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22歳新卒社会人、OL人生のスタート

極端を知り中庸を得よと父は言った。『日本国紀』は名著だと思う。

 

【2019/01/29 13:30 一部修正しました】

 

 

こんばんは。さやかです。

今日は百田尚樹さんの『日本国紀』の読後感を書いていきたいと思います。

よろしくお願いします。

 

  • 右も左も知らなかった
  • 歴史を学ぶ/歴史に学ぶ
  • 私が『日本国紀』を薦める理由

 

日本国紀

日本国紀

 

 

右も左も知らなかった

 

『日本国紀』は日本史の本なので,これを使って語るにあたりまずは私の立場を明かしておきたいと思います。

私は小学校から高校まで,公立の学校で社会科教育を受けてきました。

本を読むのは好きだったので個人を題材とした伝記等を読み漁ってもきましたが,それはあくまでも学校における歴史教育の補填的教材であり,私の歴史観のベースとなっているのは公教育における日本史教育だったと考えています。

 

歴史教育といえば,2022年には日本史と世界史を融合させた「歴史総合」なる科目が高校の必修科目として導入されることが決まっています。

これは現行の「日本史A」「世界史A」に代わって新たに設置される科目で,「この変更によって日本史が学ばれなくなる」という批判をしている人の中には「日本史B」と「世界史B」が融合されると勘違いしているように見える人も多く残念な気持ちになりますが,それについてはまた別の機会に譲るとして。

 

私は2014年度に高校を卒業した人間なので,私の日本史観の基盤となったのは主に義務教育における「社会科」と高校の「日本史B」です。

私はそれらの科目が好きで,日本史に限らず社会科教員による授業が好きでした。

教員の立場は本来,主観によらずに公平性を保って教育に当たるべきだとされています。

しかし同じことが求められているはずのマスメディアにおける報道を見れば明らかなように,それは極めて難しいことです。

 

これは教員個人の資質の問題ではなく,構造に起因するものです。

私は,ただ暗記事項として史実をさらっていく教育は学びとして効果的でないばかりか,事が起こった文脈と発端,それが引き起こした結果までを把握しない限り歴史を学んだことにはならない,と思っています。

実際に大学入試で前後関係の理解が求められる出題が多いことは,高校の歴史教育で事象の因果関係を学ぶことが前提とされていることの証明と言えるのではないでしょうか。

 

そしてそのような歴史教育を行おうとする限り,歴史は文脈を持って語られる必要があります。

「歴史を語る」上で,主観を完全に排除することはできません。

考えているのは人の頭で,その人には独自の価値観や立場があり,そもそも考えるための文献や記録資料も基本的には人が作ったもので,その人の価値観や資料作成の目的に影響されています。

資料が作られた目的や書き手の立場を考慮することによってある程度は主観を排除することはできますが,原則としては主観を排除するのは不可能であると前提として全てのことが考えられるべきだと思います。

 

私に日本史を教えた社会科教員は皆,授業の中でよく自民党に批判的な態度を示しました。

支持政党を明確にし,ある政治家だけを「先生」と呼び,近現代史や時事問題を語る上で現政権を批判をすることを憚らなかった先生もいます。

これらは褒められるべきことではありませんが,上述したように私はそうした教員の語りが好きでした。

だからこそ歴史の勉強が好きだったし,私も先生方のように誰かに歴史を学ぶ楽しさを教えられる人になりたいと思い,日本史の教員になることを志したのです。

 

そして私は大学に進学した後,私が中学・高校で出会った教員が須らく「左」の人であったということ,それが単なる偶然ではなかったということを知ります。

 

地方によって色濃さに差はあるものの,日本最大の教職員組合である日本教職員組合(以下、日教組)は左傾向が強いです。

また教員の問題に限らず,日本史科目の語り自体が戦後に再編成されたものであり,また外交上の都合で書き換えられてきたものです。

これらの問題は戦後の占領期に行われたWGIP(War Guilt Information Program:アメリカが日本人の精神に戦争への罪悪感を植え付けるために行った宣伝計画)や教職追放に起因するものであり,それについては『日本国紀』でも述べられているため説明は省略します。

 

 

歴史を学ぶ/歴史に学ぶ

 

