どんな言葉で君を愛せば|oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

痛みを正しさにすりかえてしまう人々

昨夜わたしのXのタイムラインを席巻した記事「離婚してから自分が性格悪いことに気づいた」を読んで、最初に抱いた感想は確かにこれだった。

自分が納得するまで相手に詰め寄る。責めるわけじゃないと疑問の形を取りながら。相手が拒んでも問い続け、結果的には逃げられてしまい、話し合いができないという。

私は自分と違う考えの人が嫌いなわけじゃない。違うなら違うで、なぜそう思うのか説明してくれればいいと思ってる。筋が通ってれば私だって納得する。

離婚してから自分が性格悪いことに気づいた

これは前提から違っていて、そもそも自分の中の筋を通す義理は、ほかの人には無いのだ。納得できるよう筋を通せと求める自由があるのと同時に、そんな義理はないと断る自由が相手にある。

説明してほしいのは願望で、正論と呼べるような代物ではない。これに尽きると思う。この思いは今も変わらない。

一方で、離婚した相手とその後恋愛した相手に同じような去り方をされた要因は同じ書き手の特性にあるとしても、前半の夫婦関係と、親しくなっただけの他人との関係では、問題に気づいたところでとれる対処は違ったはずだとも思う。そしてわたしは未婚の独身なので前半には口を挟みづらく、どうしても後半の付き合いそうだった相手との話が気になってしまった。

その人は最初の頃は連絡が多かった。朝に向こうから来ることもあったし、夜も結構長くやり取りしてた。それが少しずつ減っていった。私はそういう変化には割とすぐ気づく。前は昼休みに来てたのに来なくなったとか、前なら話を広げてくれたのに「そうなんだ」で終わるとか、次に会う話を向こうからしなくなったとか。最初は仕事が忙しいのかなと思ってた。でも忙しいなら忙しいと言えばいいと思う。

離婚してから自分が性格悪いことに気づいた

ここで引っかかったのが、本人の感情が置き去りになっていること。少なくとも言及が抜け落ちている。

相手の連絡の頻度が落ちたとき、「忙しいなら忙しいと言えばいい」の前に、頻繁な連絡から感じられた相手の好意が見えなくなって寂しいという感情がまずあったはずだ。相手の中で自分の優先順位が下がった気がして悲しい。話を広げてくれなくなって寂しい。そうやって心にあいた穴を埋めてほしくて出たのが「忙しいなら忙しいと言えばいい」ではなかったか。

言い方には棘があるが、つまり自分に対する興味を失った以外の、何か仕方なかった理由があると思わせてほしいというピュアな気持ちだ。それでも応える義理は相手に無いのだが、伝えるのであれば「忙しいなら忙しいと言えばいい」よりも、寂しいとか悲しかったの方が言葉が丸い。本当に相手を責める気がないのなら。

 

最近、同じようなことを他でも思った気がした。

そうまさに、同じはてな匿名ダイアリーで「『2人で食事』は告白OKのサインとみなす」と書いていた男子学生の主張だった。

もう一度言うが、向こうがそういう態度を取るからこちらも告白していいと勘違いしたくなるのであって、こちらだけに責任があるような言い方は心外である。あるのは好意のみであって悪意などではない。

理系大学院生による告白ガイドライン

もしや自分は性格が悪いのではと思い始めたあの女性も、同じトーンで似たようなことを言っている。

私はそこは大事だと思った。最初から私が何でも質問してたわけではない。向こうの態度が変わって、それが分からないから聞くようになった。原因と結果が逆になってると思った。

離婚してから自分が性格悪いことに気づいた

私が聞きすぎたから嫌になったと言うけど、私が聞くようになったのは向こうの態度が変わったからだった。だったら最初に態度を変えたのは向こうなんだから、全部私が原因というのもおかしいと思った。

離婚してから自分が性格悪いことに気づいた

自分が悪くないとは言わないが、そもそもの原因は相手にあると言って譲らない。本人の意図がどうであれ、これは相手を責める言い方だし、加えて傍目には理不尽な怒りである。

