「言葉にできないほどの思い」とか、「言葉をかわすよりも前に惹かれ合った二人」とか。何の文脈もないところにポンと投げられてもそれだけでなんだかすごくロマンチックに響きませんか。感情を言葉にするのがあまり得意ではない人、はどう読んでも悪口なのにね。それはどうでもよくて、とにかく言語化できないものは、言語化できるそれよりも何だか尊いものとして扱われやすい気がしている。
「だから好き」よりも「でも好き」の方が強いというのも同じ話かなと思う。「優しいから好き」も「私のことが好きなところが好き」も、もっと優しい人やもっと自分のことを好きな人が現れたらとって代わられる可能性があるらしい。でも「特別優しくされた記憶はないけれど好き」とか「どこがいいかと聞かれると答えられないけれど、あの人がいい」とか言い出すと、それらは説明のつく好意より動かしがたく聞こえるそう。
言葉にできれば置き換えられる?置き換えられないものは、置き換えられるものより価値がある、もしくは尊い?本当に?
今朝『ちょっと思い出しただけ』という映画を見てから、一日中、感傷を持て余していた。わたしもちょっと思い出すくらいがよかったのに。
朝起きて仕事の前に見て、夜ジムで走りながらもう一度。一日で二周。二回もあの終わり方を見ればさすがにおセンチな気分は落ち着くけれど、二回目もちゃんと泣けてしまった。
どうして繰り返し見るほど惹かれたのか、残念ながらはっきりわかっている。言葉にできてしまう。
私も好きだったからだ。ああやって何でもない話とかくだらない冗談を、言葉数絞ってもったいつけて、妙にゆっくり話す、ちょっと面倒な男の人のこと。言葉と裏腹なことを声色と目で全部喋る人のこと。優しくするのが下手な優しい人。それ自体にはほとんど意味のない言葉と、それが出てくるのを待つ長い間。好きだった。大好きだった。それを思い出しただけ。
「気持ちとか思いとか、言葉にしたらすぐ壊れるよ」
劇中で彼女が諭される台詞。
言葉にしたら、言葉にできてしまったら、好意に理由が見つかったら、関係性に名前がついてしまったら、それはいつも言葉にならない何かよりも脆いのだろうか。それなら私が、何でもない話とかくだらない冗談を言葉数絞ってもったいつけて妙にゆっくり話すくせに大事なことは全部声色と目で全部喋るし優しくするのが下手な優しいところが好きだったことも、全部説明できてしまうのだからもっとわかりやすく壊れてくれてもいいのに。
多分、優しくするのが上手くないところが好きだったんじゃない。好きだったから優しくするのが上手くないところも好きで、ほとんど意味のない言葉が出てくるのを待つのも好きだった。実際、ただ同じような人が現れてもきっと苦手に感じる。じゃあどうしてその面倒な人のことが好きだったのか、それはもう彼が彼でタイミングがタイミングだったからとしか言いようがない。それを言葉にできないと言うならば、そういうことなのかもしれない。
初めから知ってたら
こんなに愛おしくはならなかったわ
でもそれがあなたじゃなければ
待つこともなかったわ
♪ teto「燕」
わたしが『ちょっと思い出しただけ』を二回も見てしまった理由の一つは、明らかに劇中の彼の話し方が彼に似ていたせいだし、彼の話し方が彼に似ていなかったときにも同じようにこの映画を好きだったかはわからない。でも私の過去から地続きで来た今ここにいる私は、この映画が大好きだっていう、とりあえずそういうことです