タイトルのとおりです。タイトルのとおりなのだけれど、結論を急ぎすぎると避けられる誤解を生むことは匿名で3年もインターネットをやっていればわかるので、少し順を追って書いてみたい。
先日、マシュマロでこんな質問をいただいた。
質問にそのまま答えるなら、私の中で浮気の決定的なラインは枕を交わしたかどうかというところにある。ただ、具体的な行為について浮気か否かの線引きをすることに、大きな意味はないとも思っている。その理由は二つ。
第一に、個人の中で浮気がどの行為を指すかに関わらず、不実施の証明は基本的にできないということ。
きっと浮気をしないだろうという信用を日頃の行いで積み上げることはできても、浮気をしていないことの証明は、お互いを一個人として尊重する付き合い方をしている限り、およそできない。
いや、スマホの検閲のような相手のプライバシーをめちゃくちゃに侵害する方法をとったとしても尚、恋人が浮気をしていないという確証は得られないだろう。起きていないことの証拠はどこにも無い。
異性と二人で飲みに行くのが浮気でも、手を繋いだら浮気でも、他の子を可愛いと思ったらもう浮気でも、それが起きていないことの証明はできない。問題は、相手を信じるか信じないか。
この人は私のこと絶対裏切らないって期待よりも この人になら嘘つかれてもいいかな 仕方ないかなって思えるのが愛 みたいに思ってる部分があるような気がする、だめかな
— おんせん (@oyasumitte) 2020年8月12日
信じるか、信じないか。逆の立場から言えば、信じさせられるか、信じさせられないか。具体的な行為に対して浮気かどうか判断することが、あまり重要ではないと思う二つ目の理由はそこにある。
はっきり言って、「信じさせられない」の中で最悪の形が浮気という事実の発露であることを除いては、浮気行為の有無と相手を信じさせられるかどうかとは関係がないと考えている。
1日音沙汰ないくらいで相手が不安にならないような日頃の行いが愛なのかなって最近思ってるのだけど違ったら笑ってほしい
— おんせん (@oyasumitte) 2020年6月10日
浮気しないのは愛だ。そして浮気していないと信じさせられるなら、その態度ももう愛と呼んでいいと思う。
散々当てこすっている元々彼をはじめ、私が社会人になってから付き合った人たちに対して思っていたことはそれに尽きる。その仕事で、その働き方で、その生活の隙間で私にこれだけの時間を割いて、その上で他の異性とも何かする余裕があるのなら、それはもう才能だから仕方ないと思っていた。甲斐性(と性欲)の鬼だ。 正体なんか鬼でもよかった。私から見えるところで、人間でいてくれるのならば。
特に忙しい人がその中で自分に少しでも時間を割いてくれる喜びには強い刺激と中毒性があって、並の愛情表現が全く刺さらなくなる。時間を割く割かないとか 言葉より態度だとか、全部相対的な話ですが
— おんせん (@oyasumitte) 2021年10月11日
何の話だっけ?
つまり、浮気ってするかしないか、されるかされないかという問題ではなくて、していると思わせない努力をするかどうか、それを信じることにするかどうかの問題だと思うのだ。
大事なのは、自分が相手の行動を見て不快だったり不安だったりするなら、それを伝えるか伝えないか、伝えるならどう伝えるか、相手がそれを受けてどうするのか、その選択を受けて自分が相手を信じたいと思えるか。
「恋人がいるのに異性と二人で飲みに行くって何考えてるの?」という不快感は理解できるし、わたしは過去の恋人に散々それを問われた側なので「異性っていうか友達ね?」という言い分もわかる。異性の友達と飲みに行きたい側が譲れない場合、それを隠すのと明らかにしておくのとはどちらが誠実なのかという話もあるし。
改めて、二人の間にしか答えは無いなと思います。浮気について質問をくれた方が、相手と良い落としどころを見つけられていますように。
最後までお読みいただきありがとうございます。
おやすみなさい、さやかでした