どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

女たらしとルンペルシュティルツヒェン

どんな関係性であっても、相手の名前を呼ぶ必然性がある場面って、意外と少ないと思うのよね。

 

私の場合はそもそも親しい人にも下の名前をそっくり呼ばれることが少ない方で、さらに呼び捨てで呼ばれる場合に限るともう本当に本当に少なくて。それを毎回、ねえとかあなたとかそっちとか呼びかけず名前を繰り返す珍しい男友達と会うと、強く意識する。

 

そのことについて、ちゃんと名前を呼ばれるのってやはり嬉しいよね、心が童貞だと名前呼ばれるだけでちょっと好きになるよねと自分の中で結論づけていた時期があるのだけれど、今となっては早漏すぎたと思う。そういう話です

 

 

 

テクニックとしての名前の呼びかけというのは現実にあり、上手にできれば人たらしだが、下手だと不気味な人になる。ネームコーリング効果というやつだ。

Xの似顔絵アイコンで名前にアットマーク何とか人事みたいな情報がついている人たちの投稿のリプ欄を覗くとわかりやすい。あとは古の恋愛工学界隈みたいにとにかく名前を繰り返し呼んで相手の名前を記憶しようとか、呼び捨てで親密度を勘違いさせていこうとかって臆面もなく発信する人たちも、多分みんな上手じゃない

 

 

インターネットの外でも、必要以上に何度も名前を呼ばれるのははっきり言って不自然で、どうしたって何の意図があるのか考えてしまう。普通はつく敬称が省かれていれば尚更。

 

でもその不自然さが何由来だったとしても、それが気持ち悪いかくすぐったいかという基準以外は、結局いつも無いのだった。天然だろうが合成だろうが関係ない。

悪気ない無意識の距離感バグだとしても気持ち悪ければ避けるようになるし、明確な下心だって不快でなければ問題なかった。

 

 

名前がそのままあだ名になるタイプならこんなこと考えもしなかったかもしれない。名前より呼びやすいあだ名が小さいときからずっとあって、氏も人とほぼ被らない人生だったから、本名がまるで諱になってしまった。特にそういった実名忌避の信仰を意識したことはないのだけれど。

 

 

心が童貞ゆえに名前を呼ばれるほど好きになっていたのではなく、諱であるところの下の名前を呼ばれて人格を支配されていたわけでもなく、名前を不自然なほど呼ばれても呼び捨てにされても嫌でない人の中に、特に好きな人がいただけ。

ただでさえ名前を呼ばれることが少なく、呼ばれて居心地が悪い相手とは早々に遠ざかり、結果だけ見れば名前を呼ばれる相手がまるで特別であるように限られていただけ。

いや心が童貞なのもないとは言えないか

 

 

名前を呼び捨てにされるたびに、貴様試しの門に挑むか ククク…などという気分になっていたわけでも勿論なく、振り返ると試金石だったようにも見える、という話です

 

 

 

くどいほど下の名前を呼んでくるのがくすぐったかった男友達の、その悪癖が再会しても変わっていなかったのが嬉しかったなと思いつつこれを書いている。そういえば、私が名前くんと呼ぶ友達もこの人しかいない。

思い出した。この友人、知り合った当時「どう呼べばいい?(共通の友達に)何て呼ばれてる?」と問われた私の答えに関係なく、急に呼び捨てにしてきていた。さすがに訝しみ、名前でいいよと言われてもちょっと距離を保ちたく、名前くんと呼び返したのが始まり

 

そう。第一印象は最悪、こちらが引きたい一線をずかずか踏み越えてくる失礼な人。そのわりに丁寧に言葉を選ぶところがあり、友達が少ないと自称されても同性から好かれているのは確かで、終電間際に脱げた私の靴を拾って笑いながら「シンデレラ?」と履かせる軽薄さはあって手は遅く、絆されて仲良くなるうち、ただの人たらしと諦めがついた。

 

私の名前を一番優しく呼ぶ異性がそれとして、私の一番名前を呼ばれたかった人は、私をどんなふうに呼んでいたかしら。それこそあなたと呼ばれた記憶が積もりすぎて忘れてしまった。

これから何が起きてもそれだけを胸に生きていけると思ったことも、きっと少しずつ零れ落ちて、結局できないのかな、思い出だけで生きるなんて。

 

