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ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

絶対謙虚2021 『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

話題の新刊を読みました。

アメリカの政治学者で、日本でも「ハーバード白熱教室」や著作『これからの「正義」の話をしよう──いまを生き延びるための哲学』等で広く知られるマイケル・ J・サンデル氏が、2020年に発表した“The Tyranny of Merit”の邦訳です。

実力も運のうち 能力主義は正義か?

実力も運のうち 能力主義は正義か?

 

 

本書では、前近代的なアリストクラシー(貴族制)よりも望ましいとされてきたメリトクラシー(能力主義)が、どのようにして社会に浸透し人々を縛り、それにどのような作用と副作用があり、今いかなる弊害が顕在化していて、私たちはそれをどう乗り越えていくべきかが論じられます。

個人的には、驚きに満ちた事実のオンパレード!という内容ではありませんでした。人生において様々な運に恵まれてきた自覚と、自分の中に明らかに根ざしている学歴主義的で自己責任論寄りの考え方、その両方に対して耳の痛すぎる話が、噛み砕き方を変えて繰り返されたように感じています。

以下、引用と主観を交えながら軽く内容を整理したいと思います。良ければお付き合いください。

(正直に言うと、要約については著者本人のTEDを見るのが一番早くてわかりやすいと思うので、一応リンクも載せておきます。Michael Sandel: The tyranny of merit | TED Talk Subtitles and Transcript | TED

 

 

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

アリストクラシー(貴族制)よりも先進的で公正なものとして社会に浸透してきたメリトクラシー(能力主義・功績主義)。

確かに貴族の生まれでなければ大学に入れない社会よりも、数値化できる能力に基づいて家柄に関わらず生徒を大学に合格させる社会の方が、一見する限り望ましそうです。

ただし、実力次第でどこまでも上れるというメリトクラシーの概念は、上れなかった人に自分の能力が足りなかったと認めさせる重い自己責任論と表裏一体となっています。

それに個人の能力とそれ以外(例えば単なる幸運)を分かつ境界線の位置が明らかでないことも問題です。裕福な家に生まれ、純粋に学ぶことが許されたことはただの幸運?それとも生まれが幸運だったとしても、標準的な子供の何倍もの時間を勉強に費やして努力したのは事実なのだから、合格の理由は本人の能力と言えるでしょうか?

タイトルからわかる通り「われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと」「自分の手柄ではないこと」を認めなくてはならない、というのが本書で繰り返し語られる結論です。

 

全体を見ても、過去を振り返っても、名門大学のキャンパスには裕福な家庭の子女が圧倒的に多いことを考えれば、勝敗はあらかじめ決まっているようなものだ。ところが、熾烈な受験競争の渦中にいると、合格は個人の努力と学力の成果だとしか考えられない。こうした見方が、勝者の心にこんな信念を芽生えさせる。すなわち、成功は自らの努力の賜物であり、自力で勝ち取ったものである、と

 

能力主義(功績主義)の結果として、高等教育から世襲特権を持つ貴族階級が追放され、その真空におさまったのは能力主義的エリートでした。そして格差は再生産されます。エリートの子どもの大部分がまたエリートになり、非エリートの子どもは滅多にエリートにはなれません。

階級間に横たわる溝の深さは、もはや裕福でない家庭に生まれた子の学費を免除したり、奨学金制度を充実させたりするだけで埋まるものではないのです。

 

裕福な親が我が子にもたらす恩恵を埋め合わせるのは容易ではない。(略)私が考えているのは、誠実で裕福な親が我が子を手助けする日常的なあり方のことだ。最も包括的な最高の教育制度でさえ、恵まれない境遇にいる生徒を、あふれんばかりの思いやり、資源、コネを与えてくれる家庭の子供と同じ条件で競えるようにするのは難しい

 

運良く能力主義社会におけるエリートの家庭に生まれると得られるものは、親による直接的なサポートに限られません。どんな世界に触れて育つかによって、人生プランや、現代社会における勝者ポジションに対する解像度が大きく変わってきます。

