二月。タイトルと装丁、それだけに惹かれて読んだ二冊の小説に、人生で一番好きなそれを重ねて更新された。たった数日のうちに二度も。
これは最近の私にとってなかなか衝撃的なことだったのだけれど、そういえば読んだ本の話をするときにわざわざ「タイトルと装丁だけで選んだ」などと言う必要はいつから生じたのだったか。
タイトルと装丁。いつかこれらは確かに、わたしが本を選ぶ基準のすべてだった
あなたは人生がいつ始まるのか知らなかった。幼い頃、あなたは勉強のできる子どもだった。いつも優秀な成績を持ち帰り、あとあとこれがものを言うんだよ、と家で何度も言い聞かされた。つまり人生とは、もっとあとに始まるものなのだ。
エリック・シャクール著『あなたについて知っていること』(加藤かおり訳、原題: Ce que je sais de toi)
今では望もうが望むまいが、あらすじや評判や著者のプロフィールがまるで呼吸をするように簡単に手に入る。
誰がコメントを寄せ、解説は誰が頼まれ、どこから出版されどんなふうに評価されている。ほとんど全てが帯やポップ、概要欄に載っていて、手に取るかどうかの判断材料になる。どんな本と同じ棚に置かれているか、どんな本と一緒に表示されるか。そういうことを見聞きせずに本を読む方が難しい。手に取る前からその本について知りすぎている。
特に私は保守的な人間で、放っておくとそういう情報をもとに、自分が気に入ると確信がもてるものばかりを選び、好きな人のつくる世界に引きこもってしまう。
リコメンド性能の高さが良かったはずのSpotifyで結局同じバンドの音楽ばかり選んで聴いているし、本だって似たような領域の学術書や同じ作家の小説を読み続け、一冊読んで苦手意識をもった人の別の作品にあえて手を伸ばそうとはなかなかしない。そういう人間なので、ずっと、どこかで強制的に自分の外に感覚の端を作っておかないといけない気がしていた。
たとえば小説を読むなら、読んだことがない作家、さらに「題が数字から始まる」「表紙が海」など意味不明な縛りを課し、自分があらすじを読んで気になる物語ではないそれを優先的に読んでみるとか。
今年に入ってから 読んだことない作家の小説を タイトルと装丁だけで選んで読むように意識していて、最近はそれに 女性作家かつ何か朝ごはんを連想する語を含む って縛りも重ねて数冊読みました。なんともれなく主要人物が不倫していた。ミルクとかはちみつとかダメらしい。パン派は不倫するってこと?
— ささやか (@oyasumitte) 2025年4月13日
まったく支持する気のない政党の党首の書籍をなるべく好意的に読んでみたり、白が二百色ある世界で性別はどこまでいっても二つだと思いながら、DEI系の講座に通ってみたりもする。
そうすると側から私は保守的に見えないらしく、普段はそれで何の問題もないのだが、相容れない思想を持つひとたちにうっかり政治や選挙を語られてしまい、閉口以外の道を失う日もある。
こと倫理観や価値観とよばれるものについて、説得にも議論にもほとんど意味がないことは、自分の思想と真逆の人の話を聞き続けてみているわたし自身が痛感しているところである。
何の話?
