どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか」

私が社会人になって丸四年が経った。この春入社してくる学部卒の新入社員は、もうほとんどが大学すら被っていない世代だ。

年が近ければ気持ちがわかるなんてことは残念ながらないけれど、二年前ならきっと思い出せた当時の不安が今の私にはもう見えない、そこにあったことすら忘れてしまっている、そういうところはきっとある。

 

さて、インターネットの海は夥しい量の文字で満ちていて、一秒視界を通るだけの「新社会人へ」みたいなツイートは勿論、数分かけて読んだ論文ほどの長さのブログだって、一年経って思い出せることの方が少ない。ほとんどが自分をただ通過するように滑り落ちていく。新卒の頃の悩みと同じように、忘れたことすら忘れてしまう。

でも一度そうして読み流してしまったって、その文章の価値は、重みは、必ずしもそこで確定しないとも思うのだ。

 

わたしがまだ大学生だった、2017年の春。

あるテキストサイトに「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか」と題された文章が投稿された。導入はこのとおり何の変哲もなく、とても春らしいものだった。

就活生は入社に際して希望部署というものを会社に届けでるのだが、希望というのはあくまでも望みに過ぎず、多くの場合希望とは異なる部署へ配属される。

ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか? – 夏目新舎

 

私は学生時代から、これを書いた人のファンだった。インターネットの海が広く深くても、彼の書く日本語以上に好きなそれは、今でもなかなか見つからない。

それなのにこの記事を初めて読んだときのことを、私は覚えていないのだ。当時必ず読んでいたはずなのに。

学生時代過ごした自室よりも、気持ちはぐちゃぐちゃに散らかったまま、与えられた仕事だけはこなしていつか悔しいとか苦しいとかも思わなくなっていた。

「まあこれからだよな」なんて、自分に言い訳もするけど不安じゃなかったって言ったらもちろんウソだった。むしろ、不安だったからこそ心の中は自分の言葉でいつもうるさかったんだろう。わかっていた

私がこれをもう一度発見してボロボロ泣いたのは、社会人になってから、更新が途絶えてしまったそのサイトを未練がましく読み返していたときだった。三年経ち会社員になった私は、学生の頃には記憶にも留めなかった言葉を、拾い上げることができるようになっていた。

 

カニにだって、ヤツなりに希望とかあったんじゃないか。俺は一度だってカニの気持ちを聞いたことがあっただろうか。

カニの気持ちを想像していたら、いつの間にかカニと俺が同化して涙が溢れそうになってきた。俺も思うところがあるから、泣いてしまう。カニが自分の仕事をどう受け止めるか。それはカニに残された尊い自由だから、誰にも否定はできない。誇らしく思うのも、恥ずかしく思うのも彼次第だ

読んだ私も、思うところがあるからボロボロ泣いてしまう。カニは俺であり私だし、もしかしたらあなたでもあるかもしれない。気になる人は「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか? – 夏目新舎」を読みに行ってほしい。

 

たしかにカニじゃなくて他のポケモンにひでんワザを覚えさせてもクリアはできただろうし、代わりがきかない仕事ではなかったかもしれない。けれど代わりがきかない仕事なんてのはこの世に数えるほどしかないと思うのだ。

自分が望んだ役割でなくとも、関わった一部が結果となってどこかに残ればそれはとても尊いことだ。きれいごとや言い訳を言いたいのではなくて本当にそう思う

 

残念ながら「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度でも考えたことありますか」が掲載されたテキストサイトは既に閉鎖されていて、普通に検索して読むことはできない。

希望とは異なる部署へ配属され、誰がどう見たって代わりがきく仕事ばかりをして、本当にこんなふうに日々を過ごしていていいのかと、ごく一般的な不安を抱える新入社員。そういう普通の人が不安の中で藁にもすがる思いで読むのが、普通の不安を甘く煽って退職をすすめるようなインフルエンサーの無責任な言葉より、「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度でも考えたことありますか」だったらいいなと思って、今回ウェブアーカイブから勝手に引っ張り出してきている。

 

「自分が望んだ役割でなくとも、関わった一部が結果となってどこかに残ればそれはとても尊いことだ」。 最初からそんなふうに達観する必要はない。

それに、ポケモンの気持ちを考えていたら泣いてしまった人の文章を読んで泣いてしまう私を、意味がわからないと思われるのも全然いい。まともな感覚だ。

 

でも普通の人が、自分が望んだ役割で自分が望んだ結果を得られなければ幸せじゃないとか、それだけが自分の人生を自分で掴み取るってことだとか、そんなふうに煽られて世界を狭めて、手中にある何かを捨てようとするとき。そんなとき、そういえば地味な仕事ばかりさせていたポケモンの気持ちを考えて泣いた人とそれを読んで泣いていた人たちがいたなって、ふと思い出して踏みとどまるきっかけになることがあるなら、それ以上の幸せはないと思っている

 

 

ところで、本だったら読み返したいときに読み返せるのに、ネットの文章は静かに消えてしまうことがあるのって本当に怖いですね。もしかして他人が閉じたサイトを、単純に好きだからという理由でアーカイブから共有する私の方が怖いですか?

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。おやすみなさい、さやかでした