どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「ご遠慮ください」が伝わらない2023

 

「う…そ……だろ…?これ、ネタじゃなくてガチで言ってる!???義務教育の敗北すぎておばちゃんはびっくりだよ」というつぶやきと共に、メッセージサービス「マシュマロ」に寄せられたメッセージの画像をTwitterに投稿した、うさもも 贅沢な女さん(@uuusamomomo)さん。そこに写っていたのは、「ご遠慮してください、はできればしないでくれたらありがたいくらいの意味で絶対だめだとは思っていませんでした(涙)。例えば、写真撮影はご遠慮くださいって書いてあったらたくさん撮るのはやめてインスタに上げる1、2枚だけにしてて…でもそれって非常識なやつだと思われてたかもしれないんですよね(涙)。これからは気をつけます…」という、衝撃のメッセージ文。(中略)

「婉曲表現は義務教育で習わない」というリプライも寄せられていたが、文部科学省によると、OECDの国際学力調査(PISA)において日本の児童生徒の「読解力」は低下しており、「言葉に対する感性を磨き、言語生活を豊かにすることが大変強く求められている」としている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/a2234dbacdfff93caa139aed96230b0300575301

 

義務教育の敗北。強い言葉である。

 

もしカメラを構えた場所に「撮影はご遠慮ください」という注意書きがあれば、私たちは写真を一枚も撮らないはずだ。同じ言葉を見て、たくさん撮るのはやめてインスタに上げる一枚だけにしようと考える人が一定数いる一方で、写真を撮らない私たちが、そうするようになったのはなぜか?

 

元の記事では「ご遠慮ください」が、できればしないでくれたらありがたいのではなく「しないでください」というお願いであると通じないことをもって、義務教育の敗北という強い言葉が使われていた。学校で習ったかどうかは脇に置いても、「ご遠慮ください」を「しないでください」もしくは「するな」と読み替えるルールを、私たちは確かにいつかどこかで知ってきたのだ。「ご遠慮してください、はできればしないでくれたらありがたいくらいの意味」だと受け取ってしまう人には、確かに婉曲表現の知識が足りない。

でも、そういう言葉のルールを知らないこと以上に問題なのは、「ご遠慮してください、はできればしないでくれたらありがたいくらいの意味」だと認識している人が、しないでくれたらありがたいと言われていることを実際にしてしまうことの方なのではないかと思ってしまった。

 

「ご遠慮ください」を「しないでください」とは読みかえられずとも、相手がしないでほしいと思っていそうだとはわかっているのだ。どうやら撮影しないでほしそうだと感じながら、平気でインスタ用の一枚は撮る。その行為が非常識だと思うのだ。品がない、と言ってもいい。

 

品性はお金で買えないとよく言われる。買えないと言われるともの悲しい感じがするが、言い換えれば品性を身に着けるのに裕福である必要はないということだろう。

 

 

品性と言えば、ツイッターにいる人は「何を言えるかが知性で何を言わないかが品性」的な、何か端的にうまいこと言っている感じが本当に好きだなあと思う。かくいう私もツイッターにいて、そういう雰囲気だけは良い言葉を自戒を込めて言いたくなってしまう側の人間であり、このフレーズについては過去何度かブログに書いた。

何を言えるかが知性 何を言わないかが品性 - どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

 

 

わたしは、何を言わないかが品性云々について、基本的に正しいと思っている。確かに何を言わないでいるかということには、何を言うかと同じくらいその人が表れる。言わないことによる自己表現は成立する。ただしかなり消極的な表現であり、それを人にわかってもらおうという願望が透けて見えてしまえばさもしいし、悲しいことに人は相手の持つ品性の片鱗より卑しさに対して敏感だ。

 

一般的に、人が他者について印象を形成するとき、どんな話題に言及しないかよりも先に、何を、どのように言う人であるかを意識すると思うのだ。小さなことで言えば「すみません」という言葉より、同じ状況なら「恐れ入ります」を使う人に品を感じるのが一般的な感覚だと思う。これは「すみません」という大雑把な言葉を軽々しく口にしないことに品があるとも、「恐れ入ります」で表現できることを知っていて使えることに品があるとも言えるが、大抵は後者で認識するはず。

 

 

さて、品性はお金で買えるものではないらしいし、おそらく一朝一夕で身につくようなものでもない。それは「ご遠慮ください」問題で言えば、遠慮を「しないでくれたらありがたい」ではなく「だめです」と読み替える知識をひとつ備えるということより、自分がしたいことを「しないでくれたらありがたい」と言われたときに、その欲求をしまう態度の方に宿るものだと思うのだ。

 

品は、人が「すみません」を言わないことより「恐れ入ります」と言うときに見い出されやすいように、何かをしないことに宿るそれはとても控えめだ。そこにあることが当然になっていて普段は気づかない。

 

でも「ご遠慮ください」と言われたことをやめられない誰かを見たときに、デートの相手を年収で値踏みする誰かを見たときに、他人の容姿を不要な美などと評する誰かを見たときに、はじめて理解する。そんなことを当然にしないのが、これがそうか、この掌にあるものが品性だったかと。

 

 

何かをしない・言わないことに宿る品性は目立たないが、在ることが自然であるが故に、無いと目立つ。優美な話し方が纏う華やかな気品がそこに在るよりもずっと。

 

 

「ご遠慮ください」が意図した意味そのままに伝わらなくなってもいい。「しないでくれたらありがたい」という意味だと受け取る若者がもっと増えてしまっても問題ないはずだ。

しないでくれたらありがたいと言われた行為を、それならしないでおこうと思う人の方が多ければ

 

 

しないでくれたらありがたいと言われたことをしない、わたしたちにとって普通の感覚って、どこで醸成されたものなのでしょうね。

それが義務教育だったと言われれば、「ご遠慮ください」で止まれない人が増えていくことは確かに義務教育の敗北になるのかもしれません