どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

ゆるすとは自分を被害者役から解放すること

ご存知だろうか。人一倍自己嫌悪を感じる人は、人一倍自己愛が強い人である。

自己嫌悪感は、自分を否定したり責めたりするように見えて、実は自分を守るために機能している。自己嫌悪感の素の一つは、自分が「本当の自分はもっとすばらしい」と理想の自己を高く評価することで、現状の自分に対して抱える不満だ。そしてその不満で覆い隠すことで、理想的でない自分との直接的な対面を避けてもいる。

ツイッター等でも時々「自己嫌悪感が強い」または「自己肯定感が低い」と自分で言っている人を見かけるけれど、よく見ていくと大抵の場合は自意識と自己愛の問題だ。

 

今回は心理学的な「ゆるし」について書こうと思うのだけれど、今私がこれをとりあげる理由は2つある。

ひとつは時効。昔受けた心理学系の講義で取り上げられていたテーマが「ゆるし」や「自己愛」だった。 身バレの可能性等を考慮してあまり具体的に書いてこなかったけれど、もう数年経ったのでさすがに良いでしょう。ちなみに専攻は心理学と無関係だし、このブログはレポートでも何でもないので根拠となる文献を示す等の学術的な行為は省きます。よろしくお願いいたします

 

もうひとつの理由は、自分が「ゆるし」を必要とする状況に陥ったこと。

人を恨むのにもエネルギーが要ると知った日から約2か月経った今、幸せになりたいとか結婚したいとか言いつつも、当時の私には全く想像できなかったほど穏やかな気分で毎日を過ごしている。このタイミングで、またいつか誰かをゆるせないと思うかもしれない自分のために、気持ちの整理をつける上で重視したことを書き留めておきたいと思う。

 

 

さて、今回、タイトルからずっと「ゆるし」を平仮名で書いているのにはそれなりの意味がある。裏アカ女子が「好き」をただ可愛い感じがするからという理由で「すき」と書くのとは違う。

 

心理学的な枠組みで語られる「 ゆるし(forgiveness)」は、許可を意味する「許し」とも宗教的意味合いが強い「赦し」とも区別される。それは他者や自分の言動に伴って生じた否定的な認知・感情を変容させようとする概念であり、傷つかない場合を含む「寛容」や、出来事を思い出せば怒りも戻ってくる「忘却」とも異なるものだ。

 

ゆるしは自分自身だけで無く、自分を傷つけた他者との間にも成立するけれど、許しと違うのは相手の謝罪や懇願を必要としないこと。

 

では求められていない「ゆるし」は、なぜ、誰のためにするのか?

自分のためである。自分のためでしかない。

ゆるせないこと(一次被害)を抱え続けると、精神的・身体的な悪影響(二次被害)があると言われている。ゆるしとは、他の誰でもない自分が、ゆるせないという呪いから自分自身を救うために選びとる行為なのだ。

 

 

誰かを若しくは何かをゆるそうとするとき、一番の味方は時間である。ただし、時間が必ず解決してくれるというわけでもない。同じ時間を経てもゆるせる場合とゆるせない場合がある。

 

ゆるせないという結果に繋がりやすい要素はいくつかあり、対象との関わりや感情の表出を避けるといった行動のほか、「自己愛の強さ」が挙げられる。

自己愛それ自体は生きる為に必要なものだ。

特に自己愛に含まれる自尊感情(自分自身をgood enoughと捉える特性、また自分が少なくとも人並みには価値のある人間であると感じること)には、「相手に報いを受けさせたい」「関わりたくない」という報復・回避の欲求を下げるはたらきがある。これは、ゆるしやすさに繋がる。

 

一方で、誇大型自己愛(肯定的な自己評価を高く維持しようとするはたらき)や、過敏型自己愛(他者により自己価値を低められる証拠がないことを確認して自己評価を維持しようとするはたらき)が高いと、ゆるしからは遠ざかる。

誇大型・過敏型の自己愛が高いと、ゆるしたい出来事によって生じた屈辱感(自己を不当に貶められけなされたという認知に関連し、憎悪を喚起し攻撃性を促進する感情)を通して報復に向かってしまう。傷つけられた出来事がそのまま自己価値への直接的な脅威と感じられるため、自己評価を維持する為にはゆるすことができなくなる。

 

大切なのは、自己愛の一部を成す健全な自尊心。 自分は人並みに価値があると感じ、人並みでしかない自分を大きすぎる自己愛や自己嫌悪で包み隠すことなく「これで良い」と認める気持ちである。

 

 

ここまでゆるしを良いこととして書いてきたことに、相手や自分の行為を大目に見てやるべきだとか、泣き寝入りする被害者が賢いと説く意図はない。

何かをゆるせないと強く感じる要因が歪んだ自己愛である可能性があるのは事実だけれど、これを示すことでゆるさないという選択を批判するつもりもない。状況が様々ある中で、ゆるせない理由は常に自己愛で、ゆるすという選択が常に最善だなんてことは無いのだし。

 

ただ私の場合は、その問題にこだわることでこれ以上自分が時間や気力を消耗したくないと思ってしまって、そのための一番の近道が学生時代に聞き齧った「ゆるし」であるような気がしたのだ。

 

 

ゆるすとは、自分が幸せになる為に、過去の出来事を真に消化して、自分を被害者役から解放すること。

 

たとえば信じた誰かに裏切られたとき、悪びれない相手をゆるそうとすれば、それはなかなかに苦しい時間になる。ともすると傷つけられた気持ちを埋めるだけの誠意を相手から取り返したくなったり、相手も同じだけの痛みを味わってほしいと願ったりしてしまう。誰かを恨みながら生きていくのはもっとしんどいと、頭ではわかっていても。

だから私は「私がゆるすのは、相手自身でも相手の行為でもなく、その人を信じた過去の時点での自分だ」と考えることにした。起きたことを認めた上で、信じる相手を間違えた自分をゆるして、幸せになりたいと思った。

 

 

選んできた道と言うと大袈裟だけれど、この2ヶ月を振り返ると、ゆるすという選択は間違っていなかったように思う。そう思えるように行動してきた自分、まだ苦しい部分もある現状も含めていつか「全部意味があった」と笑えるようにと踠けている自分に、今それなりに満足している。

 

儘ならないことばかりだし失敗も後悔も反省もするけれど、実直に、直向きに、人生をやっていくつもりです