どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

1年前の自分と話せるなら、自己分析の呪いについて忠告したい。

 

こんばんは。さやかです。

今日は大学の後輩から相談したいことがあると言われたので,お酒を飲みながらいろいろと話をしてきました。

その中で彼女にとっては旬な就活の話も出て,自分の就活期の自己分析のことなんかを思い出したのです。

今日はそういうことを書いてみたいと思います。

 

  • 自己分析と他己分析
  • 言葉の限界
  • 言葉の呪力

 

自己分析と他己分析

就活にあたって自己分析を始める前にも,自分が得意なことはなんとなくわかっていました。

正確には,人に褒められるポイントや自分が人からどう見られているかをわかったつもりになっていたと言うべきかもしれません。 

自分の強みだと思っていたのは確かこの辺りで,

  • 人の話を素直に聞く力
  • 協調性の高さ
  • 責任感の強さ
  • 人当たりが良い

弱みだと思っていたのは,

  • 優柔不断
  • 行動する前に考えすぎる
  • 人の言葉に影響されやすい(素直さの裏返し)
  • 自己が弱い(協調性の裏返し)
  • 甘え下手(責任感の裏返し)
  • とにかく人にナメられる感じ(人当たりの良さの裏返し) 

こんな感じだったと思います。

強みについては人に言われる中で気づいたこと,弱みについては自分が自分に対して思っていたことを挙げているような気がします。

 

たとえば「聞き上手だよね」とか「さやちゃん絶対いい子だなって最初から思ってた」だとか,短い人生の中で繰り返し言われれば,ああ私ってそういう人間なんだなって思うようになるわけです。

私は小学校でも中学校でも他薦で学級委員をやるタイプだったし,中学の部活でも顧問に「お前以外いない」と部長に任命されて,先生と部員,あるいはヤンチャな部員同士の諍いに揉まれる日々でした。

そして「積極性はないけれど命じられたことはやり遂げる責任感がある」という自己イメージを形成しました。

 

高校は幸いにも(?)学級委員や部長をやりたがる人が多い環境だったので,リーダーシップや統率力を求められる立場につくことはほとんどありませんでした。

部活では強い女同士相容れない同期Aと同期Bの両方から「さやかには何でも話せる」と言われて板挟み状態になり,同期からは働かない後輩の愚痴を聞き,その同期に詰められた後輩に「さやちゃん先輩聞いてください!」と泣きつかれ気に掛けるようになると,どちらの肩も持てずに身動きがとれなくなり……

こうして「聞く力があり,わりと誰からも親しみを持たれる一方で,自己主張や批判が苦手」なのが自分だと思うようになっていました。

 

ここがポイントなのですが,ある程度は容貌や話し方などで人格のイメージが形づくられるとしても,最終的に人が自分についてどんな人間かを判断するときって,基本的には目に見える言動が評価対象になるんですよね。

そしてその他人からの評価を内面化しやすい私のようなタイプは,聞き上手だと言われたら聞き上手らしく振る舞ってしまうし,優しく何でも聞いてくれる人だと言われたらそうあろうとしてしまうのです。

 

普段から「私は○○な人間」という枠に当てはまるような行動をとるのはもちろん,就活で自己分析ツールとか適職診断ツールみたいなものを使った時も同じ。

自分を内向的な人間だと思っていれば内向的な自分像に繋がりそうな選択をしてしまうし,外向的な人間だと思っていれば同じように外交的な自分像から外れない回答をしてしまう、ということがあると思います。

 

私は,ここが自分という複雑な対象について,すべてを言葉で理解しようとすることの限界なのではないかと思っていて。

まず当然ながら他者から見た自分と自分から見た自分は違います。

それは自分にしか見えていない部分があるからで,そこが大きければ大きいほど,ギャップも広がるでしょう。

 自分だけが知っている自分,ここを強烈に意識してしまうと自分が自分に抱く自分像と周囲に持たれるイメージが違って悩みます。

そして,それが自分であっても他人であっても,イメージを言葉で表してしまうことによって規定してしまうというか,ピグマリオン効果のような一種の呪いをかけてしまうことになるのではないかと。

 

期待することによって、対象者からやる気が引き出され、成績が向上する現象をさす心理学用語。キプロスの王ピグマリオンが自分で彫った象牙(ぞうげ)の乙女像を愛し続けた結果、乙女像が本物の人間になったというギリシア神話にちなんでこうよばれる。「教師期待効果」あるいは「ローゼンタール効果」ともいわれる。逆に、周りから期待されていない対象者の成績や成果が、平均値を下回る現象を「負のピグマリオン効果」「ゴーレム効果」とよぶ。

