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ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

なぜあの人は過剰に改行するのか。私はなぜそれを嫌うのか

こんばんは。さやかです。

最近マッチングアプリを再開したときに,プロフィール欄に趣味を記入せねばならない状況におかれまして。そこにとりあえず読書と入れておくくらいには本を読むことが好きなのですが,同じ「読書が趣味」の人と通じ合うところがあるかと言うと必ずしもそうではないなあと思ってしまうことが続きました。小説を読むのが好きな人が多かったのですが,近頃の私はほぼ小説を読んでいません。本の好みで通じ合い会いたいと思える人がいなかったので,アプリは一瞬でやめました。高校生の頃までの私は小説が大好きで,特にミステリーを愛していたのですが,あんなに好きだった東野圭吾さんの作品も近年は全く読んでいなかったことを思い出しました。最近は「いま利用できている大学の図書館と公立図書館をもうすぐ使えなくなる」という焦燥感から大体1週間で5冊以上のペースで本を読んでいたんですが,その中に小説の類は全く無く。それに加えて,自分が読む本の選択にある傾向があることに気づいてしまいました。今日はそれに関して考えたことを書きます。よろしくお願いします。

  • 外国人著者の本を選り好んでいる。
  • 改行され過ぎている文章が嫌いだ。

外国人著者の本を選り好んでいる。

さて,私は昨日も公立の図書館に行ってきました。気になった本40冊くらいを手にとった上で10冊選んで借りてきたのですけれど,それと大学の図書館で借りている7冊を合わせた17冊がこちらです。

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赤いハートが外国人著者の書籍,紫が日本人著者の書籍です。明らかに赤が多い。このブログで紹介してきた書籍『知ってるつもり』とか『脳は楽観的に考える』,ほかには最近読んだ本だと『あなたはなぜ嫌悪感を抱くのか』『あなたはなぜあの人の「におい」に惹かれるのか』など,ほとんどが外国の方が書かれた本が日本語に翻訳されたものでした。

私はこの「あなたはなぜ〜」とか「なぜあの人は〜」というタイトルにとても弱くて,書架で目に止まるとすぐ手に取ってしまう。なぜ弱いかという仮説は2つあって,ひとつは,大抵その疑問は私の意識の中にすでにあってそれを刺激されてしまうから。もうひとつは「こういうタイトル・装丁の本は私にとってアタリである可能性が大きい」という感覚が形成されているから。

私はとにかく情報量が多くて,且つ根拠がちゃんと外部に担保されている文章が好きです。論文を読むのはすごく好きだし,本で言ったら学術書が好き。だからこそ自分が自分の経験だけによって書いたセクハラとか恋愛に関するブログが多くの人の目に触れるのは恥ずかしいという気持ちがあります。そんな「ソースは俺☆」みたいな文章を読むのに大勢の人の時間を費やしてもらったことを思うと申し訳なさすぎて死にたくなる。でも私自身は人がブログに綴る,経験に裏打ちされたポエムを読むのはとても好きです。それとこれとは別なので。

さて話を戻して,私は自分の経験とかそれと似ているいくつかのケースだけにフォーカスして作られた「成功した人がやっている10のこと」みたいなペラい本にはお金を払いたくないし,本屋さんや図書館で読む時間すら惜しい。そういう書籍って多くの場合は内容が薄いから,読むと言っても学術書ほど時間はかからないはずなのに,触れることすら気が進まないんですよね。極論を言えばなるべく視界に入ってきてほしくない。コストパフォーマンスという評価軸はあまり好きではないけれど,そういう「成功した人云々」な本は端的に言ってしまえばコスパが悪いと思います。内容が不確かで余白が大きくて1ページあたりから得られる情報が少なくて,正直こんなのブログかnoteに書いてればいいのに本にする意味ある?と。

ただしこれは単純に私がそれを好きではないというだけなので,その本がとっつきやすいアッサリした読み口でないと手に取ることすらしない人たちに向けて作られていて,それで実際売れているなら私が読まなければいいだけの話でありまして。本以外の娯楽とか知識を得る手段がこんなにも様々に展開している現代社会で,ネットの無料ブログでも情報商材でもなく わざわざ本というものを選んで買うような人間の多くが求めているのはこういう書籍ではないのではあるまいか?というのは1つ思うところではありますけれど。

