の違いが自意識であるように、自分が幸せか不幸かを決めるのもまた自意識なのではないかと思う。私はここのところしばらく、会社に行くのが嫌でつらいとか、好きな人に好きだと言ってもらえなくてつらいとか、つらいことばかりを数えようとしていた。
ところが先日あるとき、不意に思い出した。それは、彼が疲れているときに連絡をくれるのは私だということ。私のマッサージを求めてくれるのがいつも嬉しかったこと。そうして一緒にいるときに、彼が「幸せだ」と言ったこと。
彼が私を好きかもしれないという状況証拠は、自白(?)の欠如を補って余りあるように思える。思いたい。好かれていたいと思うのは、私が彼のことを好きになったからだ。
付き合う前にいいなと思ったのは 朝そそくさと帰ろうとした私に「朝ごはんも食べて行かないの?」と驚いていたこと、「また誘う」と言ったその日のうちに連絡が来たこと。今好きなのは 嘘がないというか 嘘がないと思わせてくれる言動と、表面的に甘くはないけれど優しいところかな という感じです😌😌
— さやか (@oyasumitte) 2020年1月26日
失恋のあと自暴自棄的な生活を送っていた時期に出会った彼の第一印象は、清潔感と余裕があってモテそうな人、だった。個人的には、私達が付き合うことになったのは「タイミングが合ったから」ほとんどこれだけだと思っている。でも結果的に、私は彼を好きになった。彼もそうなのか、もしかしたら今でも別に好きではないのかは前述のとおり明言されないので推測するしかない。
さてかなり話が脱線してしまったが、今回書きたかったのは、自分の手元にないものや望ましくない事実ばかり数えて、思い返すだけでニヤけるような出来事を忘れてしまったり過小評価したりするのはもったいないよね、ということ。
それから、上記のことは落ち着いて考えると当然に思えるのに、自分が負のスパイラルに入っているときにそう気付くのは案外難しいということだ。
私は彼を好きかもしれないと思っていたから、彼の言動に時折ダメージは受けながらも、優しさを感じた行為や言われて嬉しかった言葉を集めるうちに好きになった。おそらく。
でも彼が私に好きだとか可愛いとか、所謂蜜語的なことを全く言わないことが一度気になり出したら、その疑念は彼の優しかった言動の数々を覆い隠した。私は「彼は私を好きでもないし興味を持ってもいないらしい」と悲観し、それを裏付けそうな事実ばかり数えていたのである。その説に対して都合の悪い、つまり彼が私をよく思っていることの根拠になるような何かには目を瞑りながら。
自分に無いものを意識の中心に据えてしまうとつらい。それが自分の努力で完結するものではなく、他者に何かを思われたい言われたいという願望なら尚更だ。
私はそんな良くない「ないものねだり」の逆は「よかったさがし」なのではないかと思っている。よかった探しとは、手に入らないものを嘆くのではなく起こったことの中に良い点を見出すゲームであり、前向きに生きようとする姿勢そのものでもある。
(参考:極端な楽天家│ ポリアンナのよかった探し|Englishに英語)
度が過ぎると現実逃避の手段になってしまう為バランス感覚は重要だが、悲観ばかりする人よりも楽観主義者の方が総じて幸福度が高いことについては、ほぼ疑う余地がない。
また、私のように「他人に〇〇と言われたい/思われたい」というゴールを目指してしまうと、達成までの道のりに自分のコントロールできない範囲を含めてしまう。これは目標として望ましくない。
ナメられない女になりたい、ナンパされない女になりたい、クソリプがつかない女になりたい、クソ男に泣くのはお前がその程度の女だからだって言われない女になりたい。思えば私の志向する自己イメージはいつも他人の言動を含んでいて、そこまでコントロールしようとするから苦しくなるのかもしれないな
— さやか (@oyasumitte) 2019年4月9日
語り得ぬものについては沈黙しなければならない様に、制御し得ぬものについては諦念をおぼえなければならないのだ。ちなみにこれはストア哲学の専門分野なので、興味があればぜひこちらを。→ 迷いを断つためのストア哲学
我儘を言えば、好きな人にかわいいって言われて承認欲求を満たされるのは絶対的に最高だし、「あなたのおごりでしょ?」と言ってくる人よりも気障に「女性に出させるほど困ってないよ」と笑ってくれる人の方がかっこいい。それはそう。
でもそんな表面的なことに気を取られて、好きになった人の好きなところとか、そんな相手に見合う自分であろうとする姿勢とか、もっと大事にすべきものを蔑ろにしないようにしたいとも思う。
自戒を込めて、昔流行ったKANA-BOONの「ないものねだり」を載せて終わります。今回も最後まで当たり前ポエムをお読みいただきありがとうございました。おやすみなさい。さやかでした。