どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「あの漫画の女の子、私に似てる」という痛みの正体

 

バズるツイートや流行る歌にはいろいろな要素があるしトレンドは確かに移り変わるけれど、いつの時代もヒットを生む定石は「これは私のことだ!」といかに多くの人に思わせるかを考えることだと思うのだ。

 

 

自称発達障害、自称うつ病、自称意識障害の人がインターネットにはたくさんいる。まるでアクセサリーでも着けるかのように自分の属性としてプロフィールに書き連ねている。

そのこと自体が良いとか悪いとかではなく、自分の感じてきた生き辛さが病気だったり障害だったり、何にせよ「名前のある何か」として認められているとわかったときの喜びに似た安堵感は、多分誰もが抱く感情なのだと思う。その度合いには個人差があるけれど。

 

そして、人は同じような属性を持った人たちと繋がりたがる。

「ソーシャルウェブの登場により、多種多様な人々と交流することが可能になった」という考えを抱いてしまうかもしれない。しかし実際は、私たちは自分に似た人々としか交流していない。これは「ホモフィリー(同類を好む傾向)」と呼ばれ、さまざまな角度から研究されてきた現象であり、ソーシャルネットワークにおける基本的な構造のひとつである。

ポール・アダムス『ウェブはグループで進化する』

自分のことをわかってほしい、わかってくれる人と繋がりたいという思いは、人の根源的で普遍的な欲求なのだと思う。

 

私は大学生の頃、心理学系の講義をとるのが好きだった。ある講義で様々な「人格障害」に関する簡単な診断が実施された際、先生が繰り返し言っていたことをよく覚えている。

「障害の有無は、グラデーションを描くように繋がっている。つまり程度の問題であるから、自分が各項目に当てはまると思っても、すぐに障害だと思い悩まないこと。誰にでもそうした特性や傾向はあり、著しく実生活に支障をきたしているのでなければ障害であると思う必要はない」

これは推測だし偏見にすぎないけれど、おそらく自己診断でいろいろな発達障害・意識障害を名乗る人の中には、先生の言ったとおり「当てはまっている!私って○○障害だったんだ!それは苦しいわけだ!」と思ってしまった人がいるのだろうと思っている。

 

人はいつも自分のことを誰かに知ってほしくて、認めてほしくて、簡単に全部わかったつもりになられるのも嫌だけれど、全くわかられないのはもっと嫌で。本当に面倒くさい。

でもそういう面倒な欲求があるからこそ、何かの診断や占いで「すごい!当たってる!」「どうして私のことがわかるの!?」とキャッキャするのが好きなのではないだろうか。

 

余談だが、私は占いの類を信じていないというか、あの人たちって大概何も言っていないなと思っている。「あなたって実は人に認められたい欲求が強い一面があって」とか、「普段本音をそのまま口に出すことはあまりないあなた」とか、誰にでもちょっと心当たりがあるようなことを曖昧に指摘してみせているだけだ。他者からの承認は誰もが求めるものだし、普通に社会性がある人間なら丸裸の本音ばかり言ってはいられない。

こんな風に、占いや診断を伴うことで本来誰にでも当てはまる一般的で曖昧な特徴が「自分を言い当てた言葉」のように聞こえる現象は、バーナム効果(フォアラー効果)と呼ばれる。

 

そういえば私は最近「前から思ってたのだけど、あなたは過剰適応の気があるよね」と言われた。占い師よりは信用できる人からだった。

いつからかは覚えていないが、苦しいときも気丈に振舞ったり相手に自分を合わせたりしておきながら、その相手が私をいい子だと評価してくれたときに、暗い気持ちを抱くようになっている。自分が心の内と違う行動を取っておきながら、それを他人に気付かれないのが面白くて悲しくて。

 

たとえば会社の先輩に、辞めそうな後輩のことが心配だと相談されて「私は大丈夫に見えてるのね、全然大丈夫じゃないのに」とか思うくらいなら、私もつらいと示せばいいのにそれができない。自分のお気持ちを仕事に持ち込みたくない気持ちが勝つ。

たとえば誰かに、失恋をもう笑い話にして強いねと言われたら「強く見えるのね、よかった」と満足する。私がありたいのはそういう強い女だし、実際は泣くほどつらいなんて人に言うことでもない。でも虚しくなるのは、私が強い女になんてなれずに毎日泣いていることを、私は知っているからだ。

 

我ながら自分で自分の首を絞めていて頭が悪いと思うが、そういう面を踏まえて指摘されたのが先の「過剰適応の気」だ。

「過剰適応の気」がある私にとっては、誰かに自分を評されたときに「そう見えるのね、実は違うのだけれど」と思うことは悪手ではないらしい。自分の外面と内面が違うことを意識的に認めることは、他者評価から自分を守ってしんどさを軽減する方法として有効だというのだ。

 

自分の虚しさの原因に名前がついたとき、私は妙に安心してしまった。「本当は違うのに」と自意識を拗らせていることを正当化されて微かに嬉しかった……とはいえ、先刻こんなことを書いたばかりだ。

「あなたって実は人に認められたい欲求が強い一面があって」とか、「普段本音をそのまま口に出すことはあまりないあなた」とか、誰にでもちょっと心当たりがあるようなことを曖昧に指摘してみせているだけだ。他者からの承認は誰もが求めるものだし、普通に社会性がある人間なら丸裸の本音ばかり言ってはいられない。

組織や集団の中で生きていれば誰だって外面と内面はある程度違ってくるはずで、失恋程度で会社にいても仕事が手につかなくなるような人の方が問題というか、特別だろうと思う。どうしようもなく悲しくてもそうでないときと同じような態度で同じような生活を続けるのは、あまりにも普通のことだ。どれくらいありふれているかと言うと、左右非対称の目くらいありふれている。誰もが人には見えない何かを抱えながら、何でもない顔をして電車に揺られたり会議に出席したりしているはずだ。

 

自分にしか見えていないようだった悩みに名前があったときの嬉しさと、占いで自分を言い当てられたと思い込むときの快感は、やっぱりちょっと似ていると思う。

そして、失恋のあと生傷を抉るように失恋の歌ばかり聞いてしまうのも、方向は違うけれどそれを欲する気持ちの出処は近いような気がする。歌詞やポエムは「これは私のことだ」という共感を呼びやすいように、敢えて曖昧に描かれることが多いと思うのだ。そもそも字数にもある程度制限があるし。

そんな曖昧な歌詞と自分の経験とを重ねて聞くときの痛みは、誰かに自分の内面を理解された喜びに多分近い。今の自分と同じような気分でいた、いつかの誰かを愛おしく思う。わかったような、わかられたような気分になれる。だからこそ、その痛みがたまらなく気持ち良いのではないかしら。

 

あなたに言われたひどいこと

そんなの全部忘れたわ

だけど涙が止まらないのは

あの漫画の女の子が惨めで可哀想だから

私に似て可哀想だから

きっとあの漫画のせい - song by SHISHAMO | Spotify

 

人はいつも自分のことを誰かにわかっていてほしくて、それなのに理解されるように動いていないのは自分だったりして、一方で誰かのことをわかりたくて、そう努めても相手の欲求を上手に満たせないことは珍しくなくて。いや、「人は」じゃなくて「私は」なのかもしれないけれど