さて聡明でない私は,大学1年生の時点では自分が偏った教育を受けてきたという可能性を考えもしませんでした。

そして日本史教員を志しておきながら,戦争への嫌悪感から昭和史について深く知ることを避けていたのです。

高校までの教育で学んだ“つもり”になっていた近現代史の表面だけをもって戦争を日本の過ちだと認識し,同じ過ちを引き起こさない将来のために歴史を語りついでいくという正義感に燃えていました。

大学1年生の夏,そんな私に父は言いました。

 

「中立でありたいなら,右も左も,両方の偏った意見を知りなさい。」

 

そして,中立であることがいつも正しいとは限らないのだということ。

それから,自分の立つ位置を決めたあとも耳触りの良い話と悪い話の両方に耳を傾けるのを忘れないでほしい,と。

 

同時に,戦争を過ちとして忌避するばかりではなくよく知った方が良いと言って渡されたのが,半藤一利さんの『昭和史』でした。

 

これは半藤さんの"授業"をまとめられた1冊で,まさに語り口調で展開されるため話を聞くように読むことができます。

そして本書の結びの章では,昭和史がこう概観されていました。

 

昭和史は(中略)明治維新このかた日露戦争まで四十年かかって築いてきた大日本帝国を、日露戦争後の四十年で滅ぼしてしまう(中略)なんと無残にして徒労な時代であったかということになるわけです。きびしく言えば、日露戦争直前の、いや日清戦争前の日本に戻った、つまり五十年間の営々辛苦は無に帰したのです。昭和史とは、その無になるための過程であったといえるようです。

 

半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社,2004年,496頁。

 

半藤さんは昭和期の戦争について「日本は馬鹿な戦争をしたからすべてを失った」と概観しておられます。

私は,これは東京裁判史観の立場による語り方であると思っています。

東京裁判(極東国際軍事裁判)の正当性は『日本国紀』で否定されているところですが,内容については『昭和史』が詳しいです。

 

東京裁判史観の立場で語られる歴史は,学校で教えられる内容と,大きな流れとしては相違しません。

学校で教えられる歴史が,この歴史観によるものであるからです。

ただし東京裁判に正当性がないからといって,その歴史観によって語られる歴史を学ぶ理由がないことにはなりません。

 

よく「歴史に学べ」と言われます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。

 

半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社,2004年,499頁。

 

戦後,占領統治下の言論統制やWGIPによって日本の歴史観は再編成されました。

実際に戦争を体験した人であっても,忠実に歴史を記録しようと努めた人であっても,歴史観が変化した(無意識のうちに変化させられた)ことで経験や事実の認知にバイアスがかかったと考えられます。

その東京裁判史観の立場から「同じような過ちを繰り返させまい」という目的を持って,過ちとして語られる歴史はある意味で極端です。

 

一方で『日本国紀』も,日本人がいかに素晴らしい民族であり日本がいかに愛すべき国家であるかを説くために描かれた極端な歴史語りです。

作中では何度も「記録はない。だが〜〜と考えられる。」という推測表現や,記録に基づかない「大胆な仮説」が述べられます。

 

『日本国紀』は私にとって,読んでいて本当に気持ちが良くなる本です。

それは私が日本人であり,さらに大学で比較的に保守的な教授による近現代史やアメリカを中心とした政治外交史,安全保障論などの講義を受ける中で,比較的保守寄りの歴史観を持つようになったからです。

 

さて私は『昭和史』について東京裁判史観,つまり自虐史観の立場から描かれていると述べましたが,実は私が最初に『昭和史』を読んだときに持った感想は違いました。

本書は学校教育における歴史観と同じ立場で描かれたものでしたが,実際に読んだ私はそれと逆行する保守的な考えを持つようになったのです。

私が「日本は憲法9条を改正するべきではない。それが日本を守ることにつながる」という言霊主義のお花畑思想を脱したきっかけは,まさに『昭和史』を読んで日本が経験した戦争を学んだことだったのです。

 

『日本国紀』では,明治4(1871)年にアメリカとヨーロッパに渡った岩倉使節団が,ドイツ帝国で鉄血宰相とよばれたビスマルクに会った際にかけられた言葉が紹介されています。

 

「あなたたちは国際法の導入を議論しているようだが、弱い国がそれを導入したからといって、決して権利は守られない。なぜなら大国は自国に有利な場合は国際法を守るが、不利な場合は軍事力をもって外交を展開する。だから日本は強い国になる必要がある

 

百田尚樹『日本国紀』幻冬舎,2018年,289頁。

 

