どんな言葉で君を愛せば、

22歳新卒、OL人生のスタート

遺伝子が人を失恋で死ぬように設計したわけがない

こんばんは。さやかです。9月になりました。8月の終わり頃から晴れて暑い日にも風は乾いて秋めいてきていますね。夏も終わりという感じ。

ただ、8月31日という昨日の日付を意識したのは何だか随分久しぶりな気がしていました。8月の終わり=夏の終わりだと最後に感じていたのはいつだろうかと記憶をたどり始めて3秒で気づきました。私にとって前回8月の終わりとともに終わった夏は、5年前。高校3年の夏です。9月1日になれば夏休みという非日常が終わり、日常が戻ってきてしまうという切迫感が高校生までの夏には確かにありました。

私はこの4年間、8月31日も9月1日も特に意識していませんでした。なぜなら大学生の長い夏休みは9月になっても続くから。両日付間には特に区切りがなく、むしろ集中講義があって大学を離れられなかったりハイシーズンでどこへ出かけるにも高いお金がかかったりする8月よりも、世間の夏休みが終わって好き勝手に動ける9月の方が夏休み本番という空気さえあったように思います。

今年2019年の9月1日は日曜日なので、今日が実感としての夏の終わり、仮想8月31日のように感じられる人も多いのかもしれません。どちらにせよ私にとってはあまり夏が終わるという感覚は強く嘆くようなものではなく、8月の終わりが一大イベントになるとすれば母親として自分の子どもの夏休みの終わりを迎えるときなのかなあと思っています。

でも私と同じように新卒で働いている、つまり1年前の9月1日(ただし2018年も8月の終わりと土日が重なっていたため正確には9月3日)にはまだ夏休みの折り返し地点にいた同級生の中には「去年の夏に戻りたい」とツイッターで嘆き続けている人もいます。明日会社に行ったら同期の女たちもきっと8月の気分を引きずって言ってるんだ、「あー疲れた。去年は9月も夏休みだったのに。早く家に帰りたい」って。それで多分、仕事が好き且つモチベーションを削るような発言を左から右に受け流す余裕もない私はまたイライラするんだろうけれど、それは今は置いておいて。

そんな風に学生時代を振り返って悲嘆しない私が悲嘆しがちなことといえば失恋なのですが、私は失恋するとしばらくツイッターで重めのポエムを綴りはするものの、案外短期間でケロッとして次の恋に突っ走っているんですよね。私個人の切り替えが早いというか何というか、あんなに忘れられないと思っていたことも結局は記憶とか感情がぼんやりしてきて、形を失っていくなあというのは実感として常にあって。好きな人に自分の気持ちが受け入れられなかったら悲しいし傷つくし苦しいし、もう二度とこんなに悲しくなるほど誰かのこと好きになれないって思うのに、同時に頭の片隅では永遠に引きずるなんてことができた試しはないことを理解しているんだよな、と。きっと立ち直れると思えるのは、苦しみに終わりがあることを感じられるという意味で希望でもあり、同時に、こんなに彼を好きでもどうせ私は一人で立ち直ってしまうし彼がいなくても生きていけてしまう、という薄っすらとした絶望でもありました。

 

ヒトは悲しみを乗り越えて前に進む動物である

私は最近読んだ『ヒトの脳にはクセがあるー動物行動学的人間論』という本で、人間が悲しみや苦しみを感じるのは本能的な特性であって、その悲しみや苦しみを自発的に癒やして乗り越えるのもまた人間という動物の本能的特性であるという考え方があることを知りました。

どういうことかというと、まず本能とは後天的に学習されるものではなく特定の状況におかれるとそれを自然と行ってしまうもののことです。人間の「本能」を「多くの人間に共通して見られ、特定の状況が生じたら、自分でもなぜそうするのか、はっきりとした自覚なしに行ってしまう行為や心理、思考」と定義すると、こうした人間の本能は一般に他の動物のそれと比べて少ないと言われています。人間は本能ではなく理性の生き物だから、と。

果たしてそれは本当だろうか?という問を立てることで本書は進んでいくわけですが、結論から言ってしまうと本当ではありません、というのが著者の答えです。

過去の文化人類学によって正義感や道徳感、罪悪感など、後天的に学習するため生育環境・文化によって異なるとされてきた心のはたらきも、人間に共通の本能である可能性が指摘されるようになってきているといいます。

“自我”、“相手の心の読み取り”“未来予見”などはもちろん、その人間という動物が生きて繁殖する上でなくてはならない本能的特性なのである。

しかし、自分が生きるため、また自分の種を存続させるために必要なこの本能的特性たちを備えるが故に私達は深い悲しみや苦しみに苛まれることがあります。

 