こちらから見ると、勇気を振り絞った一世一代の告白があたかもセクハラのように扱われるのは非常に心外である。この問題は、おそらく向こうが思わせぶりな態度を取ることで、こちらがてっきりOKだと勘違いすることが原因だと考えられる。

理系大学院生による告白ガイドライン

彼らはなぜか自分が傷ついたとは言わず、心外だ、原因はあなたに(も)ある、と言う。

でも違う。あなたは期待して、その期待が外れて傷ついたのだ。それが翻って憤りとして表れる。痛みを防衛的に怒りにすりかえ、相手を責めている。

 

二人きりで食事ができたら告白してもいいとか、相談を受けたら脈アリとか、絶対間違っているとは言わない。ひとつの目安になる場合もあるだろう。だがそもそも、なぜ脈をはかりたかったのだろうか。あなたが彼女に惹かれたからだったはずだ。彼女があなたに、ではなく。

挨拶されて嬉しかった。二人で食事して楽しかったし好感をもった。原因と結果と言うならここだ。たとえこの順序が前後して、挨拶される前から女性に好感を抱いていたとしても同じ。友好的な様子から、相手も自分に好意があるかもと期待するに至り、期待したから告白した。断られたから傷ついた。この痛みに言及してここで立ち止まらず、一足飛びに脈ありだと思わされ空振りさせられたとか怒り出されると、女としては怖いのである。

ただ本当は、拒絶されて傷ついた自分たちをさらに「告白ハラスメント」などと責める、死体蹴りのような行いはしないでほしいという切実な思いだけがあったのではないか。(余談ですが私も告白ハラスメントという言い方は良くないと思っています)

 

先の女性にしてもそうだ。執拗に相手に原因を求める彼女の言葉に沿って、原因と結果という型を用いるなら、相手の行動やその変化を原因としたとき、結果はそれを受け止めた本人の感情とするのが自然だろう。明らかに彼からの連絡が減って、私は傷ついた。原因と結果と言えるのはここまでで、だから私が納得できる理由を私が望むように言って見せろというのは、もう一歩大きく踏み込んでいる。

 

約束を破られたら傷ついていいし、好きな人の素っ気なさに傷ついてもいい。にこやかに挨拶されただけで好きになっていいし、振られたら傷ついていい。でも誰も犯罪を犯していない状況で、負ってしまった傷にすべてを正当化する力はない。

相手を傷つけるとしても立ち去る理由を説明しない自由があるし、そもそも理由はなくてもいい。だから傷つけられたことについて順を追って伝えたところで、望む応答は得られないかもしれない。ただせめて自分の感情を認識して、今の自分の憤りが原因としたい事柄からどれだけ離れたのか自覚できると、話し合いの機会は近づくのではないかと思う。

 

話し合えることを話し合うかどうか、説明できることを説明するかどうかは相手が選ぶもの。余程のことがない限り求める自由と拒否する自由に優劣はなく、断られたら引くしかない。食い下がってもいいけれど、なお合理的にもの申すつもりならそれは間違いで、あなたの要求はとても個人的な感情に基づくことになる。

挨拶されたり二人で帰ったりしただけで好きになってもいい。ブレーキランプの点滅が普通は愛してるのサインにはならないのと同じように挨拶は挨拶でしかないが、それだけでも好きになってしまうというなら仕方ない。でもその好意を自覚なく相手に投影して、相手が自分を好きなのだと思い込んでしまうのはだめだ。

 

あなたは確かに傷ついたのだろう。その痛みには共感する。ただそれであなたの我儘が正論になるわけではない。

大人は自分の期待が生んだ傷の手当ては自分でするしかないので、彼らがどこかでそれに向き合えているといいなと思います

買ってよかった RICOH GRⅢx HDF

あれは今年の2月頃。ふと思ってしまいました。カメラが欲しいかも、と。

わたしは荷物が少ない方です。バッグは小さければ小さいほど可愛いから。アンテプリマのルッケットミニアトゥーラという、家の鍵とカード、リップとイヤホンしか入らないバッグだけで出かけるのが一番好き。写真の金色の方です。

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セールでは買わないのが一番安いように、写真はiPhoneに任せるのが一番身軽。カメラがどんなに小さかろうと。だから必要なのは「小さくて良い」ではなく「良くて小さい」カメラでした。

iPhoneと別に持ち歩く意味がある、「とにかく小さくて、iPhoneより圧倒的に良く撮れるデジカメ」が欲しい!