引用:ピグマリオン効果とは - コトバンク

 

「優秀な子ども」だと言われれば周りからも「優秀な子ども」として丁寧に扱われ,また子ども自身も優秀な子どもであろうとするし,その逆もしかりです。

少なくとも私は聞き上手だと言われれば「自分は話すより聞く方が上手なんだ」と思ったし,「波風立てるよりも自分が我慢して場を丸くおさめる方が好きな人間なんだ」と自分で思うようになったことで余計に他人のわがままにも付き合う人間になりました。

 

他己分析って自分の知らない自分に気付けて楽しい面もありつつ,私のように他者からの評価で自分を理解しようとする傾向が強い人は,他人の言葉に縛られてしまう恐れもあるのではないかと思います。

 

言葉の限界

私は日常的に物思いにふけるのが好きで,常にぐるぐるといろんな思考を巡らせています。

そして内省的で,誰かとコミュニケーションをとるときはもちろん,自分が何かしたことに対してほとんど次の瞬間から「本当にこれで良かっただろうか」と反省タイムに入るようなイメージ。

そして私の思う「自分」について人に言葉で話すことができるため,「私はこう考えるからこの行動をとる」と自分で説明できる気でいました。

実際,それをすると「自分のことをよく客観視している」とか「自分を俯瞰する視点を持っている」と評価されます。

 

無論,内省をすることは必ずしも悪いことではありません。

ただ,考える時には必ず言葉を用います。

自分の言葉で自分について考えると,その言葉によって自分を枠にはめてしまうことに繋がるのではないかと思うのです。

 

例えば私はここまで述べてきたような自己イメージを以って自己分析に臨むと,協調性が高く,調和を重んじ,内向的で,奉仕の精神があるという傾向が色濃く出ます。

私に実際そういうところがないとは言いません。

それが私だと思って,そう振る舞ってきたのが私だからです。

 

就活にも,大体このような自己イメージをもって挑んでしまいました。

私は人を見て共感することばかりが得意で,その分自己は弱くて,望みが薄い困難に立ち向かったり挫折から立ち直ったりした経験もないから強い芯も無い人間だと。

そのままある程度のところで内定先を選んで就職活動に区切りをつけました。

自分で納得いく終わり方ができなかったので,最近まで就活を振り返ることはずっと怖かったのです。

後輩の代が就活を始めているところも見たくなくて,私のツイッターアカウントのミュートワードには「就活」「20卒」「21卒」「御社」「オンシャ」「内定」等が並んでいました。

 

実は私は自分の中で筋の通らないことが何よりも嫌いで,自分が納得できないことに関しては結構頑なに拒みます。

私のことを思いやりがあると思ってくれる人は,私が共感することのできる人,私の中にある論理から外れないところにいる人だというだけです。

そんな私でも,傾聴力があって人の痛みに寄り添うことができて,情緒豊かな人だと言われる。

自分では優柔不断だと思っているのに、インターン先の上司からは決断力と行動力があると正反対のことを言われたこともあります。

 

こんな風にどんな人も複数の顔を持っていると思っていて,その中には自分しか知らない顔も,自分では気づかない顔もあるはずで……

それなのに人から受けた評価とか自分で思う自分のイメージとか,つまりすべて言葉を使って自分を測ろうとすることについて,結構無茶なことなのでは?と思うようになりました。

 

言葉の呪力

言葉ってやっぱり力があるもので,もやっとした気分や印象を言葉にすることで初めて見えてくるものがあったり,新しい情報が手に入ったりすることもありますよね。

また自分だけが知っている自分については,言葉や行動で示すことでしか人に知らせることはできません。

「○○が好き」と公言しておくと,それに関する情報が自然に入ってくるようになったり,好みが近い人と距離が縮まるきっかけになったりするはずです。

 

情報を得るにはまず発信するのが一番だと思った出来事があります。

私はある大流行した洋楽の1曲が好きで,同じような曲をたくさん聴きたいと思っていました。

でもその曲はあまりに売れすぎていて,Spotifyやyoutubeが機械的に勧めてくる「それを聴いている人がよく聴いている曲」がかなりミーハーになっていて,聴いても満足できない。

