私は、ひとつの言葉や発言をその文脈から切り離して考えることは基本的に不毛だと思っている。
会話の中で出た言葉であれば二人の関係性を無視して何かを判断できるわけがない。公人の発言であれば、記事の全文や番組全体の演出、発信するメディアの持つバイアス、それらすべてが文脈として存在する。
文脈から切り取られた一個人の発言が炎上の火種になった例は枚挙に暇がない。
そうした言葉の切り取りが横行していることが明らかな現代において、発言する側はそれらの文脈から切り取られたときに自分の言葉がどう受け取られるかを念頭に置いて話す方が賢いとは思う。でも常に賢くいないといけない世界は息苦しいから、人は非公開にしたツイッターアカウントや有料note、fans等の「誰も自分の言葉を切り取って燃やさない安心できる世界」を作って本音を話すようになるのだ。
話が逸れてしまった。
先に書いたように私は、原則としては言葉は文脈から切り取るべきではないと思っている。ただ、24年の人生の中でいくつかの例外を知ってきた。
たとえば、仕事で腐りそうだった1年目の冬に、当時付き合っていた先輩に言われた「あなたもちゃんと働いたでしょ、胸を張りなさい」。
情けないけれど、彼と会わなくなり社会人2年目が終わろうとしている今になっても、未だにこの言葉に縋るようにしてやっと自分の仕事を肯定する日がある。文脈の大部分を占める相手との関係性を失っても、私の中で言葉自体の価値が変わっていない。
会話の内容という文脈を綺麗さっぱり忘れてしまっても、残った響きだけで自分を救ってくれるフレーズもある。
それはたとえば、大学生の頃に友人が何気なく発した「仕方ないね、神の設計ミスだから」。
通勤時に前を歩く人が残高不足で改札にビターンと止められる些細な苛立ちから、仕事で遭遇する強めの理不尽まで、深浅大小問わず舌打ちしたくなるような瞬間に思い出すのだ。
神の存在を信じているわけでは全くないけれど、誰のせいにもならないように誰かのせいにすると、身体から力が抜ける。便利な言葉。
わたしは、言葉の意味は誰が誰に向けてどのように発したかで9割ほど決まると思うし、これからも原則として、誰かの発した言葉をそのような文脈込みで理解・判断するようにしたいと思っている。
同時に、文脈を失っても、或いは認識できない状況であってもその言葉自体の持つ力は変わらないという例外も確実に存在することを忘れたくない。
「歩きやすい靴がいい。人生はほとんどが遠回りだから。」てコピー見てうっかり泣きそうになった19:09
— さやか (@oyasumitte) 2020年12月12日
今回書きたかったのは、誰がどのように言うかは確かに大事だけれどそれが全てではないし、「仕方ないね、神の設計ミスだから」は本当に便利な言葉なのでお口に合えば心の中で呟いて楽になってしまってくださいねという話でした。
完全に余談ですが、皆で口を揃えて「仕方ないね、神の設計ミスだから」を言い訳にすることができなくなった私たちについて書かれた本が面白かったのでご紹介しておきます。
「神は存在せず、善悪を自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった」
2020年読んだ中で一番好きだった気がする。本についてブログを書くと猛烈に時間がかかるので、後回しにし続けて年を越しました。試験が一段落したら頑張ります。
最後までお読みいただきありがとうございます!
おやすみなさい、さやかでした