どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実態にほかならない」

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マシュマロありがとうございます!

お返事が長くなりそうだったのでnoteを書こうとして、noteにしては長くなってしまったのでブログにしました。つまりとても長いので、先に結論だけ発表します。

おすすめの本はこれです。大学の図書館で読んでもいいですし、お金に余裕がある方はこちらのリンクから買っていただくと私に小銭が入ります。何卒よろしくお願いいたします。

 

結論から書いてしまいましたが、本当は最初に確認しておきたかったことが2つあります。まず、20歳の大学生なら焦る必要はないということ。そして、憧れと言っていただいた私も語彙や教養を十分備えているわけではないということです。

順番に説明しますね。

 

私は、マシュマロで並べていただいた一般常識と教養、語彙力は、どれも一朝一夕で身につくものではないと考えています。まだ大学生のあなたが自分にそれらがないと焦ることには、必要性も妥当性も無いと思うのです。むしろその焦りから「これを読めば教養は完璧!語彙力は十分!」みたいな本に飛びついて、それを読むだけで満足してしまうことが一番怖いと感じました。

今回そういった意味でおすすめの本を聞かれていた可能性を考えると、全く答えになっていない答えで申し訳ないのですが……その場合は以下を読む必要はありませんので、他の方に質問し直してみてください。

 

私は、常識と教養はともかく、語彙力はインプットとアウトプットを繰り返して身につけるものだと考えています。出力しないと自分のものにはならない一方で、入力したもの以上のものは出せません。

その意味ではどこで何を見聞きするかは重要だと思っていて、大学生には、大学の図書館で自分の興味範囲の中にある本を最新刊から古典まで遡ってみることをおすすめしたいです。

古典を絶対視するわけではありませんが、時を経ても名著と言われる書籍や、何だかんだ皆が真実らしく受け止めている一般論には、多くの場合それなりの意味や価値があります。一方で、最初から読みにくい古典に体当たりして嫌いになってしまうより、長く付き合っていくためにとっつきやすさを優先したって良いと私は思います。だから入口は読みやすく理解しやすい解説や、古典を引用している読みやすい本から入ってもいい。ただわかりやすく説明しようとするときに落ちてしまう部分は確実にあるので、自分が究めようとする狭い範囲においては、原典まで遡ることをおすすめしたいです。

 

そうして読む本の中で出会う見慣れない言葉を、最初は多少恥ずかしくても自分の語彙として使ってみてください。わからない言葉にぶつかったら辞書を引いて、できれば対義語と類義語を見て覚えておく。辞書は紙でもネットでも良いです。使う場面も、ツイートでもブログでも誰かとの会話でも何でも良くて、とにかく誰かのものとして仕入れた言葉を、一度自分のものとして出し直す。この恥を捨てるチャレンジを間違っても良い場でたくさん済ませておくことが大切です。それがいつかここぞという場面で、人の言葉を借りて上部だけ取り繕おうとして大失敗することから、自分の身を守ってくれるはずです。

 

常識力も語彙力も、誰かの真似から始まるものだと思うのです。始まるというか、言ってしまえば少なくとも私はそこに終始しています。本に限らず、自分がいいなと思う人の知識の入れ方や出し方を見て、そのかたちを真似てみる。一般常識なんてどうしたって主観的なものだし、そうとされるもの全てを把握できるわけがないけれど、あるふりをしてみるのです。常識的で語彙が豊富に見える人の真似を繰り返すことで、誰かから見たあなたは常識的で語彙が豊富な人になっていくように思います。

 

「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実態にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない」

カート・ヴォネガット・ジュニア(飛田茂雄訳)『母なる夜』

母なる夜

 

さてここまで、とりあえず形から入れということを長々と書いてきました。真似をすることは基礎であり応用でもあると私は思うからです。

同時に、わかったようなフリだけが上手い人になってしまわないためには、作った形に中身を詰めていく作業、つまり何かを体系的に掘り下げて学んでおくことも必要だと考えています。人の真似で形作った表面に奥行きや重さを生むのが、所謂、教養なのではないかと。

教養とは何か。

よくツイッター(上の私の観測範囲)でも話題になっていますね。これについては昔読んだ『読んでいない本について堂々と語る方法』という本の定義が面白かったのでおすすめしたく、少し長くなりますが引用してみます。

 

「教養があるかどうかは、何よりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。

したがって、教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているのである。ある本の内容とその位置関係というこの区別は肝要である。どんな本の話題にも難なく対応できる猛者がいるのは、この区別のおかげなのである」

ピエール・バイヤール(大浦康介訳)『読んでいない本について堂々と語る方法』

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

重要なのは何を読んだことがあるか、何を知っているかではない。知っていることと知らないこと、新たに知ったこと、それぞれをどう関連付けて、あるいは切り離して位置付けることができるかどうか。

何かを掘り下げて学ぶ経験の中で培う、抽象と具体を行き来する力、過去に得た知識と目の前の対象を繋げる力みたいなものが、教養の正体なのではないかと思います。

 

そして仮にそれを教養だとしたときに、身につけるための一番の近道は、専門分野を持つことだと思うのです。そこで身につけた学びの型や、時には得た知識そのものが、他分野の理解にも繋がっていくはずで、そうやって自分の中にあるベースを別の問題の理解に上手く役立てている人は、おそらく傍から見たときに教養ある人と映るのではないかと思います。

だから最初に「大学生には、大学の図書館で自分の興味範囲の中にある本を最新刊から古典まで遡ってみることをおすすめしたい」と書きました。そしてこれは大学生なら自然にしていることだとも思うので、自分には教養が足りないというマシュマロをくれた方にも教養が無いことはないはずです。

 

まとめると、「一般常識や教養、語彙力が周りの人に比べて乏しい」と感じているのであれば、まず自分よりそれらを持っているように思う周りの人の真似をしてみることがおすすめです。並行して人並み以上には語れる自分の専門分野を持つよう努めることで、いつか真似が真似で終わらなくなるように思います。

紹介した『読んでいない本について堂々と語る方法』は、その道半ばで「〇〇を知らないなんて教養が足りない」みたいな心無い誰かの教養マウントに遭った時に、読んでおいてよかったなと思えるかもしれない本です。よろしければぜひ。

いただいた質問に対する答えになったかどうか自信がありませんが、マシュマロありがとうございました!

 

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