そしてタイトルのとおり、RICOHのGRⅢx HDFというカメラを買ったのでした。

 

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RICOH GR IIIx HDF 特別モデル デジタルカメラ HDF搭載 焦点距離40mm

GRⅢx HDF本体に、専用ケースと純正予備バッテリーなどを揃えて16万円程。

ズームやフラッシュを諦めることで、もっと大きくて良いカメラみたいに綺麗に撮れる、小さくてえらいやつ……というのが、多分一番雑なGRの説明なのかなと思います。高機能という言葉をあてるには一癖あるが、劇的に綺麗に撮れる、とにかく小さいデジカメ。

わかりやすい公式購入ルートは、当たらないと噂の公式オンラインストア抽選販売(不定期)と、神宮前にあるGR SPACE TOKYOの抽選販売(毎月)の2つ。わたしはGR SPACEの方に応募したところ、HDFを選んだのが良かったのか、初回であっさり手に入りました。

GR SPACE TOKYO | RICOH IMAGING

 

iPhoneのカメラで足りてない?問題

スマホのカメラは実際良くて、わたしも高校生の頃から10年以上、iPhone以外のカメラを持たず特に不便もなく生きてきました。

一方でわたしは結構長いこと、iPhoneカメラの、見ているものが見たまま映らないあの感じが苦手だったのです。倍率を2倍に、スタイルをリッチに設定、明るさを少し暗く調整して撮ると好みの仕上がりになることに気付いたのは、わりと最近の話。わたしがiPhoneのカメラに持っていた苦手意識は、広すぎた画角と、好みでないホワイトバランス設定で大体説明がつきました。

それでもいいカメラで撮られた写真の、これはいいカメラで撮りましたねと写真だけ見て理解できるあの感じ。特に人の写真を撮りたいと思ったとき、どうしてもあれが必要で、それはiPhoneでは叶わない。そういうわけでやはりカメラを探していくと、どうやらセンサーの大きさがものを言うのだとわかってきます。

ここで「とにかく小さくて、iPhoneより圧倒的に良く撮れるデジカメ」というわたしのカメラ探しの条件は、「とにかく小さくて、センサーサイズが大きいデジカメ」と言い換えられました。悩ましいのは、センサーが大きくなればそれを積む本体も物理的に大きくなるということ。センサーサイズでカメラを見ていくと、まずフルサイズと呼ばれる最大のセンサーを搭載したものは、どんなにコンパクトを謳っていてもわたしの鞄にはまず入らないので除外します。

その次に大きいAPS-Cサイズのセンサーを積んで、ポケットに適当に入れられるくらい小さいカメラはGRだけ。GRよりコンパクトでGRより多機能なデジカメはたくさんあるけれど、GRより大きなセンサーを積んでGRよりコンパクトで軽いカメラは無い。ほぼGR一択でした。

 

GR Ⅳか GR Ⅲxか問題

さてGRにしようと決めたはいいものの、GRにはざっくりわけると2種類ありました。

iPhoneの1倍(24mm)に近い画角の無印IVと、iPhoneの2倍(48mm)に近い画角のⅢx。

iPhoneの1倍(24mm)は、中心から外れるほど写るものが伸びる。手前のものが大きく遠いものが小さくなるので、肉眼以上の奥行き感が表れます。対してiPhoneの2倍設定は、写る範囲が狭くなる代わりに、実際に目で見た感じにとても近い写り。

カメラを買った話をしていてiPhoneの写真を載せるのは気まずい上に、遠景は広角の得意分野なので殊更気まずいのですが、ちょうど同じ位置からiPhoneの1倍と2倍で撮っていた写真があったので載せてみます。iPhoneの1倍で撮影、

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iPhoneの2倍で撮影。

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もう一つiPhoneの1倍と、

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iPhoneの2倍。1倍より看板が伸びずに四角く見えるのが伝われば嬉しいです。