本書は主にアメリカを舞台に語られていますが、日本におきかえて読む場合は、東京の裕福なサラリーマン家庭に生まれた場合と、公務員の給料が相対的に高いような地方の片田舎で生まれる場合を考えるとわかりやすいと思っています。ここでは京大卒芸人・九月さんの記事を引用しておきます。

根本的なライフコースの解像度みたいなもの、そこに関してはどうしようもなかった。そこに差があることすら自覚できていなかったからだ。(略)「自分がどんな日常から作られているか」について、客観的に省みることはとても難しい。僕たちは意識するよりも前に僕たちになってしまっている。(略)「教育の格差」について考えるとき、そこには機会と投資に関わる問題だけがあり、機会と投資を与えれば全てが解決するかのように思ってはいけない。問題の根はもっと深く、射程はもっと広い。

地方から京都大学へ。その時まで、僕は「教育の地域間格差」の本当の根深さを知らなかったのだ | ハフポスト

 

私たちが東京に生まれるか地方に生まれるかを選べなかったように、実際には、ある人がどんな親のもとに生まれてくるか、その親が持つ才能が現代社会でどれほどの報酬に“値する”と認められるかということは、自分では当然コントロールできません。明らかに自己責任では語れない、運の問題です。

ただし、学歴の高さと裕福さが明らかに相関していてもなお、名門大学へ入学できるかどうかは運次第であると、全員が(特に勝者側が)納得するのは難しいのが現実です。それは能力主義における勝者(運に恵まれた人々)が、個々の能力を公正に測り選抜するとされている熾烈な受験戦争に晒されているためです。

 

不平等な社会で頂点に立つ人びとは、自分の成功は道徳的に正当なものだと思い込みたがる。能力主義の社会において、これは次のことを意味する。つまり、勝者は自らの才能と努力によって成功を勝ち取ったと信じなければならないということだ。

逆説的だが、これこそ不正に手を染める親が子供に与えたかった贈り物だ。彼らの本当の気がかりが、子供を裕福に暮らせるようにしてやることに尽きるとすれば、子供に信託ファンドを与えておけばよかったはずだ。だが、彼らはほかの何かを望んでいた。それは、名門大学への入学が与えてくれる能力主義の威信である。

 

親が子に与えんとするもの、勝ち抜いた子が実感として手に入れるもの。それが、自分の能力と努力によって入学を勝ち取ったという自信、自分はそれによりもたらされる恩恵にあずかるに値するという自負でした。

自分が名門大学に入れたのは運が良かったからだと思えば、入れなかった(入らなかった)人々に対して同情することはあれど、怠惰だとか愚かだと軽蔑することはないでしょう。でも実際は、合格したのは自分の実力の結果であると思いたくなるような熾烈な競争を経験する中で、自己責任論に着地していきます。

 

能力の専制を生み出すのは出世のレトリックだけではない。能力の専制の土台には一連の態度と環境があり、それらが一つにまとまって、能力主義を有害なものにしてしまった。第一に、不平等が蔓延し、社会的流動性が停滞する状況の下で、われわれは自分の運命に責任を負っており、自分の手にするものに値する存在だというメッセージを繰り返すことは、連帯をむしばみ、グローバリゼーションに取り残された人びとの自信を失わせる。第二に、大卒の学位は立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することは、学歴偏重の偏見を生み出す。それは労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人びとをおとしめる。第三に、社会的・政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することは、テクノクラート的なうぬぼれである。それは民主主義を腐敗させ、一般市民の力を奪うことになる。

 

本書では学歴偏重主義、現代の金融が及ぼす悪影響等、著者の様々な懸念が表明されています。その中で一貫しているのは、どれも金銭的分配によってのみ解決されるものではないという主張。能力主義が浸透した社会で置いてきぼりにされ失業した人が失うのは、金銭的な収入だけではありません。社会に貢献する役割を持った人としての尊厳です。

