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『自己愛過剰社会』 特別だという愛と呪い

以下、劇場版呪術廻戦渋谷事変特別編集版のネタバレがあります

 

 

「禪院じゃねぇのか よかったな」

『呪術廻戦』13巻、第113話。降霊術で再臨した父・伏黒甚爾が、子・伏黒恵をそうと知らず襲う最中、正気に戻ると同時に相手が息子であると悟り、自決する。そして息子は終ぞ、それが父であったと知ることはない───

 

▽『呪術廻戦』 137話分無料公開 2026/01/08まで

魂さえ上書きする天与の肉体

暴走した術式さえ彼の前では

 

そう。「禪院じゃねえのか よかったな」。

今際のキワッキワの際に見せる甚爾(の肉体と魂)のデカツヨな父性が、全ての素行を上書きして有り余るほどメロい、という話がしたい。

どうでもいいが、ここは甚爾が恵に立場を明かさず黙って去る一方通行具合が父性のメロさを爆発させていると思っているので、伏黒親子が親子として会話する二次創作が頻繁に流れてくるXでは息ができずにいる

 

とにかくわたしはこの伏黒親子の邂逅シーンが好きで、この描写があったが故に、伏黒甚爾というキャラクターが作品内で一番好きだ。

どうしてもIMAXで見たくて、劇場版呪術廻戦渋谷事変特別編集版を見に映画館に行った。3回見た

 

該当シーンは渋谷事変ダイジェストの後半で登場し、BGMのKing Gnu「SPECIALZ」と共に終わる。

父のバカデカい愛を目の当たりにした瞬間、続け様にバカデカい愛の詞「誰が如何言おうと “U R MY SPECIAL”」をお見舞いされるのである

 

わかっている。このシーンを、完結した原作を知っている。歌詞だって伏黒親子に当て書きされたわけでもないのを知っている。2回目以降はその演出だってわかっていた。

それでも新鮮に打ち震える。3回見て3回泣いた

 

 

「俺が名付けたんだった」

さて、「愛ほど歪んだ呪いはないよ」とは同作品の有名な台詞だったけれど、愛とは実際何だろう。呪いだろうか。

少なくともわたしは、親が子にお前は特別だと言うこと、言わずともその思いを込めて接すること、それは愛だと思ってきた。自分が親にそんなふうに言われたことはないけれど、思うより大事に思われていたらしいという事実に支えられたのは一度や二度ではない

 

件のメロい父・伏黒甚爾は、生前息子の名前について「俺が名付けたんだった」と明かしている。妻の死後は、自分になかった才能をもつ息子を実家に戻すよう取り計らった。重ねて一度目の死に際、最期に言い残すことはあるかと問われた際にも、相手に託すように息子の存在を明らかにしている。

降霊術で父の肉体と魂の情報をもった何かとして現れた二度目の死に際にも、息子が自分を否定した家の名を継いでいないことに安堵しながら消えた。

 

子の幸せを祈り名前をつけること、死に際に子を思うこと。これらはわたしの中では絶対に愛だ。

そう、名付け───

 

名づけの風習はいつの時代も世界の文化の中心にあった。子供のために選ぶ名前は、選んだ人の強い願いを表している。

(『自己愛過剰社会』pp.220-221)

 

最近この『自己愛過剰社会』を読んだ。わたしの中で自己愛と神とが熱いトピックなので、100%のタイトル買いである。

神のような外部存在の不在と人間至上主義ひいては自己愛賛美の流れは切り離して語れず、最近わたしが買った本は『神は、脳がつくった――200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』やら『宗教社会学: 神、それは社会である』やら、タイトルが神に塗れてスピったような感じになっている

 

そういう流れで読んだ本書『自己愛過剰社会』は2011年、約15年前のアメリカ社会に蔓延っていたナルシシズムについて書かれた本だが、2025年の日本に生きる者としても耳の痛い話が多い。

 

近頃も一部インターネットで賛否を呼んだ、高学歴は推し活をしない説を唱えるnoteに「彼らの情熱は自分自身を拡張し飾り立て強化することに向けられる。いわば自分自身を推す活動である」と書かれているのを見て、あまりに純粋な自己愛的記述に感動したばかりだ。

自分自身にしか関心がないと声高に言って憚らない、その態度が笑われない御自愛社会でよかったと思う。自分の人生に関係があるかどうかに興味が左右される、その感覚がわからないでもない私も、同じ社会を生きている