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風景を撮るときには1倍の奥行き感もよく思えるのだけれど、人の顔の写真は、絶対に倍率を上げて撮る時のほうが可愛い。加えて、1倍で無難に全体をおさえた写真より、撮りたいものを絞って2倍で撮った写真の方が、後から見返す率が高かった。これらがわたしが画角の狭いGRⅢxを選んだ理由でした。

ⅢxではなくⅢx HDF(Highlight Diffusion Filter)を選んだのは、光の滲む感じが可愛かったから。

RICOH GR III HDF・RICOH GR IIIx HDF / RICOH GR III / GR IIIx / デジタルカメラ / 製品 | RICOH IMAGING

 

以下、全てGRⅢx HDFで撮った写真です。酔っぱらいが適当にパシャパシャしても何となく綺麗におさまって嬉しい。HDFは夜景向きという声を購入前に見かけましたが、個人的には夜の光だとぼやけすぎるので日中の撮影が好きです。

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食べものを撮るとこんな感じ。

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きつすぎず鮮やかな色のうつり方もすごく好き。

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わたしはこれを機にカメラ沼に踏み入ろうという気はなく、最初で最後の一台のつもりでGRⅢx HDFを選びましたが、おそらくGRは一台で済ませたい人向きのカメラではありません。フラッシュがないし暗所に弱い。ズームができず、iPhoneみたいに一瞬で広角に切り替えて全容を収めるなんてこともできない。オートフォーカス機能も同じ価格帯のデジカメに比べたらかなり弱い気がする。わたしの選んだHDFは特に、明るすぎるところにも弱いし。

でも「とにかく小さくて、iPhoneより圧倒的に良く撮れるデジカメ」が欲しかったわたしには十分すぎるカメラでした。目的なく持ち歩ける小ささは正義。

ここには写真を載せられないのが残念ですが、とにかく人が可愛く写る、人間を撮ったときにこそ買ってよかったと思うカメラです。あー!買ってよかった!!!

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……という下書きを寝かせているうちに、GRⅢxシリーズの生産終了と、代わってGRⅣxの今秋発売予定が発表されてしまいました。

ハイエンドコンパクトデジタルカメラ「RICOH GR IVx」の開発について|RICOH IMAGING

わたしには最初で暫定最後の一台としてGRⅢx HDF以上の選択肢はなかったけれど、これからGRの購入を考える人は最新のⅣと一つ古いⅢxという比べ方をしないでいいのが羨ましい。わたしはHDFの滲む感じが好きなので、HDFが同時に出ないなら秋のⅣxは見送りかな。

APS-Cセンサー?お前は何を言っているんだ?レベルから出発した、素人オブ素人のわたしのカメラ探しが、同じく素人な誰かの参考になったら嬉しいです。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

『われら闇より天を見る』/人生の3冊

Xに「人生の十冊」を載せている方がいた。選べるのも載せられるのもすごい。だって、これほど難しいテーマもそう無い。十って中途半端に多いし、かといってそこに好きなものをすべて嵌め込むには少なすぎる、どっちつかずな縛りだ。

一番好きな一冊を選べと言われたら少し迷う。一番から三番までは大体同じくらい好きだから。

好きな十冊、と言われたらもっと迷う。三冊目と四冊目より、四冊目と十一冊目の差の方が小さいから。

そもそも、好きな本を十も誰かに知られてしまうことは私にとって大変恥ずかしい。わたしの輪郭を、掴まれすぎる気がする。

本性と呼ばれるものが真っ裸の私自身だとすれば、誰かと接するときの自分は人に見られることを前提とした、いわば洋服を着ている状態。一人でいるときに聞いてきた音楽や読んできた本は、私自身ではないけれど、洋服よりはっきりと私を象っていて、しかも人に見せることを想定していないもの。私と洋服の間にある、下着のようなものだ。

本棚って下着かもしれない|さやか

そういうわけで、人生の十冊はなかなか選べないし、時間をかけて選んだとしてもとても人には言えない結果になるだろうと思う。

 

でも「人生の三冊」なら、一生それが変わらない自信は無くとも、今のわたしに大切なものとしてはすぐに答えられる。少なくとも今日現在のわたしの選ぶ三冊はこれ。

 

 