この国際法を頼ったり平和を呼びかけたりするだけでは決して権利は守られないということを,私は『昭和史』で戦争を学ぶ中で強く感じましたが,それは『昭和史』を世に出した人が導きたかった学びとはおそらくズレています。

 

歴史を学ぶことと,歴史に学ぶことは異なります。

歴史が語られた本を読んで歴史を学び,そこに描かれた歴史に何を学ぶかは読み手次第です。

 

ビスマルクの有名な言葉に『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』というものがあります。

百田さんによると,この名言の原文は「愚かな者は自分の経験から学ぶと信じているばかりだ。私は最初から自分の過ちを避けるために、他人の経験から学ぶことを好む」。

 

信頼できる専門家や知識人の意見に触れて歴史を学び,自分で考えて歴史に学ぶこと。

自分で考えて学びながらも,人の話に耳を傾け続けること。

それが正しく歴史に学ぶ姿勢なのだと思っています。

 

 

私が『日本国紀』を薦める理由

 

日本国紀を極端な本だと言ったり,事実よりも思想に基づいて書かれた本であるように言ってみたり,本当にお前は『日本国紀』を良い本だと思っているのかと思われた方もいるかもしれません。

 

私は,『日本国紀』は名著だと思っています。

 

その理由は正しく歴史を語っているためではありません。

明確な意図をもって偏らせて描かれた物語であると思うからです。

 

少し前の私のように学校教育でそこそこ真面目に日本史を学んできた人が読めば,新鮮で不快な驚きに膝から崩れ落ちるようなショックを受けるかもしれません。

愛国心や自らのルーツを知りたかった欲求が満たされ,温かい気持ちになるかもしれません。

書かれたことすべてが真実ではありませんが,日本礼賛の物語としては一貫しています。

 

日本人の愛国心を育みたい人がその目的のために書いた本であると理解した上で,そう留意しながらこの本を読んでいくことは,批判的な読解のトレーニングになると思います。

本だけでなく,ツイッターやブログにおけるポジショントークを適切に批判的に見きわめる力も鍛えられるはずです。

 

また,先述のように現在の学校教育における日本史は,構造上左に偏ったものとなっています。

『日本国紀』は,その偏った歴史観しか知らない人にこそ読まれてほしいと思います。

学校教育における歴史観とは異なる観点から見た歴史の,入口となるような1冊だと思っています。

 

……と,いろいろ書いてきましたが,帯にも書かれているとおり『日本国紀』は叙事詩であり,つまりは壮大な物語です。

事実が連なった歴史書というよりは日本礼賛物語として名著であると思っています。

かなりやさしい言葉で,明確な目的をもって描かれた物語であり,人に薦めたい本オブザイヤー暫定1位です。

まだお読みになられていない方はぜひ。

 

日本国紀

日本国紀

 
昭和史 1926-1945

昭和史 1926-1945

 

 

『昭和史』も名著ですが昭和だけで上下2巻にわたる大作なので,『日本国紀』の方が歴史を学び直す入口としてはおすすめです。

 

私が教員志望をやめた理由についても,いつかブログで書きたいと思います。

本日も最後までお付き合いいただき,ありがとうございました!

おやすみなさい。さやかでした。

 

【追記 2019/01/28 14:45】

私が「偏っている!」と感じた『日本国紀』も,偏りの中においてはかなり甘いものだという批判を目にしました。

百田尚樹「日本国紀」:意外に戦後史観的で韓国に甘い – アゴラ

やはり私の歴史観の基盤は学校の歴史教育であり,精神的にまっさらな状態で得た学びや時間をかけて形成してきた歴史観は,少し本を読んだくらいで修正されるものではないのかもしれません。

だからこそ私は本を読み続けたいし,専門家から見ると的外れな感想を書いてしまって恥ずかしい思いをしたとしても,懲りずにブログに書きながら学んでいきたいなと思いました。

文章が読みやすいとか、面白いのはたしかだから、あまり歴史に興味がなかった人が、いちど日本通史を読みたいというなら、歴史教科書を読むのよりは気が利いている。

百田尚樹「日本国紀」:意外に戦後史観的で韓国に甘い – アゴラ

日本人の壮大な物語として,日本史を学び直すときの入口として,改めて『日本国紀』をおすすめして終わります。

ありがとうございました。

【追記終わり】

 

 

参考文献

百田尚樹『日本国紀』幻冬舎,2018年。

半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社,2004年。

半藤一利『昭和史 戦後編 1945-1989』平凡社, 2006年。