思い出せなかった。
私が『愛がなんだ』を見たときにはきっとその記憶の中の自分をテルコに重ねるだろうと考えていた、その記憶に該当する時期に、自己投影しながら聴いていた歌を、どうしても思い出せなかったのだ。まるで靄がかかったように。
愛がなんだ
映画『愛がなんだ』公式サイト 2019年春 テアトル新宿ほか全国ロードショー
(以下、映画「愛がなんだ」について、わかるようなわからないようなネタバレを含みますので未視聴の方はご注意くださいませ)
号泣する準備はできていた。泣く気満々だったから気兼ねせず泣けるように、ひとりで、夜の上映回を見に行った。それなのに上映中は一度も泣けなくて、行き場のない感情の渦を持て余した私は、終わりかけのエンドロールを横目に鞄から静かにイヤホンを取り出し、フットライトが点き始めた瞬間にスマホの電源を入れて席を立った。
自分でも何を聴きたいのかわからなかった。でも「愛がなんだ」で感じた痛みをもっともっと増幅して、思い切り泣きたかった。私は「愛がなんだ」を見て泣くべきだと思っていたのだ。自分が一番「愛がなんだ」っぽかった頃に聴いていた歌を聞けば、そのときのつらい気持ちが蘇って泣けるはずだと。
そして無性にSHISHAMOを聴きたくなった。Spotifyを開いて、保存済みの曲リストにSHISHAMOでフィルターをかけて、上から一つずつ目で追っていく。どれだろう。
はやる気持ちの中で最初に目を止めたのは「ごめんね、恋心」だった。そう、諦めなきゃって自分で見切りをつけて好きでいるのをやめたナカハラくんは私だったし、私もテルコみたいに好きなのに好きだから好きじゃないって嘘ついたけど、平気なふりしていつも心で泣いてたけど、でもテンションが違った。違う、今聴きたいのはこれじゃない。
その次に惹かれたのは「笑顔のとなり」だった。流してみたら、ああ、これだったかもしれないと思った。いい恋なんてしたくなかったし、いい男じゃなくても、お金なんてなくてもマモちゃんみたいな彼のことが好きだったんだよね。でもやっぱりこれも違う。だってわたしは本当は、彼といい恋をしたかったのだ。毎日泣いたり、不安が消えなかったり、そんなの全然欲しくなかった。いい恋をしたかった。思い出したら胸が温かくなるような、そんなお揃いの記憶が欲しかったのだ。
「推定移動距離」も「あなたと私の間柄」も切ないけど、違う、違う、そんな温い歌じゃなくて。欲しいのはもっともっと激しくてもっと強がっていて痛々しい、そう、「BYE BYE」みたいな。そういう曲。
あーあ 最後まで君はね
あーあ 知らないままだったよ
本当の私知った気でいたでしょう?
本当はいつも寂しかったし
本当はもっと私笑えるし
空を飛んでる姿だって知らないでしょ?
なにも、知らないでしょ?
♪BYE BYE / SHISHAMO
映画館の外はうるさくて、それに負けじと大音量でSHISHAMOのBYE BYEを聴きながら駅まで歩いた。その間にBYE BYEは終わってしまって、他の曲は聴きたくなくて一回戻した。電車を待ちながら、ホームの端で少し泣いた。家に着くまでずっと、イヤホンの外の音を何も聴きたくなくて、電車に乗っている間も最寄りに着いてからも、繰り返しその一曲だけを大きな音で聴いた。家に着く頃には耳が少し痛くなってきて、夜風で涙も乾いていた。
愛がなんだは、場面ごとに切り取って見れば胸が痛くて仕方ないほど見覚えのあるシチュエーションばかりだった。私はテルコというよりはナカハラだったけれど、確かにテルコとマモルの姿は大まかに言えば私が一番「愛がなんだ」っぽかったあの頃の、私と彼に重なった。それでも、なんでだろう、私はやっぱりテルコではない。私はテルコに似ているのだろうという予想に反して、私はテルコではなかった、というのが「愛がなんだ」を見た感想として一番大きかった。
泣けないながらも泣けそうだったのは、ナカハラくんが「つらいからもうやめたい」と話したシーンと、マモルが「何も考えてなかった」と言ったシーン。やっぱりナカハラはあの頃の私で、マモルはあの頃の私の“友達”だった。
私は、このブログやさやか名義のツイッターでしか「愛がなんだ」を見たと言えない。それはリアルな私の周りには、私が「愛がなんだ」を見たときに誰に自分を重ねて、田中守に誰を重ねてあの映画を見るのかを、勝手に想像してわかったつもりになってくれるであろう人が多すぎるからだ。そしてその中には、私がタナカマモルにその幻影を見る“彼”もいる。
こんなに気分が落ち込むのは別に、君が煮え切らないからじゃない
うぬぼれないでよ
♪ きっとあの漫画のせい / SHISHAMO
