こんばんは。さやかです。台風19号に荒らされた3連休の前半でしたが、このブログを読んでくださっている方々はご無事でしょうか。おかげさまで私は身も家族も住処も無事だったので、旅行をキャンセルして予定が真っさらになった週末をのんびりと過ごしております。
久しぶりの更新になってしまった今回は、私が愛読しているブログ「俺の遺言を聴いてほしい」の読みたい本を買って読もうという記事に触発されて、本に関することを書いてみようと思います。いつものように一冊をとりあげて長々と読後感を書くのではなく、読書に関する私の雑感をまとめてみようかなと。ゆるっとふわっと、文字数も抑えめにするつもりです。よろしくお願い致します。
優しく諭されるような語り口の本しか読めない夏だった2019
さて文字数を減らそうということで、寄り道しがちな前置きを省いて早速本題に入りますが、私は以前の記事にも書いたように、読むのにそれなりの胆力がいる本が好きです。
情報量が多くて,且つ根拠がちゃんと外部に担保されている文章が好きです。論文を読むのはすごく好きだし,本で言ったら学術書が好き。
でも最初に触れた「俺の遺言」の記事でヒデヨシさんも書いていたように、私が普段好んで読み漁るアカデミック寄りの本は、読むのに体力と時間が必要です。
そして名著の名著たる所以なのか、名著は分厚い本が多い。それゆえに読み始めるのに気持ち的な準備が必要で、読み終えるためには時間的な余裕が必要だ。
私は本が好きだと公言していることもあって、現実で知り合う人やツイッターのフォロワーから「自分は読書が苦手」とか「特に難しい本は読めたものではない」とか言われることが少なくないのだけれど、きっとその要因は様々だと思うのです。本が読めないときに無いのは気力かもしれないし集中力かもしれないし、時間的余裕かもしれないし、はたまた興味かもしれない。
いくら読書が好きでも、いつもと同じ本に向き合う気力や体力、時間がないときというのは確かにあります。私のような、文字を目で追うこと自体が好きなのかもしれないと思う活字中毒的人間でも、本を手に取る気になれない日はありますし、それがしばらく続くことも頻繁に起こります。
べつに本を読まなくても死なないし、いまどき求める情報を得る手段なんていくらでもあるのだから、本を読む気がないのなら無理をする必要なんて無くて。でも本にしか書かれていないこと、書籍くらいの厚みを通して語られないと体系的に理解ができないことというのは少なくないと私は思っているから、未だに読書なんていうアナログな趣味に好んで多くの時間を割いているに過ぎません。
「とにかく原典にあたれ」論の厳しさ
さてここで話をやや横道に逸らしてしまうけれど、「何かを学びたいと思ったとき、原典にあたる以上に良い学習法は無い」という論は根強いです。それが最も良いということに関して、基本的に私も異論はありません。でもたとえば哲学に明るくない人がデカルトの思想に興味を持ったとき、いきなり彼の著作『方法序説』や『情念論』にあたるのはハードルが高く、それこそ日中働いて脳も疲れている社会人が家に帰ってから読むのはなかなか骨が折れるはずです。そこでせっかく興味を持った人に「自分には哲学は難しすぎた」と思わせてしまうのなら、「とにかく原典にあたれ(そうでなければダメだ)」という原典至上主義論は害ですらあると思います。自由に使える時間も体力も限られている大人が新しいことを始めるためには、ハードルは低く低く設定しておく方が良い。
ちなみに、もしもこのブログを読んでいる方の中に「偶然最近デカルトに興味を持ったところだった!」という方がいらした場合、おすすめしたいのがこちらの本。優しく語りかけられるような文体で、デカルト自身もかなり人間らしい存在として描かれている少々変わった入門書になっています。
(津崎良典『デカルトの憂鬱 ー マイナスの感情を確実に乗り越える方法』扶桑社,2017年。)
さらに余談ですが、原典至上主義といえば先週ツイッターで燃えていたのがこちらのツイート。もしかしたらザワついていたのは文系学部出身者が多い私の周りだけで、今ここで初めて見るという方が多いのかもしれません。
漢文の授業ってまだあるの?
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2019年10月5日
あれって本当意味がないと思うんだけど、なぜいまだにあるんだろう。普通に中国語で読める漢文を教えてほしかった。レ点とか一二点とか使って無理に日本語で訓読できるようにすることにどれだけ意味があるんだろう。受験や試験のための科目な印象。前時代的に感じる。
このツイートへの言及を見ていると「漢文を学ぶ必要がない」と読み違えている方が多い気がしたのですが、これは明らかに漢文を日本語として読み直す訓読というステップを挟む、書き下して理解するという漢文の学習方法についての批判であって、漢文自体について彼は「中国語で読める漢文を教えてほしかった」とはっきり述べています。
もちろん英語で書かれたものは英語のまま、漢文で書かれたものは漢文のまま読めるに越したことはないのです。書き下すとき、書き下したものを現代語訳されるとき、現代語訳に解説が加わるときに少しずつ原典は濁るという考え方そのものは疑いようがないし、他者の意向によって濁る前の清流に触れられるならその方が良い。でも中国語を一から学んで漢文に臨むよりも、日本語に直す方法を知って、母語である日本語で理解する方が私たち日本人が漢文を理解しようとする上で効率が良いのです。漢文が中国語を学べた者にしか理解できないものであったとしたら、漢文の古典を日本人として基礎的な素養とすることはおよそ叶わなかったと思います。
むしろ『中国語を学ばなくても中国の古典が日本語で学べる』から意味があるのではないでしょうか……
— ふぃにあん (@dog_fenian) 2019年10月5日
学ぶ価値がある漢文を日本語しかわからない人にも伝えられるように、ってことだと思います。
後世に残していくために、漢文を日本語で読む法則を作り上げたのは、先人達の苦労の結晶です
随分回り道になりましたが、今回書きたかったのは2つ。難しいものを難しいまま、複雑なものを複雑なまま理解しようとする姿勢を私はとても尊いと思うけれど、それに縛られる必要もないと考えていること。それから、読書は無理にするものでもないし、名著と名高い古典や誰かの推薦がついている本だからといってそれが自分が読むべき本というわけでもなく、そのときの自分に合った、心惹かれる本を読むのが良いと思っていること。
たとえば漠然と経済に興味を持ったばかりのあまり読書家でない友人におすすめの本を尋ねられたとき、いきなりカール・マルクスの『資本論』などを読んで当然という顔で投げつけて心を折ってしまうのは勿体ない話で、入口として『父が娘に語る経済の話』あたりをスッと差し出してその対象に対する興味を一層強くしてもらって沼に導く、私はそういう優しく残酷なオタクでありたいなと思っているという話でした。
(ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社,2019年。)
改めて言うまでもないとは思うけれど、義務感や人の勧めに追われず、ぜひ読みたいときに読みたい本を、読みたいときに読みたいブログを読んでください。その中に私の紹介した本やこのブログがあるとしたら、それはこの上なく幸せなことですが。
今回も結局長文になってしまいました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。
父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。
- 作者: ヤニス・バルファキス,関美和
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