『われら闇より天を見る』

われら闇より天を見る

原題は、“We Begin at the End”。

恋人の妹を死なせてしまったヴィンセント・キング。時を経て彼が故郷に戻ってきたことで、親友で警察署長のウォーク、そしてウォークが気にかける少女・ダッチェスの人生が、大きく揺れていく。

「人は終わりから始めるのさ」

われら闇より天を見る

 

三十年前、不幸な事故が起こった。少年だったヴィンセントは、恋人をのせた車で、よりによって恋人の妹である少女を撥ねてしまう。

ヴィンセントには、少年院ではなく刑務所での懲役十年という、重すぎる判決が下された。刑務所内で売られた喧嘩でさらに二十年上乗せされた刑期を務め上げ、カリフォルニアの小さな田舎町へと帰還する。

そんなヴィンセントを親友と思い続けた警官・ウォークに対し、恋人に妹を轢き殺された元少女・スターは、妹の死を乗り越えられず、酒に溺れて生活がままならない。

「ああもう、ウォーク。あんたまるで子どもだね。ましか、ましじゃないか。いいか、悪いか。人間てのはどっちかひとつじゃないの。自分がしてきた最良のことと最悪のこととの寄せ集め。ヴィンセント・キングは人殺しなんだよ。あたしの妹を殺したんだよ」

主人公の一人はウォーク。そしてもう一人の主人公こそ、恋人に妹を殺された元少女から産まれた娘・ダッチェスである。

ダッチェスの生育環境は凄まじいが、その中でも彼女は終始、たった一人の弟を守るために行動する。まだ幼い彼女の行動原理は、母と、彼女よりさらに幼い弟を守ることにしかなかった。「弟はまだ子どもだから」と言ってのける彼女もまだ、十三歳なのに。

「ふたりともいい子ですよ」陳腐な言葉だった。空疎でないときでも空疎に聞こえる。そうでない子供がこの世にいるだろうか。

 

本書は、丁寧に伏線が張られたミステリーだ。最初に読んだときは序盤で既に誰にも共感できないことがわかり、厳しいなと思った記憶がある。

だが読み進めるうちに思い知った。登場人物もわたしたちも同じ人間で、スターの言葉どおり「自分がしてきた最良のことと最悪のこととの寄せ集め」でしかない。誰もが善人であり悪者。相手を守るために良かれと思って行為する。ただそれが、恵まれた結末に繋がるとは限らないだけ。

「祈りと願い事に違いなんてあるか?」ウォークは制帽を脱いだ。「欲しいものを求めるのが願い、必要なものを請うのが祈りだ」

「ならおれの願いと祈りは同じものだ」

わたしは、動機は常に行為を、自由はいつも責任を後追いしてつくられるという考え方が好きだ。最悪な結果は悪意を必要としていない。誰も悪くなくとも時としてひどいことは起こるのに、最悪なことが起こったら、そこに悪意が見出されてしまう。ヴィンセントの諦念には頷かざるを得ない。

「罪ってのは、それが犯されるずっと前から決まってるんだよ。みんなそこがわかってない。選べると思ってる。あとからふり返って、違う道を行ってみたり、別のドアをあけてみたりする。だけど実際には、選べやしなかったんだよ」

事件も事故も、容赦なく起こる。贖罪は報われないどころか次の悲劇を生んでいく。

正直、読んでいて気が滅入る瞬間は多い。緻密に張られた伏線の回収を、純粋に楽しめるほど気持ちの良い展開は無い。何より、父を知らず母を失い、子供でいることをゆるされなかった少女が、まだ十三歳なのはやはりつらい。

ただ「人は終わりから始める」のだ。印象的な台詞としても出てくるこの言葉。

「人は終わりから始めるんだ」

非情で陰鬱な展開は続くが、原題“We Begin at the End”のとおり、また歩き出す人のための物語であり、救いはある。

 

そしてわたしは、これを『われら闇より天を見る』と訳されるセンスが好きすぎる。正直100%のタイトル買いだった。

ちゃんと悲しくてちゃんと面白く、読み終えると前向きな気持ちを残してくれる小説。わたしの人生の三冊分の一です。ぜひ。