1年前の私はナカハラくんだった。好きな人に「都合いいように使って。それで私は幸せだから」と言ってアンバランスでいびつな関係に甘んじて、でも結局自分が自分のつらさを見ないふりできなくなって、色々限界になって「もうつらいからやめたい」と宣言して、好きだった人から離れた。私もつらかったし、私がつらそうにすることで、好きな人が誰かの目に悪人であるように映ってしまうことに耐えられなかったのだ。そして「あなたのことが好きだからもうつらい」と言ったその口で、好きな人に「今まで俺が何も考えなかったせいでつらい思いさせてごめん」と謝られたときに返したのは「全然大丈夫だよ!実は私あなたのこと全部好きってわけじゃないし、そうやって何も考えてくれないとことかほんと嫌だなって思うし、だからそんな、自分が私を辛くさせたとか思うの、自惚れだから(笑)」みたいな強がり。今でこそ、いやいやいやお前好きだからつらいってさっき自分で言ったじゃん、と突っ込みたくなるけれど、当時は本当に彼が絶対正義で、彼が自分に対して罪悪感を抱くなんて一番嫌なことだった。
申し訳ないとか悪かったとかそんな感情全然欲しくなくて、ただ都合の良い私を選ぶか、選ばないならとことんクズであって欲しかった。自分への好意を利用して抱いたクズなら最後までクズであって欲しかったのに、結局その彼もマモルも特別なクズではなくて、ただ「これまでメチャモテたことはないけどそこそこ付き合いはしていた男が自分が突然どハマりしたおかげで調子に乗って」いっただけの、普通の男だった。そういうことだ。
私は「これまでメチャモテたことはないけどそこそこ付き合いはしていた男が自分が突然どハマりしたおかげで調子に乗っていくのを泣き笑いで見送ってきた女」なので、やっぱり愛がなんだを見ないといけない気がしてきた
— さやか (@oyasumitte) 2019年4月29日
特別クズな人ではなくとも、自分に対して下手下手に出てくる自分に好意的な人間に、人はどこまでも残酷になる。私だって好きな人に対してはナカハラやテルコのような立ち振る舞いをするくせに、自分のことを好きな人間に対しては守や葉子のような自分勝手で気ままな関わり方をすることもあって。私の中にはナカハラもマモルもヨウコもテルコもいて、だから愛がなんだは一場面ごと切り取れば共感できる要素しかないのに、そうやってみんなに少しずつ共感できるせいで結局は誰も悪人じゃなくて誰も善人ではなくて、それがあまりにも痛かった。
ていうか神林さんかっこよすぎない?田中守と神林さんがいるときに神林さんの方に惚れないとしたらテルコはやっぱりおかしくない?
あなたにされたひどいこと
そんなの全部忘れたわ
あなたに言われたひどいこと
そんなの全部忘れたわ
だけど涙が止まらないのは
あの漫画の女の子が
惨めで可哀想だから
私に似て可哀想だから
♪ きっとあの漫画のせい / SHISHAMO
というのも、1年前、私は守のような“彼”と「もう変な関係を終わりにしよう」と話してから1週間後、神林さん的な人、つまり“彼”の友達と待ち合わせをしていたのである。いつものように待ち合わせ場所に早く着いた私は、SHISHAMOのBYE BYEやきっとあの漫画のせいを聴きながら時間を潰していた。「今も私があなたを想って泣いてるなんて思うの?…笑わせないでよ」という歌詞を聴いて、やっぱり少し泣いていたのだ。私があなたを想って泣いてるとか、私がまだあなたのことを好きでいるなんて思ったの?そうだよ、まだどうしようもなく好きだったよ、ウケるよね。笑ってよ。
でも私はまともな人間だからテルコみたいに守だけに執着はできなくて、その日からあっというまに神林さん(神林さんではない)に惚れ込んで守(守ではない)のことは吹っ切れたのだった。何が言いたいかというと、つらいこともあるけれどそうやって世界はまわっていて、私が「愛がなんだ」を見たときの胸の痛みだって数時間経ってしまった今となっては明確には思い出せなくて、どんな風にこのブログを着地させれば良いのかもわからなくなってしまったので終わりますということです。「愛がなんだ」、どうしようもなく痛い映画でした。
自称クズはすぐ「なんで俺みたいなクズがいいの?好きになるようなとこないでしょ」って言ってくるくせにこっちが「うーん、なんでだろうね」って返すと「は?改めて言われるとむかつく」って笑うよね、まあそういうところが好きだったんだけど。
映画を見た人且つSHISHAMOの曲もわかる人でないと何を言っているのかよくわからないブログを書いてしまったこと、後悔はしていませんが反省はしたいと思います。ごめんなさい。お読みいただいた方はありがとうございました!おやすみなさい。さやかでした。
「幸せになりたいっすね」