 

人は誰しも生きていく上で必ず、消費者としての顔と生産者としての顔を持っています。失業者手当や非常時の給付金等に表れる分配的正義によって支えられるのは消費者的な側面のみであり、自己責任論で自信を失ったり、学歴偏重主義で尊厳をおとしめられたりする生産者としての側面は放置されたまま。

 

消費者と生産者のアイデンティティの対比は、共通善を理解する二つの異なる方法を指し示している。一つは、経済政策立案者のあいだではおなじみの、共通善をあらゆる人の嗜好と関心の総計と定義づける方法だ。(略)共通善が単に消費者の嗜好を満足させることであるならば、市場賃金は、誰が何に貢献したかを測るのにふさわしい物差しになる。お金を最も多く稼ぐ人が、消費者が欲する財とサービスを生産することによって、共通善に最も価値ある貢献をしたことになる

二つ目の方法は、共通善に関するこうした消費主義的考え方を排し、市民的概念とでも呼べるものを優先する。(略)市民的概念の視点からは、経済においてわれわれが演じる最も重要な役割は、消費者ではなく生産者としての役割だ。なぜなら、われわれは生産者として同胞の市民の必要を満たす財とサービスを供給する能力を培い、発揮して、社会的評価を得るからだ。貢献の真の価値は、受け取る賃金では計れない

 

消費者の嗜好をいかにして満たしどれだけ稼いだかによって社会への貢献度が測られ、稼ぐ能力はどんな学歴を得るかにかかっていて、学歴は自らの能力によって勝ち取るものであり、勝ち取った学歴はその人が知性的であることの証明であるとされている社会。そこではつまり、最もお金を稼いでいる人は最も社会に貢献している人であり、同時に最も努力した人であり、さらに知性的な人であるということになります。すべてが連関しているのです。

 

実際には、私たちは消費者であるだけでなく生産者でもあります。そして私たちにとって消費者としての購買力と同等以上に重要な社会からの承認は、生産者として経済的役割を果たすことによって認められるものであり、その生産行為による社会貢献の価値は賃金によってのみ計られるべきではありません。にも関わらず、拝金主義かつ能力主義の社会では、学位を持たず受け取る賃金が低い人は、社会への貢献度が低く、性質が怠惰であり努力が足りず、知性に欠ける人であると見なされてしまうのです。

 

能力主義のおかげで人びとが「神から与えられた才能の許すかぎり」出世できるとすれば、最も成功を収めた者は最も才能のある者だと考えたくなる。しかし、これは間違いだ。金儲けでの成功は、生来の知性には──そういうものがあるとすればの話だが──ほとんど関係がない

 

以前ツイッターで「金の稼ぎと頭の良し悪しと品性の有無、まあ基本的にぜんぶ別のものだと思っておいてよい」と言われていた方がいたことを思い出しました。能力主義の作用もある中でこれらを区別することは感覚的に難しい部分がありますが、本書を噛み砕いていくことが理解につながるのではないかと思います。

 

また、ツイッターでは時々、一部の高額納税者が所得税の大半を納めているという話題を持ち出す人も見かけます。

まさに「共通善が単に消費者の嗜好を満足させることである」という前提の上で「お金を最も多く稼ぐ人が、消費者が欲する財とサービスを生産することによって、共通善に最も価値ある貢献をした」という見方であるように見受けられます。多く稼ぎ多く納税する人は、それだけ社会に貢献しているのだから、貢献に対して多大な尊敬や何かしらの恩恵を受けるに値するはずである、と。

納税額が高い人は「自分に厳しく、達成意欲の溢れる、一部の能力が高い人たち」であり、納税額が低い人は「怠惰で頭も悪く何も考えていない下層階級の人々」であると、言いたくなる気持ちはわからないでもありません。私もこの能力主義が根差した社会で、自己責任論で自分を鼓舞しながら生きているからです。

 

しかし実際のところ、現実は、サンデル教授が書かれたように「名門大学のキャンパスには裕福な家庭の子女が圧倒的に多いことを考えれば、勝敗はあらかじめ決まっているようなもの」です。

運良く生育環境に恵まれ、自身の性質に恵まれて「自分に厳しく、達成意欲の溢れる、一部の能力が高い人」になれた人が得る高い報酬は、それにより認められる高い社会的貢献度は、その人が実力によって勝ち取った個人的な利益なのでしょうか。本当に?

