最近、自分は他の誰かより繊細だ、と言える人の図太さが気になってしまう。
自称「人の気持ちに敏感すぎる」人が、真に他者の気持ちに敏感だった試しがない。そういう自称敏感すぎる人たちの関心の対象は、大抵相手の感情ではなく、相手の目に自分がどう映っているのかということだと思う。
人見知りが激しい大人も同じ。初対面の人を前にして人並み以上に固くなるのは、相手に不快な思いをさせてしまったら申し訳ないと気を遣える優しい人だからではない。不快な思いをさせないような振る舞いができる人間だと、自分が相手に思われたくて仕方がないからだ、と私は思っている。
初対面の人との会話なんて、誰でも大なり小なりストレスを感じるものだと思う。気を遣うのはお互い様だ。それを前提とした上で、少しでもその場を楽しめるように、また良い関係を築けるように私は努めたいし、相手にも努めてほしい。
たとえば、アプリで知り合ってこれから会おうとしている男性に「自分は人見知りだからたぶん最初は上手く話せない」と言われたらがっかりしてしまう。歩み寄りを放棄されたようにも感じられるからだ。気を遣って事前に申告しているつもりかもしれないが、見ようによってはコミュニケーションを相手に丸投げして踏ん反り返っているようにも映る。
自分はそれでもモテるから大丈夫と言うなら別に良いけれど、そうじゃないからアプリなんてやっているのではないですか?そういうところじゃないですか?
そういえば、会社の先輩(女性)が、友達に紹介された男性と会ってみているものの好きになれない、好きになれないから彼氏ができない……と悩んでいたことがあった。話を聞いてみると「気を遣って疲れるし、紹介してくれた友達と会っている方がずっと楽しいと思ってしまって、もう一度会いたいと思わない」ということらしい。
確かに紹介された異性を好きにならなければいけないわけではないし、実際に相性が良くないタイプだった可能性もある。私自身、一度会って妙に疲れた男性ともう一度会いたいと思うことは無い。
でもそのとき、その初対面の人と比べるのは絶対に「他の初対面だった人たち」だ。気が合ってお互いのことをよくわかっている友達とのコミュニケーションと、初対面の人とのそれが同じになるわけがない。相手のことがよく分からないストレスを抱えているのはお互い様であることを忘れて、自分を楽しませてくれる人、好きにならせてくれる人が現れないかとただ待っているのは、随分お客様的な態度に思えてしまう。
話が逸れてしまった。
私は、実生活において自らが人一倍繊細であることを隠そうとしない人や、人見知り・不機嫌をアピールして円滑な交流や関係構築のための努力を相手に丸投げするような人は、他人の気遣いを殊更多く消費しているはずだと考えている。また、世間で感受性が豊かだとか純粋で心優しい性格って言われる人たちって案外顔の皮が厚くて、寧ろ人並み以上に他人の感情に鈍いことがあるよねとも思っている。今日はそれを整理したい。
自称○○の厚かましさ
自称繊細、自称人見知り、自称共感能力が高い……正直どれもあまり好きではないのだが、中でも最近は「繊細であることを隠そうとしない図太さ」というのが気になっている。
自分が他人より繊細で感受性が豊かだと信じ、さらにそれを誇る人がいる。でも本当に繊細で他人の感情に敏感な人は、それを周囲にアピールして人一倍の気遣いを求めるような厚かましいことができるのだろうか?その人がもし本当に相手への思い遣りに満ち溢れた人であるならば、自分が緊張していたり相手を気遣っていたりすると相手に悟られてしまうことを最も嫌うのではないか?
恥ずかしながら私自身、他人の言葉に関して知覚過敏なところがあるとは自覚している。誰からも好かれていたいし、バカにされたくないし、いつも自分をよく見せたいし、良く思われたい。だからこそ目の前の相手が自分に向ける表情や声の調子の変化、言葉の選び方については、人並みかそれ以上に気にしてしまう。でもそれはやはり自意識の強さから生まれる問題であって、私が人より優しいとか感受性が豊かだという結論は導けない。
自称コミュ力高い人間や、自称共感能力が高くて女の子の相談に乗るのが得意な男の恥ずかしさについては、大昔にブログを書いていた。自称繊細な人にも通ずるところがあるように思う。
コミュニケーション能力が高い人は「私コミュ力高いから」という出だしで自分語りを始めないし、共感能力が高い人は「俺、人の気持ちがわかっちゃうから」と自分語りを始めたりしません。だって自称コミュ力高い彼女も人の気持ちがわかってしまうらしい彼も、目の前で聞いている人間の感情に鈍すぎる。私が今あなたの話をかなり引き気味で聞いてることに、全然全く気づいていないじゃない?