名前を呼ばれても平気なだけの友達を特別にしたくはないのに、いざ他の人に呼んでもらってみたら呼ばれることに違和感がない人の特別さが際立って、悲しいことです

頑張って席をとったライブが無料配信されることになったらしい

頑張ってチケットをとっていたライブがYouTubeで無料配信されることがわかって悲しい、という投稿を見た。

それを受けて考えたことを書くけれど、最初に断っておきたいのは、その悲しいという気持ちは誰にも否定できないということ。もちろん私にも。もしかしたら責めるような響きをもつ箇所が出てくるかもしれないけれど、そこに彼を否定するような意図はないことを予め明らかにしておきたい

 

 

ライブに行きたいという気持ちは、大きく二つの欲求にわけられると思うのだ。

好きな人が何を話し何をどう歌ったか、いわばライブの内容を知りたいという欲。もう一つは、肉眼で見るステージ、通信を介さない生演奏や生歌、物理的な空間の共有によって得られるものに対する欲求。他にもいろいろあるだろうが、多かれ少なかれ、こういう欲を抱えた人がライブのチケットを取ることが多いように思う

 

映画をサブスクで倍速でたくさん見たい人は、前者の内容を知りたい欲求が優位な可能性が高いかもしれない。反対に、映画は映画館で見るものだというこだわりが強い人は、配信があるとわかっているライブでも迷わず現地参戦する人に共感できたりとか。

 

 

チケットが完売しているライブについて、YouTubeの生配信で誰でも見られることが後から発表された状況で価値が損なわれたのは、 内容を知るという特権の方だろう。お金を払ってチケットを買ってその場にいた人だけが得られたはずの。物理的な場の共有を伴う経験の方は、それを通信を介して見る人がどれだけいようが変化しない。

同じチケットを買っていても、何を求めて購入しているかは人によって違う。どちらか一方の欲求に偏ることもあるだろうが、大抵はグラデーション上にいるのではないか。

席を取った者だけが知っている時間が、内容があるということに、より重い比重をおいて席をとった人からすれば、後出しで無料配信なんてされたらたまらないだろう。遠征費だって嵩むのかもしれない。誰でも無料で見られてしまうならこんなに高いお金出していこうと思わなかった、と思うのはおかしいことではないと思う

 

 

私は、興奮しますけれどね。自分の行く公演に配信カメラが入るとか、テレビ収録が入っていて無料で放送されるとか、後日その映像が販売されるとか。生で見たライブを、全体が良く見える以外すべて生の方がいいなと思いながら、でも楽しかったなあと思い出しながら見るのは、映像で初めて見るのとは全く違うので。

配信や放送がないと、自分の記憶の焼き増しだけでなんとかしないといけないけれど、配信があることで全編ではなくともアーカイブが残る可能性が現実的なものになるし、人によっては録画して残せるでしょうし。それで何度でも再生できるのよ。自分が生で一番いいものを味わったその時間を。

 

しつこいようだが、これは私の性癖がこういう方向を向いているというだけの話だ。

私だって背伸びして買った高い靴が、翌日にはセールで販売されていたら悲しいし、キャンセル料を支払ってキャンセルした予約が、翌日には台風を理由に無料の払い戻し対象になっていたら凹む。先に言ってくれてもよかったんじゃないかと、そう感じてしまう論理が、私の中ではライブのチケットと後出しの無料配信には当てはまらなかっただけ。

 

たとえば私は好きなブランドがよくわからないインフルエンサーに目に余る「ギフティング」をしていると、購入意欲がかなり下がるけれど、この場合もべつに販売されている商品自体は、配布されることによって変化していない。

 

購入しようとするものについてどんな価値を見出すか、何がそれを棄損するかということは、本来結構デリケートな問題であるはずで。それがことライブやコンサートのチケットに関する話題になると「愛が足りない」みたいな言われ方をしてしまうのが、何だかなあ、という

 

 

 

好きな思想家がバンドマンをしている。彼がネットラジオで、とにかく生の人間が出てきて目の前で演奏するライブに来てみませんかという誘いを投げかける中で、こんな話をしていた。サブスクでいくらでも聞ける音楽をライブに行って聞くのと、家でも見られる映画を映画館に観に行くのは、近い部分もあるけれどちょっと違うと。