 

 

本書の特徴として、自己愛性人格障害ではなく、一般的な自己愛性パーソナリティの特性に注目して書かれているところがよかった。障害と診断を下されるほどではないが、本人にも周囲にもよくない結果をもたらすナルシスト的な態度の流行は、長期的に見れば社会に害を及ぼすという。

 

暴力、他者への思いやりの不足、浅薄な価値観など、アメリカ人が自尊心を高めて食い止めようとしていることは、実のところほぼすべてがナルシシズムに起因している。自尊心をもち、自己表現や「自分を好きになること」ができる社会を築こうとするうちに、アメリカ人はうかつにも大勢のナルシストを生み、さらに誰もが彼らに似た振る舞いをする文化を築いてしまった。この本は、よいことと思われていた自尊心が私たちすべてをむしばむナルシシズムへと変容していく様子をたどるアメリカ文化の年代記である。(『自己愛過剰社会』pp.16-17)

 

先の引用のとおり、まさに私が愛だと思う親の名付けや、子にかける言葉についても言及がある。

アメリカの子供に個性的な名前が増える傾向について、それ自体が悪いものではないとしつつも、人と違う個性的な人になってほしいという思いから変わった名前を付けるのであれば、それはナルシシズム流行病の症状だという。「自分の子供が抜きん出ることを願うあまり、生まれたときから目立つラベルを貼ろうとする」と。 

 

1989年発刊のベストセラー自己啓発本『完訳 7つの習慣 人格主義の回復: Powerful Lessons in Personal Change』が既に、個性主義を否定していたことを思い出す。自己愛、ポッと出の新しいトピックではない

 

 

誰が如何言おうと YOU ARE MY SPECIAL

特別とは、すぐれているというニュアンスが加わった個性のことだ。特別な人は個性的なだけではなく、すぐれているのである(ただし「特別支援」とか、私たちのネット調査への無神経な回答にあったように「特別学級用スクールバス」という場合は別)。(略)

自分を特別だと思うのはナルシシズムである。自尊心でも自信でもないし、子供に育んでやるべきものでもない。ナルシシズムと自信は違う。(『自己愛過剰社会』pp.228-229)

 

本書の中、あなたは特別だと言われ続けナルシシズムと共に育った子供が、特別扱いされない社会に挫折感を覚えるくだりで、わたしはキュウソネコカミというバンドの楽曲「越えていけ」を思い出していた。

「気付いちまった自分は特別では無い 普通の人間ってことに」

学生時代に共感を覚えて聞いたという告白をするにあたり気恥ずかしい点がある。特別ではないと気付いてしまったとは、自らを特別だと思いもしなかった人は決して言わないのだ。モラトリアムというか中二というか……

そして続く「誰の人生だ お前の人生だ」や「才能なんて 運命なんて 後付け」といった歌詞を私が受け止められるのは、現代が封建社会などではなく、誰でも何にでもなれると子供に広く教える社会だから。

 

全員が特別というのはありえなくても、誰にでも個性はある。(略)

個性も、強調しすぎはためにならない。個性的だと聞かされ続けたティーンエイジャーは、自分は誰にも理解してもらえないと思い込んでいることが研究からわかっている。こうした子供は鬱になって自殺を考える可能性が著しく高い。成長するにつれて悩みは深くなり、個性が強すぎて誰にもわかってもらえないという思いから抜け出せずにいたのである。

しかし、例外を一つ紹介しよう。子供は親にとって非常に特別な存在だということだ。(『自己愛過剰社会』p.230)

 

あなたにしかできない仕事だの、好きなことをして生きるだの、適職とか適性とか働きがいとか人生の目的とか、用法容量によっては呪いになり得る言葉の海に生きている。

本質的に特別な人などいない。

ただ誰もが、その人を思う誰かにとって特別な存在で、その最たるものが親にとっての子である。

子は親にとって特別な存在だが、他の誰かがその子を特別扱いしなければならないことはない。お前は特別だと言い続けることが、子にナルシシズムを芽生えさせ、孤立させたり鬱にさせたりすることに繋がるのなら、確かにそれはもう呪いと呼んでも良いのかもしれない

 

でも、あなたは「私の」特別だと言うのは違う。ナルシシズムを助長する呪いの言葉ではない。ただの告白。やっぱりわたしは“YOU ARE MY SPECIAL”は愛の言葉だと思う

 

 

結局、伏黒甚爾が一番メロいです