ちなみに私はネットの記事であってもこういう「成功した人がやっていた10のこと」とか「愛される女の5条件」みたいなタイトルの文章があまり好きではありません。私がインターンをしているのはメディア系の会社なので,そこで私は仕事としてネットや本でバーっと情報を集めて1時間くらいでサッと文章を書いて「○○な△△5選」みたいな釣り気味のタイトルをつけて記事として世に出す,ということをしています。造詣が深くない対象について知ったような顔で文章を書いている自分の姿を知っているからこそ,よその同じような記事に対しても画面の向こうにそんな自分が透けて見えて,冷めた目で見てしまいます。

再び話を戻して,日本人著者の成功する人云々系の本でいえば,情報量が少ないというだけではなくて,それってあなたが偶然そうだっただけでは?とか,成功とその要素の関係は鶏と卵なのでは?とかが気になってしまうのも好きではない理由の1つです。もともと得られる情報量が少ないのに,それが信ずるに足るのかどうかもわからないものを読む意味とは……と書きながらツイッターを見ていたら,私が言いたかったことをもっとわかりやすい言葉でツイートされている方がいらしたのでそのまま引用させていただきます。

 

改行され過ぎている文章が嫌いだ。

これはおそらく余白が多い本が嫌いだという感情と根っこが同じところにある嫌悪感だと思うのですが,私はやたらと細かく改行して書かれた文章が嫌いです。でも改行した方が人は読みやすいらしい。確かにそれが会社のメールならわかります。パソコンでメールを見ていると,横長の画面の端から端までダーッと並んだ文は読み難い。それでもやっぱり私は,ツイッターやブログにおいて画面を白くされるのが嫌いです。

高校の同期にツイッターでやたら改行を入れこんでくる女子がいました。当時は良い意味で「ゆるふわ」という言葉も流行っていて,なんでも平仮名で書くブームが中高生全体として在ったと思います。その渦中にあったことを差し引いてもあまりにも酷い改行をする彼女のことを私は「改行ちゃん」と呼んでいました。ええそうです悪口です

「きょうは

○○ちゃんと

ぶかつおわりに

らーめん♡

(写真)」

本気でうるさいなと思っていたので途中からミュートしていましたが,とにかく私は彼女のバカっぽさに腹が立っていたような気がします。彼女とは部活が同じだったので,同じ集団の一員としてバカっぽい感じを出してほしくなかったんですよね。一緒にされたくなかった。

不自然に多い改行に対する嫌悪感はそこから来ているものだと考えていたんですが,卒業して改行ちゃんと離れ,改行ちゃんよりはマシな改行頻度のツイッターアカウントを見てもやっぱり不快感がある。「【悲報】【悲報】【悲報】」のような重要なことだから3回書きます系のツイートも煩い。そう思ってしまうのはなぜだろう。そこで行き着いたのが「私は1ページ(或いは1スクロール)あたりの情報量の少なさを嫌悪しているのではないか」という結論です。ページやツイートに余白を作るということは,画面をスクロールする手間とページを捲る手間を,読み手に対して余分に強いるわけですよね。私は心が狭いので,そのことに対して苛々としているのではないかと思っています。

ただし,なぜその人たちが私には過剰に感じられてしまうような改行頻度を良しとしているかというと,それはきっと読み手のことを考えてのことだとも思うのです。びっしり並んだ文字を見ると一瞬で読む気を失ってしまう人というのがこの世界にはたくさんいるそうなので。

私もそこに一応配慮した結果,普段は一文ごとに改行を入れるスタイルでブログを書いています。それも自分ではあまり好きではないので,今回は私が好きな改行頻度で書かせていただきました。今日ここまで読みすすめてくれた方は,いつもより少ないかもしれません。

結局,得たい情報の量や質とそのパッケージの好みは人によって違うし,どれが良いとか正しいとかいうことはないと思います。ただ私はびっしり文字で埋め尽くされている学術書系の本が好きだし,余白が少ないブログが好きだし,140字近い文字数で投下されるツイートが好きです。今日もここまで読んでくださった方とは好みが重なっていたら嬉しいな。

お付き合いいただきありがとうございました。

おやすみなさい。さやかでした。

あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか

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