 

 

アリストクラシー(貴族制)よりも先進的で公正であるように見えたメリトクラシー(能力主義・功績主義)。意図されたものもそうでないものも含め正負の作用を引き起こしながら社会に浸透してきて、結果として現代社会では、新たな支配階級が貴族にとって代わった上で、不平等や格差が再生産され続けています。

 

能力の専制を生み出すのは出世のレトリックだけではない。能力の専制の土台には一連の態度と環境があり、それらが一つにまとまって、能力主義を有害なものにしてしまった。(略)社会的・政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することは、テクノクラート的なうぬぼれである。それは民主主義を腐敗させ、一般市民の力を奪うことになる。

 

ここでは、健全な民主主義を「狭い回廊」と称する本があったことを思い出しました。民衆に対する支配が強すぎる国家の存在によっても、適度に強い国家の不在によっても、社会はすぐに公正・公平さを欠き不安定なものになります。民主主義とは、簡単にはたどり着けないし、入ってからそこに留まるのも容易ではないような「狭い回廊」。

拡大しようとする国家と、国家を監視しつつ支援する社会(民衆)が、両者の不断の努力によってバランスを保つとき、はじめて民主主義が維持されます。能力主義によって階層ごとに分断されてしまっている社会には、国家や、今や国家以上の存在感を放つ多国籍企業を監視し、専横を拒否するだけの力があるとは思えません。民主主義を維持するためには、社会集団の連帯が必要です。

(ちなみにツイート内の「監視資本主義の先生が出てきたEテレの番組」はこちら→「パンデミック 揺れる民主主義 ジェニファーは議事堂へ向かった」 - ETV特集 - NHK

 

サンデル教授は『実力も運のうち 能力主義は正義か?』をこのように結んでいます。

 

人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。(略)われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。(略)そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

 

「大切なのは謙虚さを思い出すこと」というのは、これまで書いてきたような深く複雑な社会問題に対して、弱すぎる答えであるようにも映ります。

ただし著者は本書の中で、大学入試におけるくじ引きの導入や、金融取引への課税を重くすることによる再分配等、具体的な対処策をいくつか述べています。それらを通して人々が生まれた階層に関わらず尊厳を持って連帯できる、理想の民主主義的社会を実現するため、土台として「謙虚さ」が共有されている必要があるということなのだろうと思っています。

 

あなたが勉強して大学に受かったのも運、就活頑張ってまともな企業に入ったのも全部運でしかない、という考え方を丸呑みすることは、私にとっても簡単ではないと思うけれど。それでも同じ親のもとに生まれた妹が、私と同じ中学に通って同じ高校に通って、同じ大学を志望して同じ大学に通ったことを思い出すと、「勝敗はあらかじめ決まっているようなもの」という運の問題の深さには多少自覚的になれるような気がします。

 

本書は読んですぐに衝撃を受けて考え方が変わる本というよりは、読んでから自意識や他人の意見の見え方が変わって、それがジワジワ自分に効いてくるような、長い付き合いになりそうな本だと感じています。おすすめです。

 

実力も運のうち 能力主義は正義か?

実力も運のうち 能力主義は正義か?

 

 

担当編集の一ノ瀬さん(@shotichin)が関連記事をツイートされていて、本書を読む前でも読んてからでも面白いと思うので、こちらも良ければぜひ。

 

超長文に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。おやすみなさい、さやかでした