「何を言えるかが知性 何を言わないかが品性」という言葉を有名にしたのはどうやらスピードワゴンの小沢さんらしいけれど、彼の言葉なのか出典が他にあるのかはよくわからない。定期的に誰かが思い出したように自戒の念を込めてツイートしてはバズらせているフレーズで、正直個人的にはもうお腹いっぱいだ
何を言えるかに知性が表れ、何を言わないかに品性が表れる。確かに私もそう思うのだけれど、この言葉はちょっと独り言的だなと思っている。独り言的というか、主に独り言として成立する言葉について語られている気がするというか。だからこそ独り言が多いツイッターの人々にウケてバズるという側面もあるのかなと
ツイッターの使い方は人それぞれで、特定の誰かに対して言葉を発するツールとして用いる人もいる。特定の誰かに言うつもりでツイートし続けると自分をその特定の誰かだと思った人がフォロワーになってくれるらしいので、フォロワー獲得の目的で特定の誰かたちに話しかけるような言葉の選び方をする人もいるのだろう
一方、私みたいにただの自分語りかアレクサに話しかける体をとった自分語りしかしない陰キャもまあまあ存在している
アレクサ、また泣き出しそうな私の中の3歳児を何とかして
— おんせん (@oyasumitte) 2021年3月24日
こうした誰に向けるでもないし誰に求められているのでもない言葉も含め、とてもざっくりと広い範囲の言葉について語るのが「何を言えるかが知性 何を言わないかが品性」であると私は思うのだ。汎用性が高く、一般的で、だからこそ皆に響くのだろう
でも少なくともわたしに限って言えば、ツイッターで不特定多数に向けて発信する言葉と、相手がある状況で何かを伝えようとする言葉は別物である。だからこそ「何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性」と自戒を込めてツイートした後、この素敵なフレーズを日常の具体的な行動に落とし込もうとするとき、その言葉を発した自分が知性的に見えるか上品な人だと見られるかを考えるよりも先にすべきことがあるように思えてしまう
個人的に、目の前に相手がいるコミュニケーションにおいては、互いの立場に関わらず必要な言葉を言えるかに大人としての成熟度、相手にとって余計な一言になる言葉を言わずにいられるかに想像力の豊かさが、それぞれ表れる気がしている
「ありがとう」「申し訳ない」このあたりの言葉が本来は必要となる状況でも、部下や後輩等の目下の人を相手とするとき、言いたくない・言わなくてもいいという判断をする人がいる。自分より上の立場の時には、謝るのもお礼を言うのも簡単。言えばその場は自分の格好がつかなくなるように思えても、相手の気持ちを慮って必要な言葉を発せられる人が、私の中で大人の中の大人だ
そして、言わない方がいいことを言わずにいられない人、あるいはそれが言うべきでない一言だと判断できない人に欠けているのは、想像力だと思う。想像力が機能しない理由としては経験の不足や思いやろうとする姿勢の欠如等いろいろあるだろうけれど、いずれにせよ品性云々を語るよりもまず単純に想像力を鍛えようとする方が近道なのではないか
成熟度と想像力。これらはどちらも相手を思って発揮するものであって、自分が知性的に見られたい、品性を備えた人間であると思われたいという志向とは異質なものだと思っている
成熟度不足が知性を、想像力不足が品性をそれぞれ損なって見せる(と自分が思う)ところはあるので、確かに結果的にはすべて「何を言えるかが知性 何を言わないかが品性」になる。なるし、ツイッターではとりあえず知性と品性で語っておけば何かそれっぽくなるので良いと思う
でもやはり、自分が相手にどう見られるかということに一番関心がある姿勢が明らかになってしまえば、その様子は上品とは言い難いのではないかと思ってしまう……という品性を欠いた殴り書きでした。最後までお読みいただきありがとうございます。おやすみなさい、さやかでした