どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「好き」とはいったいなんでしょう

「ねえ、私のこと好き?」

女が目を潤ませながら首を傾げて発するこの質問に匹敵するほど面倒な質問は、世の中にそれほど多くないのではないか。完全に男からの「うん」「好きだよ」というイエスの答えを期待している、というか、ノーが返ってくる可能性を考えたら口に出すのは憚られる問いだろう。「うーん、どうだろう」「わからない」と言われたらどうするつもりなのか教えてほしい。イエスを得られる自信がなくて、自分が自分の嫌いな“面倒な質問をする女”になってしまう勇気がなくて、喉まで上がってきたその質問を今日も飲み下してしまった私に、誰か。

わからなくて困ったことがなかった

なぜ私が「私のこと好き?」と聞くような女に苦手意識があったかというと、おそらく今まで自分が男の人に「私のこと好き?」などと聞きたくなったことがなかったことが大きい。私の好きになった人には次の3種類しかいなかった。①「君が好きだ」と言ってくる人間、②「君が好きだ」とは言わないが言動で好かれているとわかる人間、③「君のことは好きだが恋愛感情はない」と言ってくる人間。私は基本的に卑屈な性格をしているため、②は余程のことがない限り確証が持てない。そして確証が持てない限りは「この人は私のことを好きではないのだろう」という認識に落ち着いてしまう。

そして私が好きでいる人が私のことを好きである必要はなくて、私が彼を好きでいることを彼が認めてくれて隣においてさえもらえれば幸せだと思っていたり、私が好きだと言ったときに口先だけでも「俺も君が好きだ」と言ってくれるなら、行動が伴っていなくても二つ返事で付き合ってみたりした。今までは。

「好きになった人がタイプ」

「好きなタイプは私に興味が無い人」と言ってみた時期もあった。私に興味が無さそうな、つまり他の物事や人よりも私の優先順位が著しく低い人を好きになってしまったからだったのだと思う。その人が、私に興味がない人だから好きになったのではない。私に興味がないその人を好きになってしまったから「私は私に興味がない人が好きなはずだ。そうでなければおかしい」と自分の好みを捻じ曲げて認知的不協和の解消を図るしかなかったのではないか。

映画『愛がなんだ』には、主人公のテルコの好きなタイプが変化していることについて、ヨウコが自分に嘘をついて好みを捻じ曲げているのではないかと指摘するシーンがある。テルコはまさに「好きになった人がタイプ」パターンである。

でも結局そうやって即席で曲げた好みって根本的には自分と繋がっていなくて、その対象が外見やその他重要でない点なら良いのだけれど、私のように「私にあまり興味が無い人が好き」とか「あまり優しくない人が好き」とか、そういう関係性を築く上で重要になるポイントで同じことをしてしまうと厳しい。私は私を雑に扱う人が好きだったわけではなくて、状況として、好きだった人の中で私の優先順位が低くなっていることを受け入れようとしていたに過ぎない。でもそれを自分が選り好んでいるのだと思わないと自分が不幸であることを認めなければならず、不幸でありたくはない私は「好きなタイプ」を「好きになった人」に寄せていき、「私は私に興味が無い人が好きだ」と思い込むしかなかったのである。

好かれたいに決まっている

しかし、好きな人には好かれたいに決まっている。好きな人には優しくされたいに決まっている。仕事やそれに準ずる予定を除いて、その他大勢よりは自分を優先されたいに決まっている。決まっているのだけれど、今まで私はそれを堂々と言うことができなかった。正確に言えば、今も、だ。付き合うことになった好きな人と「思ったことは何でも言い合う」と約束したけれど、私は未だにそれができずにいる。付き合う前後の彼の言動の変化を受け止めきれずにいて、彼に好かれている気がしないからである。そういう気になっているけれど言えないことはいくつか溜まってしまっていて、それらすべてが私に「ねえ、私のこと好き?」と言わせようとしてくる。今日も口をついて出そうになったその質問を何とか飲み込んだけれど、近いうちに耐えきれなくなる予感があって、とても怖い。