 

いい映画って魂にぐっとくるじゃん。人がやってるから。だけどやっぱり録画されたもので編集されたもので、やっぱり生のものじゃないからさ。その、映画の感動っていうのは、話の筋道でうまいこと誘導して泣かされる感じ?うわあこんな感じでそうやってそうなって最後犬が死んだらそら私泣きますわみたいな。涙いいすかと。なるわけですよ。だけどライブの涙は違うんだよな。なんだあれは。

 

ひとつの答えは話の流れで示されたけれど、それはライブやコンサートでよく泣く私の答えとは違った。

 

生でいつか聞きたいと思っていた曲が思いがけずセットリストに入っていたり、聞けると想像できた曲がやっぱり良かったり、共感しながら聞いたあの頃の記憶が蘇ったり、存在しない記憶を見たり、ひとりの人間がライブで泣く理由だって一つじゃない。自分でもなぜ自分が泣いているのかわからないこともある。

 

わかっていることは一つだけあって、私はライブでぼろぼろに泣くくせに、配信ライブやライブ映像で泣くことはない。生の人間が目の前にいるライブの空間に身体ごと没入できることが、私にとってはお金や時間を費やす価値を感じる対象なのだ。

 

 

 

チケットを買った公演が無料配信されることになって悔しいという気持ちは、誰かに批判されるようなものではない。獲得した席の価値が損なわれてしまったように、悲しく受け止める人がいて当然だ。

でもそういう人も結局、行ったら配信とかどうでもよくなるくらい良かった、頑張ってチケットを買ってここに来れてやはりよかったと、帰りには思えているといいなと思う。

 

販売戦略とか、チケットの高額転売が目に余って実際に後から配信が決まるとか、当然様々な事情があることも全員が何の文句も無い状況はありえない前提も踏まえつつ。それでも秘密の共有に対して安くないお金を払っているつもりの人がいることもまあわかりきっているはずで、あまり不誠実にうつることはされたくないよねと思うのもわかるなあ。

嫌なら来なければいい、は正論だしそれはそうなのだけど、お金出して嫌な思いしたくないと思うのだって、同じくらい正しいと思うし

 

『未必のマクベス』について言えることはもう、ない

昨年、本屋で平積みされたある文庫本の「これほど素晴らしい小説はそうあるものではない」という帯が目にとまった。ただそれだけであらすじも読まずに購入したその小説が、早瀬耕『未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)』だった。

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面白かった。

購入後しばらく読むタイミングを逃していたところ、寝つけない日に、入眠の共にと積読の中から何気なく選んだはずだった。最後まで読み終えて二重に呆然とした。夜が明けていた

 

しばらく大袈裟な書評にあてられることが続いたのだが、時々でもこういうことが起こるから釣られてみるのをやめられない。

 

『未必のマクベス』、読んでよかったしなぜもっと早く読まなかったんだろうと思うのに、同じくらい、まだ読んでいない人が羨ましい。本書の魅力を余すところなく叫んで少しでも多くの人に読んでもらいたい一方で、あまり激しい言葉を使って読んでくれた人をかえって白けさせるのは論外。今日はそういう話です

 

 

 

『未必のマクベス』は、早川書房より単行本が2014年、文庫版が2017年に発売された小説。10年前の本で、文庫化されたのも7年前だ。私が惹きつけられた、今の帯がついたのだって6年も前。なぜもっと早く見つけられなかったのか。

私がやっと購入したのは1年前で、読んだのは今年。 なぜもっと早く読まなかったのか……

 

 

600頁を超える長編。開くのはやや億劫だ。積読にしていた理由もおそらくそこにあったのに、結局引き込まれて一晩で読んでしまった。

読んだ人と話がしたい。だから人に勧めたいのだけれど、どんな小説かと問われると説明が難しい。何を言ってもこの本の良さからずれていく感覚がある。

 

 

私が惹かれた帯のコメント「これほど素晴らしい小説はそうあるものではない」は、本作の解説も担当された、北上次郎氏の書評の一節だった。

この小説の魅力を語るのは難しい。(中略)だから、こう言い換える。高校時代にちょっと気になる女の子がいて、特になにがあったわけではないのだが、それからも折に触れて彼女を思い出す――そういう経験のある中年男性に本書をすすめたい。あるいは企業の第一線で仕事をしながらも、特に将来を考えず、恋人がいても結婚を夢見ず、そして友人のいない中年男性に本書をすすめたい――(中略)。