そのアーティストの他の曲を聴いてみても,1曲だけテイストが違ったようで,あまりピンとこなくて……。

せっかく自分の好みにがっちりハマるものに出会えたのに残念だなと思った気持ちを,そのまま何気なくツイートしました。

「(歌手名)の(曲名)が大好きなんだけど、似た曲が見つからない」

すると友人の一人からすぐに反応があり,「さやかさんあの曲が好きなんだ。それならこの人の曲はハマると思う」と別のアーティストを提案してくれました。

勧められるままに聴いてみると本当に私が求めていたイメージそのままの曲ばかりで驚いたのですが,もう一つ驚いたのは,友人がそれほど洋楽に詳しかったことです。

私が洋楽が好きだと公言しなければ,私の好みを彼が知ることがなかったし,彼の洋楽好きを私が知ることも無かったわけで。

そう考えると,言葉で表現することの良さというのは確実にあると思うのです。

 

でも,複雑であるものをそのまま認めて,安易に言葉にすることを恐れるという姿勢も大切なのではないかとも思います。

 

たとえば人が何か行動したとき,一般的には動機が先にあり,それによって行為したのであると考えられますよね。

本を買ったのは自分が欲しかったからだ,とか,このブログを読んでいるのは読みたいと思ったからだ,とか。

一方で社会学においては,動機は行為を引き起こすものではなく,行為を振り返って後付けするものであるという考え方があります。

 

われわれは通常はことさら動機を意識して行為しているというわけではない行為の目的や意図は、たいていの場合、何らかのトラブルが発生して初めて事後的に問題にされてくる。(中略)
 ここでは社会学者の視線はもはや個々の行為や行為者ではなく、何らかの異常事態の発生した「状況」全体へと向けられている。相互作用がとどこおりなく進行していたところにトラブルが発生し、それを境に人々が一転して時間を遡って原因究明を開始するのである。

CiNii 論文 -  社会学における「動機」概念の変容:ウェーパーの動機理解と「動機の語彙」論の動機付与

 

自ら行った選択や行為について,人は普通その動機を意識しません。

今あなたがこの文章を読んでいる理由なんて,普通は尋ねられるまで考えもしないはずです。

でも聞かれたらきっと「内容を読みたいと思ったから」だとか「さやかに興味があるから」という理由を思いつくのでは?

 

あなたは今何色の服を着ていますか?それを選んだ理由はなぜですか?

今朝は何を食べましたか?昼は?夜は?その理由は?

そこで思いつく動機はすべて遡って後付けされたものである,というのが社会学における動機の一つの考え方です。

 

彼女がピンクの服を着ているのを見たら,あなたは「彼女はピンクが好きだからピンクを着ているんだ」と理由を推測するかもしれないけれど,本当は他の理由があるのかもしれない。

それと同じで,私が自分で発した言葉や行動した内容について振り返って「私は○○がしたかったから/●●なタイプだから,○○したんだ」と言葉で考えることは,たとえ自分であっても正しい分析になっているとは限らないのです。

自己分析すら且つ之を誤る,況んや他己分析をや,という感じです。

 

偏見なしに飛び込んでみないとわからない世界ってたくさんあって,最初から「自分はこうだから」と選択肢を狭めてしまうのはとてももったいないことだと思います。

自己分析や他己分析,インターンへの参加やエントリーシートを書くことを通して,見えてくる自分の顔はあるけれど,それを言葉で表現したり意識しすぎたりしてしまうことによって縛られてしまう自分がいるのだと意識の片隅で考えておくこと。

思考や動機を言葉に落とし込んで,それで自分を理解したようなつもりになって選択肢を狭めないこと

今,私が1年前の,短期インターンとか会社説明会に足を運んだり,なんとなく自己分析やESを進めていたこの時期の自分にもし言葉をかけるなら,こんな感じになるのかなと思いました。

 

さて私は先日内定先から来年度の配属が通知され,東京で働く女になることが確定しました。

就活の結果は完全に納得できるものではなかったけれど,自分の選択が間違っていなかったと思えるかどうかは,これからの自分次第だと思います。

キラキラ千代田区OLになるべく,邁進する所存です。

また,就職活動は本当に個別性が高くて私の経験を鵜呑みにされると怖いなとは思いつつ,頼ってくれる後輩の力にもなりたいなとも思っています。

頑張ります。

 

今日も最後までお付き合いいただき,ありがとうございました!

おやすみなさい。さやかでした。