話したいことがたくさん残ってる 中華料理で何が好きとか
これは私が一番好きな短歌。収録された短篇集『真夜中の果物』は、4ページほどのショートストーリーにそれぞれ短歌が添えられる構成で、この短歌が添えられた「酢豚」というお話も大好き。
さて先月、その作者の新刊が出た。
わたしは好きなピアニストの海外公演を見に行く足で書店に立ち寄り、機内で読むつもりで購入。結局待ちきれずに空港で読み出してしまったのだけれど、序盤からどうにも様子がおかしい。今作もやはり表紙は可愛いのに、何かがおかしい。
いや、そうはならんやろ、と内心で3回エセ関西弁が出たところで読むのを止めた。スーツケースに仕舞い込み、そのまま年を越してしまっていた。
だって、現実の共感と存在しない記憶の再生による共感とで胸が震えてしまうのが、加藤千恵の作品だった。
「どれだけ一緒にいても、わかりあえない。でも近づきたくて、もどかしい。一筋縄ではいかない女同士の人間関係に悩めるあなたの心を鮮やかに解き放つ、共感度MAXの8篇!」
(『一万回話しても、彼女には伝わらなかったこと』裏表紙より)
先述のお気に入り短篇集とは出版元など異なるとはいえ、今作も確かに紹介文には「共感度MAX」と書かれていた。それなのにどうしてこんなにも理解に苦しむ展開ばかり
どう考えてもおかしい。短篇ゆえのさっぱり感はあるものの、共感を抱くより先に唖然とする。遅れて嫌悪感がくる。そうはならんやろは、いやいや普通その○○は○○ないでしょう、と言い換えてもいい。そのまま書くとあまりにもネタバレが過ぎるので伏せてみた。
読後感が悪いタイプのそれではないけれど、それでも「共感度MAX」というフレーズはわたしがこの本を一万回読んでもきっと出てこない。
驚愕を増幅させる装置だったのかしら。とすれば納得がいく。あるいは私の感覚が、この小説とその売り文句のターゲットから大きくズレているのか。後者か。きっと後者ね
そう。お察しのとおり私は、好きだった作者の新作を好きになれなくて悲しいというポエムを書こうとした。最後まで読まずに適当なことを書くわけにもいくまいと念の為読み通してみたら、やはり断じて「共感度MAX」ではないながらも、小説として面白かったのだ。そしてこれを書くに至っている
結果として今作で私が一番好きだった人物は「切れなかったもの」の姉だった。
「前にもこういうことがあったの?」(略)「あるわけないでしょう」大笑いした姉は、あまりに普通だった。どうして普通にできるのかが、私にはわからなかった。ずっとわたしの理解を超えていた姉は、そんなときですら、自分とは別の生き物だった。
「切れなかったもの」『一万回話しても、彼女には伝わらなかったこと』
展開を知ってからここに戻って読むとゾッとする。人間は怖い。もう何を言ってもネタバレになる気がする。
とにかく異質な人々を散々目の当たりにしたあと、でも結局こういうのが今の私には一番わからないのかも、と思ったのは「皺のついたスカート」の主人公だった。
母はきっと、バカじゃないの、と言うだろう。(略)けれどわたしは伝えない。こんなに簡単に和解してしまっては、十代の自分に悪い気がするし、母にしたって、たやすくこちらを受け入れはしないだろう。またしばらく会わない日々が始まる。
「皺のついたスカート」『一万回話しても、彼女には伝わらなかったこと』
離れて暮らす母から、LINEでアルバムを作る方法を尋ねられたときのくすぐったさ。そういう電話に、たぶん必要以上にその連絡が迷惑でないことを表そうとしてしまっていること、だから何か本当に困ったとき気後れして抱え込まないでほしいこと。一方で誰かの結婚や出産に触れるたび、自分の中で勝手に生み出している鈍い痛みとか、ささやかすぎる罪滅ぼしのように家の事を手伝いに時々帰ることとか。でも本当は罪滅ぼしになればいいと思う暇もないくらい、結局いつも私が一番幸せになってしまっている我儘とか。
大体こんな事柄が今の私を構成していて、だから主人公の意地が耐え難くもどかしいのだ。
「けれど私は伝えない」と、だってあのとき私は傷ついたからと、恥ずかしいからと、次に会えたら話せばいいと、そうして意地を張っているうちに永遠の別れはあっさり訪れる。その後で、あのとき母親に伝えてしまって「バカじゃないの」と笑われたかったと思っても遅いのに
そういえば、私の大好きな過去作『真夜中の果物 』には「話さなかったこと」という話が収まっていた。添えられた短歌は「わかりあうことはできない 同じものを 見たり食べたり 聞いたりしても」。
短歌がなんとなく今作のタイトルとリンクしたのか、ふと思い出し読み返してみたその話は、「いろいろ聞いてみたいことはあった」のに聞かない主人公と、「話すことはいくらでもありそうだった」のに話さなかった女友達とのワンシーン。
数年前読んだときとは随分違う印象を受けた。
わかりあえないことがわかっていて互いに触れないのと、話してわかりあえないことを確認しあうのと、もしも比べるならどちらがより寂しいことでしょう
また長くなってしまった。今作の中で数少ない、私が「共感度MAX」の売り文句に納得感をおぼえたところを紹介して終わりたい。
一口飲んだお茶が、ゆっくりと身体の中に落ちていくのを感じる。
今どこにいるかわからない原ちゃんにも、こんなふうにお茶を飲める時間がありますように、とわたしは願った。それがこの店だったなら嬉しいけど、そうじゃなくてもいい。
「お茶の時間」『一万回話しても、彼女には伝わらなかったこと』
健やかにいてほしいし幸せでいてほしい できればその隣を歩きたくて それができないのならもう顔を見たくはないが 私が見なくて済むところではやっぱり幸せでいてほしい
— ささやか (@oyasumitte) 2023年6月23日
今さらだけれど「共感度MAX」なんてフレーズに釣られ、端から泣くつもりで構えて読み始めていなければ、投げ出したまま年を越してしまうこともなかったかもしれない。素直に小説として楽しめばよかったじゃない。先入観って良くないわね。
そうはならんやろな行動を起こす主人公たちは、私にとってはずっと、そうはならんやろな人々な気がしてしまうけれど、いつか読み返して理解できる日が来るのかな。それとも一万回読んでも、私には理解できないことかしら。
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最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。