「延岡、吸わないの?やめたんだっけ?」
「いやー、そうすね、今日は……」
煙草に火をつけた日向さんが不思議そうに言う。その視線の先にいる男の反応に、思わず持っていたグラスを置いた。
今日は……今日は?
学生時代から数えて九年来の友人である延岡が、私の前で煙草を吸ったことは一度もない。今日この居酒屋を予約したのは、向かいに座る彼の先輩のため。会社の人があなたと飲みたいって言ってるんだけど、と延岡から日向さんの写真を見せられたときに二人で飲んでいたお店が分煙だったのか禁煙だったのか、それはもう思い出せない。二人のときは気にしたことがなかったから。
日向さんが私を一瞥し、へえ、今日はねと薄く笑う。その視線から逃れ見やった延岡の横顔には、飽きるほど見てきたばつの悪そうな笑みが浮かんでいた。次何飲まれますかと堪らず口を挟んだ私も、もしかしたら似たような顔をしていたかもしれない。
数時間後、日向さんを乗せたタクシーを見送り、どちらからともなく揃って歩き出す。二人きりの会でなくても、帰り道はいつもそうだった。
んー、と伸びをする私の熱くなった顔を、ぬるい風が撫でていく。風上にいる彼からは、微かに日向さんが吸っていた煙草のにおいがした。今まで何度もあったのだろう。誰かの吸った煙草か、もしくは彼自身が私の知らないところで吸ったそれが、彼の方から香ったことは。
「今日は、ねえ。知りませんでした」
「言われると思った。だから今日会わせるの怖かったんだよなあ」
「次は吸えるところにしよっか」
「気にしないでよ、ヘビースモーカーじゃないし、あなたの前で吸いたくない」
どうして、と口から出かけた言葉を飲み込んだ。これまで見せないようにしたこと、してくれたこと、見ないふりをしあったこと、見なかったことにしてそのまま忘れてしまったこと。
九年は十分な時間だった。尋ねてしまえば彼が何を言うのか、一言一句違わず予想できてしまうくらいには、私は彼を知っている。
「そっか。私、案外延岡のこと何にも知らないのかもね」
「そんなことないと思うけどなあ」
私より温かくて大きい この手を愛とよべないのなら 愛とはいったい何でしょう