そう。小説なんて好きで読むはずなのに、読むなら好きなものを読みたいはずなのに、自分で選ぶと好みに偏るという謎の懸念により、わたしはわざわざ不利な賭けを続けていたのだ。
多すぎる国内小説の前で 自分で選ぶと偏るとか言って 数字で始まる縛りとか 食べ物を含む縛りとか 色で終わる縛りとか あえてランダムに読み散らかしてみた時間は何だったのか、最初からタイトルが何となく好きな海外小説を買えばよかったんだ、装丁で好きそうな感じがするのも想像以上に重要だった
— ささやか (@oyasumitte) 2026年3月21日
そして気付いた。私はもっとタイトルと装丁で本を選んだ方がいい。当たり前である。
ついでに日本の話より外国文学の方が個人的ヒット率が格段に高い。これはひとつ翻訳というフィルター、あるいはハードルを越えているからな気もするし、最近読んだ中で特に気に入った三冊から見ると、舞台が大陸なのも大きいかもしれない。島国ではかなわない大移動がひとつの鍵だった。そういえばここ数年繰り返し読んでいる国内小説も大概移動が多かった。『トップ・レフト』『未必のマクベス』あたりとか。
龍花 丈という男/黒木 亮『トップ・レフト ウォール街の鷲を撃て』 - どんな言葉で君を愛せば|oyasumitte
そして、わたしがタイトルと装丁に惹かれ読みだした『あなたについて知っていること』もそう。
この小説の舞台は二十世紀半ばのエジプト・カイロ。主人公は医師の男性で、名をターレクという。
人生はもっとあとに始まる。いまのところ、それはまだ人生ではない。
ちょうど、人生がいつ始まるのか知らなかった頃。わたしたちは、もっと純粋に物語を選んで楽しんでいたはずなのだ。ただそれを懐かしく思っても羨むことはない。自分の人生が始まってからの方が、他人の人生の物語が重く、眩しく、愛おしい。
しまいにあなたは、大人になるとは、なんにせよ一切の迷いが消えることだと考えるようになる。
けれどもある日、あなたははっきりと認識する。真の大人などほとんどいないことを。原初からある恐れ、青春期のコンプレックス、人生で初めて味わった屈辱を晴らそうとする決して満たされることのない渇望を完全に払拭できる人などいないことを。
この本には信頼できない語り手によるミステリーの色もある。ネタバレ怖さに主人公の人生が始まらない序盤ばかりを引用したが、言うまでもなく本番は、始まってからだ。ぜひあまり情報を入れずに読んでほしい。余計なことを知ってしまえば、手探りで進む体験は二度とできない。
そしてわたし自身、大好きなこの本についてこれ以上語りたくない。
仕事に関係する書籍、新刊や話題につられて手にした本について、読んであれこれ言うのは難しいことではない。でも自分で選んで読んだ本を片っ端からすべて見せることはできない。したくない。究極のプライバシーだと思っているし、実際に図書館の貸出履歴は個人の思想が容易に類推できてしまう個人情報として慎重に扱われてきた歴史もある。
好きにも嫌いにもほとんどすべて理由があるが、中でも特に、好きすぎる、逆にどうしようもなく受け付けない場合にそれをはっきりと言語化するのは憚られる。人間の本質とか人格とかいうものがあるとして、激しい感情はあまりにそこに近く、切り出してきて見せることができない。
昔読んだ別の本の一節を思いだす。
われわれ自身がそこに蓄積されてきた書物の総体なのである。それらの書物は、少しずつわれわれ自身を作り上げてきたもの、もはや苦しみを感じさせることなしにはわれわれと切り離せないものなのだ。
琴線も逆鱗も、等しく触れられたくない場所にある。『あなたについて知っていること』をわたしが好きな理由は、それらに近すぎるところにあった。
人はみずからの物語の外側にとどまることはできない。自分が存在する前に起こった出来事、自分に欠けていること、自分をつくりあげたものの外側にとどまることはできない。だから結局、自分自身について語るはめになる。
ひとつ、おそらく読む上でさほど邪魔にならない情報として、著者が発表する気もなく15年かけて書き上げたこのデビュー作を、従姉妹が地元の出版社に送ったところ即座に刊行されたというエピソードがある。これがしっくりくる柔らかさと、書き始める前に複雑な時系列や舞台の転換についてExcelで構想を練ったという堅実さが共存している。そんな小説が『あなたについて知っていること』である。
「あなたは人生がいつ始まるのか知らなかった」。
人生を始めた、あるいは気づいたら始まっていた大人にこそ薦めたい本です。ぜひ。
ただ人生は、どんなそれでも自分でどうにかする以外にはどうしようもなくて、自分以外の誰にも自分は救えなくて、ただ「大丈夫か?」と言い合える誰かと支え合って歩いていくのだなと思う。
わたしもとうに始まった自覚をもって人生をやっているけれど、大好きな漫画から実写ドラマという二次創作が生まれている現実とはまだ向き合えていないです。好きすぎると怖いじゃん、大事にしてきた今あるものを壊すのが、と中学生みたいなことを言いながら……

