私は昔から、お人好しのふりをしてきた。
東にいじめられている同級生がいれば行って人目につかぬよう話し相手になり、西に皆から無視されている先輩がいれば残業中にこっそり御用伺いなどをし……
「共感力が高い」と言ってもらえることが多いのは有難いことだが、おそらく私は共感しているフリが上手いだけだ。「相手の立場や気持ちを否定せずに話を聞いて勇気付けられるのも才能」だと言われると、まあそうかもしれないと思う。その言葉自体は言われて嬉しかったこととして素直に受け止め、自分の中にしっかり留めておきたい。
でも実際のところ、私は結構ひどいやつだ。彼氏にも、倫理観を棚に上げてした行為をまた棚に上げて倫理観を語るところとか、彼に垢バレしてもなおツイッターで得体の知れない男性たちとつるんでいるところなんかを挙げて「サイコパスだ」と言われているし。
学校で同級生がいじめられていたり、職場で皆から疎まれて仕事がうまく進まずまた疎まれるという悪循環に陥っている先輩を見かけたりしたら、何もせずに放ってはおけない。でもそれは彼や彼女たちの力になりたいというよりは、何もせずにいて彼らがどうにかなってしまっては後味が悪いなという保身からだ。それに「あっち側にいたのは私だったかもしれない」「私もいつあちら側になってしまうかわからない」と思うと、何だか自分もだんまりを決め込んで彼らを傷つける側に与しているのは気持ちが悪い。
このように私は、自分がすっきりするために偽善を働いてきた。幸運にもそれを優しさだと言ってくれる人がいたというだけのことだ。
私は、表面的には良い子だったし、優しい人だった。多分ずっと。少なくとも私に直接語られる評価はそんなものだった。先生の話をよく聞き、他の生徒には分け隔てなく快活に接し、皆に好かれる良い子です……小学生の頃からそんな評価を当然のように受けてきた。それが私だと自分でも思っていた。
でも私のオナニー的な偽善はやっぱり、本当の優しさではなかったのだ。優しさは責任を伴う。無責任な優しさは時に暴力的にもなる。
関係部門の気弱そうな先輩が私の先輩に嫌われていつも可哀想なことになってて、さすがにあんまりだと思って先輩にわからないように何度かサポートに入ったのだけど、ちょっと懐かれすぎた気がする。いじめられっ子を隠れて励ましてたらある日突然告白されて戸惑った小3のあの日から何も成長していない
— さやか (@oyasumitte) 2020年4月17日
弱っているときに人目を忍んでコソコソ優しくされたら、誰だって「この人にとっても自分は特別なのかも」と期待する。「好きだから優しくしてくれるのかもしれない」とか「私のことを少なからず好きだからこんなことをしてくれるのだろう」とか思うことは何もおかしくない。私だってクズな遊び人に心をザクザク抉られて愛に飢えていたら、女の身体欲しさに優しくしてくれる人のことだって好きになってしまう。というか実際に好きになって沼に落ちた側だから、弱っている人に優しくするというのがどれだけ尊くて、予後次第ではどれだけ残酷にもなり得ることなのかを弁えているべきだった。
弱っている人に「私のことを頼ってもいいですよ」というサインを出しておいて、いざ相手がこちらに一歩踏み込んで自分に寄りかかろうとしてきたら引いてしまう。相手が自分を好きになっても仕方がないような種を無自覚に蒔いて水やりまでしながら、芽が出たら「そんなつもりじゃなかった」と放置して枯らしてしまう。
そんな無責任な偽善行為は、結果的に、何もしないで放置した場合よりも相手のことを傷つける結果に終わりがちだ。そのことに薄々気付きながらも、同じ過ちを何度も繰り返しながら大人になってしまった。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」らしいが、経験からも学べていない私は愚者ですらない。社会人も2年目になったことだし、そろそろ愚者にはなっておきたい。
「しない善よりする偽善」という言葉がある。ただ状況が良くなるように思いを馳せたり偽善者を批判したりするよりも、動機が何であれ誰かの役に立つ行動を起こしている人の方がエラいという考え方だと思う。優しい人かどうかは心でなく行動で決まる、人の役に立つ人間にこそ価値がある、そういう響きがある。
では、善と偽善の違いは何だろう。困っている人が存在するとき、何らかの報酬を求めてその人たちにはたらきかける行為は偽善だと思われるかもしれない。でも報酬を得なければ続けられない善な行為もあるかもしれない。それに、真に利他的・愛他的な行動と、痛ましい状況を目にしたことによる自らの不快感を低減させるための援助行為だって、傍から見ると区別がつかない。だからこそ私はこれまで「自分のためにしたこと」を以って優しい人だという評価を与えてもらってきたのだ。
優しさとは何だろう。いじめられている同級生がいても、仕事がうまくいっていない同僚を見かけても、彼らが自分に対して抱く感情にまで責任を持てないのなら何もするべきではないのだろうか。自分が満足するための偽善なんて、無い方がずっとマシなのだろうか。無責任な優しさや責任をとれない愛は、推しにしか向けてはならないのだろうか。
「推し」という言葉は「責任を取らない愛」のことだと解釈してる
— 鰆の和風ムニエル (@hironica) 2020年1月16日
最近の私としては、利己的な動機による無責任な偽善行為は、何もしないよりも悪いかもしれないなと思っています。する偽善よりしない善。人に優しくするって、難しいわね。できるならずっと優しい人でありたいのだけれど。
やさしさとは何なんだろう 君に駆け寄る速さか
それとも落ちた涙を一緒に拾うことか
愛の意味とその価値を僕は考えたけど
答えが見つからなくてただ歩くしかなかった
♪♪ 乃木坂46「やさしさとは」