昨夜わたしのXのタイムラインを席巻した記事「離婚してから自分が性格悪いことに気づいた」を読んで、最初に抱いた感想は確かにこれだった。
これに 言語化に不得手な相手への思いやりに欠ける みたいなコメントがついていて怖かった。もっと手前で自分を納得させるという本来無い義務を相手にふっかけて我儘言ってる自覚が無いのが酷いと思うし、「話し合いができる人が好き」を言う層の一部はこれだと思ってる https://t.co/YQxNongrBm
— ささやか (@oyasumitte) 2026年9月7日
自分が納得するまで相手に詰め寄る。責めるわけじゃないと疑問の形を取りながら。相手が拒んでも問い続け、結果的には逃げられてしまい、話し合いができないという。
私は自分と違う考えの人が嫌いなわけじゃない。違うなら違うで、なぜそう思うのか説明してくれればいいと思ってる。筋が通ってれば私だって納得する。
これは前提から違っていて、そもそも自分の中の筋を通す義理は、ほかの人には無いのだ。納得できるよう筋を通せと求める自由があるのと同時に、そんな義理はないと断る自由が相手にある。
説明してほしいのは願望で、正論と呼べるような代物ではない。これに尽きると思う。この思いは今も変わらない。
一方で、離婚した相手とその後恋愛した相手に同じような去り方をされた要因は同じ書き手の特性にあるとしても、前半の夫婦関係と、親しくなっただけの他人との関係では、問題に気づいたところでとれる対処は違ったはずだとも思う。そしてわたしは未婚の独身なので前半には口を挟みづらく、どうしても後半の付き合いそうだった相手との話が気になってしまった。
その人は最初の頃は連絡が多かった。朝に向こうから来ることもあったし、夜も結構長くやり取りしてた。それが少しずつ減っていった。私はそういう変化には割とすぐ気づく。前は昼休みに来てたのに来なくなったとか、前なら話を広げてくれたのに「そうなんだ」で終わるとか、次に会う話を向こうからしなくなったとか。最初は仕事が忙しいのかなと思ってた。でも忙しいなら忙しいと言えばいいと思う。
ここで引っかかったのが、本人の感情が置き去りになっていること。少なくとも言及が抜け落ちている。
相手の連絡の頻度が落ちたとき、「忙しいなら忙しいと言えばいい」の前に、頻繁な連絡から感じられた相手の好意が見えなくなって寂しいという感情がまずあったはずだ。相手の中で自分の優先順位が下がった気がして悲しい。話を広げてくれなくなって寂しい。そうやって心にあいた穴を埋めてほしくて出たのが「忙しいなら忙しいと言えばいい」ではなかったか。
言い方には棘があるが、つまり自分に対する興味を失った以外の、何か仕方なかった理由があると思わせてほしいというピュアな気持ちだ。それでも応える義理は相手に無いのだが、伝えるのであれば「忙しいなら忙しいと言えばいい」よりも、寂しいとか悲しかったの方が言葉が丸い。本当に相手を責める気がないのなら。
最近、同じようなことを他でも思った気がした。
そうまさに、同じはてな匿名ダイアリーで「『2人で食事』は告白OKのサインとみなす」と書いていた男子学生の主張だった。
もう一度言うが、向こうがそういう態度を取るからこちらも告白していいと勘違いしたくなるのであって、こちらだけに責任があるような言い方は心外である。あるのは好意のみであって悪意などではない。
もしや自分は性格が悪いのではと思い始めたあの女性も、同じトーンで似たようなことを言っている。
私はそこは大事だと思った。最初から私が何でも質問してたわけではない。向こうの態度が変わって、それが分からないから聞くようになった。原因と結果が逆になってると思った。
私が聞きすぎたから嫌になったと言うけど、私が聞くようになったのは向こうの態度が変わったからだった。だったら最初に態度を変えたのは向こうなんだから、全部私が原因というのもおかしいと思った。
自分が悪くないとは言わないが、そもそもの原因は相手にあると言って譲らない。本人の意図がどうであれ、これは相手を責める言い方だし、加えて傍目には理不尽な怒りである。
こちらから見ると、勇気を振り絞った一世一代の告白があたかもセクハラのように扱われるのは非常に心外である。この問題は、おそらく向こうが思わせぶりな態度を取ることで、こちらがてっきりOKだと勘違いすることが原因だと考えられる。
彼らはなぜか自分が傷ついたとは言わず、心外だ、原因はあなたに(も)ある、と言う。
でも違う。あなたは期待して、その期待が外れて傷ついたのだ。それが翻って憤りとして表れる。痛みを防衛的に怒りにすりかえ、相手を責めている。
二人きりで食事ができたら告白してもいいとか、相談を受けたら脈アリとか、絶対間違っているとは言わない。ひとつの目安になる場合もあるだろう。だがそもそも、なぜ脈をはかりたかったのだろうか。あなたが彼女に惹かれたからだったはずだ。彼女があなたに、ではなく。
挨拶されて嬉しかった。二人で食事して楽しかったし好感をもった。原因と結果と言うならここだ。たとえこの順序が前後して、挨拶される前から女性に好感を抱いていたとしても同じ。友好的な様子から、相手も自分に好意があるかもと期待するに至り、期待したから告白した。断られたから傷ついた。この痛みに言及してここで立ち止まらず、一足飛びに脈ありだと思わされ空振りさせられたとか怒り出されると、女としては怖いのである。
ただ本当は、拒絶されて傷ついた自分たちをさらに「告白ハラスメント」などと責める、死体蹴りのような行いはしないでほしいという切実な思いだけがあったのではないか。(余談ですが私も告白ハラスメントという言い方は良くないと思っています)
先の女性にしてもそうだ。執拗に相手に原因を求める彼女の言葉に沿って、原因と結果という型を用いるなら、相手の行動やその変化を原因としたとき、結果はそれを受け止めた本人の感情とするのが自然だろう。明らかに彼からの連絡が減って、私は傷ついた。原因と結果と言えるのはここまでで、だから私が納得できる理由を私が望むように言って見せろというのは、もう一歩大きく踏み込んでいる。
約束を破られたら傷ついていいし、好きな人の素っ気なさに傷ついてもいい。にこやかに挨拶されただけで好きになっていいし、振られたら傷ついていい。でも誰も犯罪を犯していない状況で、負ってしまった傷にすべてを正当化する力はない。
相手を傷つけるとしても立ち去る理由を説明しない自由があるし、そもそも理由はなくてもいい。だから傷つけられたことについて順を追って伝えたところで、望む応答は得られないかもしれない。ただせめて自分の感情を認識して、今の自分の憤りが原因としたい事柄からどれだけ離れたのか自覚できると、話し合いの機会は近づくのではないかと思う。
話し合えることを話し合うかどうか、説明できることを説明するかどうかは相手が選ぶもの。余程のことがない限り求める自由と拒否する自由に優劣はなく、断られたら引くしかない。食い下がってもいいけれど、なお合理的にもの申すつもりならそれは間違いで、あなたの要求はとても個人的な感情に基づくことになる。
挨拶されたり二人で帰ったりしただけで好きになってもいい。ブレーキランプの点滅が普通は愛してるのサインにはならないのと同じように挨拶は挨拶でしかないが、それだけでも好きになってしまうというなら仕方ない。でもその好意を自覚なく相手に投影して、相手が自分を好きなのだと思い込んでしまうのはだめだ。
あなたは確かに傷ついたのだろう。その痛みには共感する。ただそれであなたの我儘が正論になるわけではない。
大人は自分の期待が生んだ傷の手当ては自分でするしかないので、彼らがどこかでそれに向き合えているといいなと思います



























