どんな言葉で君を愛せば、

22歳新卒、OL人生のスタート

「もう何も信じられない」と言う人で本当に何も信じていない人はいない説

人は思いのほか軽率に他人に命を預ける。その最たるものが他人の運転する車に乗ることだなあと、父親の運転する車の助手席で目覚めた瞬間に思った。

父とのドライブに出かけると、私は平気で眠る。助手席に座った人間が寝ることに憤慨する運転手も世の中にはいるらしいけれど、私の父は「寝ていていいよ」と言ってくれるし、実際に安心感のある走り方をしてくれるので私は安心して眠ることができる。学生の頃から、実家に帰省した復路は大抵の場合、父が運転する車でのドライブになった。明け方に実家を出て、道中私は眠り、起きると自分が一人暮らしをしているマンションに着いていて、父に感謝しながら普通に大学に行った。

そういえば昨日東京から実家に帰ってくるときに使った新幹線だって、何気なく乗ってはいるけれど脱線事故が起これば死ぬかもしれないし、新幹線を気にし出したら毎日通勤に使っている電車だって同じように何が起こるかわからないわけで。それから、これは満員電車に乗っているとたまに考えてしまうことなのだが、身体の表面が見知らぬ他人と密着して身動きが取れないあの状況で、殺意と武器を持った誰かと隣り合わせてしまったら間違いなく死ぬ。自分の横にいる他人は自分に危害を加えないと信じられなければ、自分が乗った車両が目的地まで間違いなく線路の上を安全に走るだろうと信じられなければ、電車なんていう乗物にはとても乗ることができない。

例として車や電車をあげてきたが、これはそうした乗物に限った話ではない。道行く人が危ない人ではないと信じられなければ外を出歩けないし、家に引きこもるにせよその家を建てた業者や人がきちんと仕事をして安全な家を建ててくれたと信じられなければ、建物の中にはとてもじゃないが落ち着いて居られない。本当に何も、誰も信じられなかったら、人里で暮らすことはできないのだ。

人に何か期待して信じて、それが願った通りにはならなかったとき「もう何も信じられない」と言ってしまう人は少なくない。私とて、優しい男の人に優しく思わせぶりな言葉をかけられて、勝手ながら期待して、結局失恋しているような気がする今、もう誰も信じられないと言いたくなる自分の感情を持て余している。裏切られて人間不信になりそうだと、そんな絶望的な台詞を吐く誰もが、大袈裟に言っているつもりはないのだろう。でも「もう何も信じられない」と言う人が本当に何も信じていないことは実際問題有り得ないのだ。私たちは、自分以外の誰をも、何をも信頼せずに生きていくことができない。

私は匿名でツイッターを運用しているが、それは自分で使い方を考えればツイッターは匿名性を保って使えるものだと無意識のうちに信じられているからだ。マシュマロというサービスを利用して私に匿名でメッセージを送ってくれる人とて、マシュマロが匿名性を保ってくれることを信じているからそれを利用していることになる。

信じるとは、何だろう。楽観することと限りなく似ているような気がするのだけれど、信頼と楽観とは何が違うのだろうか。

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私は自分の、人に素直で良いと褒めてもらえる自分の性格の一面が好きだ。心配になるくらい性善説で生きてるよね と言われたことがある。それが君の良いところだけど、もう少しずるくなれないと悪意ある人間に食われてしまうかもしれない、と。私は確かに匿名でツイッターを始めるまで、自分に悪意を持って礼儀を欠いて向かってくる人や言葉に出会ったことがほぼ無かった。それは恵まれた環境であったと思うし、出会う人に育ちが良いと言ってもらえることはそうした私のバックグラウンドまでまるっと賛してもらえている気がして嬉しいものである。

そんな、基本的に人は自分に対して優しいものだし自分を傷つけようとしてくる人なんていないと思っている、というかそれを当たり前だと思ってきたので「自分は性善説に生きている」なんてわざわざ意識したこともなかった私なのだが、恋愛に関して言えば極端に楽観視ができない。この拗れ方が一体どこからきているのかわからないが、誰かに向ける好意が恋愛感情であると自覚した途端に楽観視が破滅的に下手になり、自分も他人も信じられずに、ここ数年はいつも同じように失敗している気がする。

 どうしたら良いのだろ。

もう向かうしかないか。アマゾンの奥地へ