悲しみを感じなければ生き抜けない、悲しみを感じたままでは生きていくことができない

「人間も含めた動物の本能的な行動や精神活動は、それぞれの種が生きている生活環境の中で、各々の個体が自分の遺伝子を子孫に伝えることができやすいパターンに形づくられている」ので、たとえば子どもや大切な人を失った悲しみを強く感じるのは、少産保護戦略(少なく産んで大事に育てる)且つ大きな脳にたくさん本能を装備した人間にとって「もう二度とそんなことが起こらないように」という気持ちを強く持つこと(その気持ちによって行動に影響が与えられること)は、生存・存続の上で欠かせないものだということになります。ライオンに襲われて子どもを失ったとき、深い悲しみを感じてもう二度と襲われないようにと周囲を一層警戒するようになったヒトと、子を失っても何も感じずにライオンを警戒するようにならなかったヒトでは、おそらく前者の方が生き残ってきたはずだ、ということです。

これは「人間の遺伝子も本質的には人間を操る寄生虫である」と考える「利己的遺伝子説」によるものですが、「自分(遺伝子)が子孫にうまく伝わっていくように作動する乗り物(つまり遺伝子が乗っている個体)を設計する遺伝子は、必然的に増えてしまう」ので、長期的に見ると生存と繁殖に有利になる、深い悲しみを感じられる人間の本能は綿々と現代を生きる私たちにも引き継がれてきているはずなのです。だからまず、私が恋をひとつ失ったときに悲しくなるのは当然のことであると言えます。喪失というのは悲嘆を引き起こす大きな要因の一つです。

そしてこれは以前別の本でも読んだのですけれど、失恋などで精神的に傷ついて「胸が痛い」と感じるとき、身体には実際に身体の部分が痛むときと同じ反応が起こっていることがわかっています。苦しみから生じるストレスがかかった状態になると、あるホルモンが分泌され、体の面では体内が緊張状態となり、心の面では苦しさに耐える段階となるのですが、これが長く続くと脳を始めとする体内組織に細胞の死などのダメージが起こり始めるのだそうです。

悲しみを感じなければ生き抜けない、悲しみを感じたままでは生きていくことができない……なんだかどこかで聞いたような響きです。

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(BLEACH 5 RIGHTARM OF THE GIANT)

 

さて、私たちの身体を乗り物としては大事にしたい私たちの遺伝子が、体内をそんなダメージを起こすような状況に長く置こうとするわけがないのです。つまり遺伝子は私達がいつまでも悲しみに暮れて身動きがとれなくなるように脳を設計してはいないはずだ、ということになります。

体内を緊張状態に置く、言い換えれば私達を苦しみや深い悲しみの中に置こうとするホルモンを抑制するホルモンが、自発的に放出されるようになっているのだそうです。生きるために必要な悲しみの負の側面が重くなってくると、逆に心を平常に戻そうとするシステムが勝手に働き始める、そういう風に私たちの身体はできているらしい。

ヒトは苦しみ、悲しみの中を前向きに生き抜く動物である。どんなにつらく、どんなにみじめで、どんなに苦しくても、生物としての自分を信じて、しばしの間、耐えていればよいのである。苦しみ、悲しみにたたかれながらも、前向きな感情がひょこひょこと、あるいはじわじわと顔を出してくることを信じて待つのである。

悲しみに暮れるとき、私は失恋ソングを聞きまくったり広い海を見に行ったりするよりも、こういう動物としての人間が備えたシステムについて知っていく方が自分の悲嘆感情が和らぐような気がします。私はこの本を読んで、自分の意識で悲しみを感じているつもりでも、その意識ってなんだかよくわからないものだし感情ってホルモンの働きだし……と思うと、何だか落ち込んでいるのがちょっと馬鹿らしく思えてきて元気になれました。

だからといって悲しみを忘れる方法としてこれを人に押し付けるのは勿論筋違いだし、「すぐに乗り越えられるって!」とか「もう忘れて元気だしなよ」だとか言って人が悲しむことに口を出すのは過剰な役割期待と言ってとてもよくないサポートのあり方なので、悲しみの乗り越え方についてはこのあたりで控えておきます。

本書『ヒトの脳にはクセがあるー動物行動学的人間論』、悲しみ以外の「なぜマンガは文章よりも読みやすいのか?」などのテーマも面白かったです。ご興味があればぜひ!

ヒトの脳にはクセがある: 動物行動学的人間論 (新潮選書)

ヒトの脳にはクセがある: 動物行動学的人間論 (新潮選書)

 

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

 

*小林朋道『ヒトの脳にはクセがあるー動物行動学的人間論』新潮社,2015年。