これほど素晴らしい小説はそうあるものではない。

中年くすぐる懐かしい香り 「未必のマクベス」(早瀬耕)|好書好日

 

書評家にも語るのが難しいと言わせる小説である。そして何より「これほど素晴らしい小説はそうあるものではない」という濁りのない賛辞がもう存在している。

 

これ以上に言うべきことなど、ない。

 

ないのだが、それでもこの本について書こうと思ったのは、最近になって複数の書店で「今年、もっとも切ない物語」として立派な売り場が設けられているのを見かけたからだ。

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 一番目立つ売り文句は「初恋の人の名前を検索してみたことがありますか?」だった。昔の帯がそうだったらしい。

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何というか、違う。初恋の人の名前?そこ?

違う。違わないけど違う……!

私にとっては違うものの、この感想を選んだ人にとってはそうなのだ。それでいいし、ここにもやはり本書の分類と説明の難しさが表れていると言える。

 

「読後、ただ立ち尽くした」という感想が私の感覚では最も誠実だ。説明しようとすればするほど伝えたいことは遠ざかり、逆に短く「本の形をしたラブレター」くらいまでまとめられると、無理に上手いこと言おうとしてる匂いが気になってしまう。

これは私が穿って見ているせいか

 

 

『未必のマクベス』は、本文以外の情報から想像するよりずっと面白い。ただの恋愛小説なんかじゃない。

個人的には、本書を単純に恋愛小説としてだけ見るなら、ちょっと香ばしすぎる。全員いい年して純粋すぎるのだ。気持ち悪ささえ覚える。何せ主人公は既婚アラフォー壮年男性で……いや、やめておきましょう。ツッコミどころが点としていくつか存在していても、総じて私の中でこれが良い本であることは変わらない。

とにかく、普通の恋愛小説だと思って敬遠するのは違うとだけ

 

 

 

”未必の故意”でしか聞かない「未必」に、シェイクスピアの四大悲劇「マクベス」。

不穏な暗さを孕むタイトルだ。それに抒情的な風景の表紙。「今年、もっとも切ない物語」という売り文句。どれも確かに本作のもつ顔だけれど、切ないとか泣けるとか、そういうわかりやすい言葉で切り出せるタイプの読後感ではなかった。

 

 

今回、あらすじにはあえて触れてこなかった。何を言っているのか、結局どんな本なのかさっぱりわからないと思う。申し訳ない。伝えようともしていない。

ただ何も知らずに読んだ方がきっと面白いから、いいから読んでほしい。他に言うべき言葉が見当たらない。

 

「どうか最初の1ページだけでも立ち読みして欲しい。あわよくば2ページ目も読んでほしい」。わかる……

 

ちなみに作中で説明が入るので、マクベスを読んだことがなくても問題ありません。

そのうち映画かドラマになりそう。まだ読んでいないなら、盛大なネタバレに遭遇する前に2ページだけでも立ち読みしてください。

 

 

……いや冒頭2ページってどんなだっけ、さすがに人にすすめるからには確認しておこうと久しぶりに手に取った。結果、再び最後まで読み通すことになったのだけれど、何だか初めて読んだときより恋愛小説だったような気がする。

 

「今年もっとも切ない物語」に、「初恋の人の名前を検索してみたことがありますか?」か。

そうか。そうね。そうでした。確かに愛の話でした

 

 

 

大好きなバンドの大好きな曲があって、そこで歌われているのと近い愛だと思った。

Don't forget! PLAN YOUR RETREAT PATH

♪ SHANK / submarine

あとこういう愛ね。

あなたが嘘をつかなくても 生きていけますようにと 何回も何千回も願っているのよ

♪ adieu / よるのあと

恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で 華やいだ街で 君への贈り物 探す 探すつもりだ

いいえ あなた 私は欲しいものはないのよ ただ都会の絵の具に 染まらないで帰って

♪ 太田裕美 / 木綿のハンカチーフ

 

『未必のマクベス』。読後、ただ立ち尽くすしかない愛の話です。ぜひ