食べることと、生きること。
その強い結びつきを綺麗にうたう言葉が昔から好きだった。
涙が枯れた朝でさえ
やっぱりお腹は 空くのだから
私は また 人を好きになるのでしょう── チャットモンチー「愛捨てた」
実際、私は、この世の中でどれほど楽しみをみつけ得るかということが、女のかしこさの度合いだと、この頃つくづく思うようになっている。そしてそれは、自分にどれだけ美味しいご馳走を食べさせてやるか、ということである。
── 田辺聖子『いっしょにお茶を (角川文庫)』
「泣きながらご飯を食べたことがある人は生きていけます」とかもそう。
おそらく間違いがないと感じるからだと思う。泣いて泣き果たして虚しくなり、それでもお腹が空くことさえまた悲しく感じられても、食べて、寝て、生きていくということ。気を取り直して生きていくために、自分に、誰かに、おいしいものを食べさせること。
そういうわけで、「おいしいと思うことができれば 人生はきっと大丈夫」という帯に惹かれて買った短編集も気に入っている。その内ある一編に添えられた短歌。
うまく驚いたりうまく求めたりするのを
みんなどこで習うの──加藤千恵「サワークリームオニオン味チップス きっとさいご」『あなたと食べたフィナンシェ (幻冬舎文庫)』
誰も教えてくれなかった、みたいに誰かのせいにしないで「みんなどこで習うの」と詠う感覚がとても好きで、最新刊のこの尖った歌とも地続きだなと思う。
──加藤千恵『友だちじゃなくなっていく』
そういえば同じ作家の作品の中で私が一番好きな短編も、食べ物に纏わる話だった。
話したいことがたくさん残ってる
中華料理で何が好きとか──加藤千恵「酢豚」『真夜中の果物 (幻冬舎文庫)』
「話がある」と不意に言われることほど怖いことはそうないけれど、「話したいことがありすぎる」と呼ばれるほど幸せなこともそうそう無いかもしれない。先週そう思ったのだった。
どうでもいい話をされたくて、情けない話ほど聞きたい。一方で聞けないことと話せないことばかり積み上がってもいた。
まだ話していたいと腕を掴まれた眠い手のひらの熱さ、おれはだめだからで始まる可愛い自分語り、あなたに都合が悪そうなことは全部覚えてないふりをしたこと。
迎えに来られる度に、何でもないように次の約束が生まれる度に、再会する前の私が報われる気がしたこと。他にも、愛だと思いたかったこと。
私に好きだとか言うその口が、おれには少なくともこの先5年は結婚願望がないと 再会した日に言ったのを覚えている。べつに今の私にもそんな名前のつく気持ちは多分ないけれど いつかあなたを恨みたくない
— ささやか (@oyasumitte) 2025年1月20日
おれたちこんなに似てたっけ、という言葉を最後にしばらく距離をとったこと。自分はだめだと言う人が自分に似ている人を好きなわけがないと思ったし、本当に似ているなら私はあなたに影響を受けすぎた。
そんな名前を呼ばれても平気なだけの友達を特別にしたくもなかったので締め出して、別の人を招き入れてみたら、呼ばれることに違和感がない人の特別さが明確になるばかりでおしまいだったこと。終わりです。
でも名前を呼ばれても平気なだけの友達に、会わない間も元気でいてほしいと思う私の気持ちの方は、それだけはべつに全然ずっと愛だなと思っている。
何の話?
火中の栗……そう火中の栗だ、日本らしい意味の方。
渦中のそれを拾わずにいられないタイプの先輩が、自分が蒔いたのでない家中の豆を拾い集めた愛の話を聞いて、この人がいる限りここで頑張りたいと思い直した節分の話をしたかったのに。気づいたらもう三月ですね。
──加藤千恵『友だちじゃなくなっていく』
年末に失くしていたダイヤの指輪は、家中探しても出てこなかったので結局買い直しました。
今年は色々ちゃんとする。躓いてはいないと思いたい