「自分は共感能力が高いので」で自分語りを始めていいのは就活の自己PRだけだと思う - どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte
また脱線しかけているので、繊細で厚かましいお気持ちな人々に話を戻したい。彼らの強みは何よりも「場の空気を味方につける才能」にあると思う。そしてそれは、彼らを自意識過剰・自己中心的だと批判的に見る他者を(本人がそう意図せずとも)悪役に見せる力にもなり得る。
杉ちゃんというキャラクター
バチェロレッテを見ている方にしか伝わらない例で恐縮だが、出演者のひとり、杉田さんはこのイメージと重なるところがある。私にとっては、女性に対して積極的に話しかけるべき場に自らエントリーしておきながら、コミュニケーションが不得手であることを隠さず、周囲に自分を援護させる成人男性は幼すぎる。
でもそれを「他人を押し除けることができない優しさ」「豊かすぎる感受性」「ライバルにも応援させてしまうほどの魅力」を持ち合わせた人だと判断する方が一般的なのだ、ということをツイッターで学んだ。
そして、好感度が高ければ大抵の発言は好意的に受け取られていくものだ。個人的に彼の言動には気になる点が多いが、ツイッターで流れてくる感想や解説コラムを読むと、大方私とは真逆の見方をされている。女性目線の意見は特に。
A「彼女に合うのはBみたいな人だと思う」
— さやか (@oyasumitte) 2020年10月22日
B「じゃあ譲ってよ」
A「彼女は物じゃない」
この会話からBは女を物扱いするサイコでAは人格者って判断する人が多くて意外。女を物扱いする感覚は「じゃあ(彼女の隣)譲ってよ」だったかもしれないBの言葉をそれと断じたAの中にあるのでは?と思ってしまうが
※Aさんが杉田さん、Bさんがライバルの黄さん。ちなみにこれはバチェロレッテに登場するキャラクターを対象とした、個人的な好みの話である。出演者ご本人の性格や感情と番組上の演出は不可分なものだと思うので、あくまでもキャラクターとしてとらえたい。
誰かの気遣いを消費せずにはいられない
社会の中で生きる私たちは、常に自分以外の誰かの気遣いを消費していて、その大小軽重様々な優しさすべてに気が付くことなど到底できない。
そして、自称であれ他称であれ繊細であることを隠そうとしない人や、上手くコミュニケーションをとるための擦り合わせを相手に丸投げするタイプの人は、人一倍その消費量が多くなっているはずだ。そのこと自体は、人によって代謝が違うのと同じような個人差でしかないかもしれない。
しかし、明らかにその消費量が膨大な人をつかまえて、人より純粋で心が綺麗なのだと過度に美化したり、結婚したら絶対に幸せになれる相手だと持て囃したりするのはいかがなものかと私は思うのだ。
随分長く書いてきてしまったのでそろそろまとめに入りたい。このブログを書くきっかけと言いたかったことが端的に表現されたツイートを見つけた。
旦那は杉ちゃん推せない少数派なんだが、生き生きしてきた杉ちゃんが「調子乗ってる」と見えるらしい。
— ゴーゴー💩バチェラー垢 (@bara_iranai) 2020年10月19日
1話で泣いてるのもう引いた。周りに援護してもらってずるい。目も合わせられず、会話のテンポ合わないのイラつく。
らしい。
私は人見知りしちゃったり、緊張で自分からいけない気持ちわかるし、多くの人は共感できる部分あるから、応援したくなるんだけど、旦那コミュ強。人見知りしないタイプ。
— ゴーゴー💩バチェラー垢 (@bara_iranai) 2020年10月19日
だから、人見知り故相手に気を遣わせる=失礼、コミュニケーションちゃんと取るのも最低限の気遣いの一つって思うんだよな。
コミュニケーションをきちんととるのは最低限の気遣いの一つ。私は特に強者ではないが、考え方としてはこれに尽きる。
杉ちゃんは、ライバルにもチャンスを御膳立てしてもらえるような愛すべきキャラクター。確かに「人の応援を自然に引き出す力」というある種の才能を備えているのかもしれない。でも私には、弱者のポーズをとって目の前の相手や状況を自らの意のままにしようとする暴力性があるようにも見えてしまう。彼のような人の隣にいることを選んだ場合、自分が将来「彼に気を遣って意中の女性と話せるように支援してあげたライバルたち」のようになることを求められ消耗する可能性は、決して低くないと思うのだ。
そんなわけで私には、杉ちゃんというキャラクターが「結婚したら真っ直ぐに愛してくれて自分が幸せになれる男性」であるようにはとても見えません。杉ちゃん推し女性があまりにも多くてツイッターには書けないのでブログに書きました。私は初回からずっと黄さん推しだし、7話の萌子さんのハグの解釈もSHELLYと同じです。バチェロレッテ最終回楽しみだな〜!
最後までお読みいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。