どんな言葉で君を愛せば、

22歳新卒、OL人生のスタート

何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性で

言葉は、誰かと話すためだけに存在しているわけではない。私たちは黙って考え事をするときにも絶え間なく言葉を使い続けている。

浮かぶように現れては放っておくとそのうちまた見えなくなったり、またふとしたときに戻ってきたりして自分の中を回っている言葉。そのうちどれを口にして何を口にせず内に秘めておくか、或いは無かったことにしようとするかは、その人らしさがよく表れる重要な問題だと私は思っています。その人らしさというか、それこそがその人自身であると言ってもいいのではないかと思っているほどです。

私はさやかのアカウントでフォローしている人にはそれぞれ「この人がこれについて語っているところが特に好き」と思うポイントがあるのですが、たぐちまるさんについてはそれが知性・品性に対する考え方です。「先のRT」が何だったのかは忘れてしまいましたが、このツイートでは私が「先のRT」に対してモヤリとした感情が見事に言語化されていて、これ以上もう何も言えない……と思ったことを覚えています。リツイートしたもののあまりにも続ける言葉が見つからず、かといって無言で投げっぱなしにするのもどうかと思い、重ねて他人(スピードワゴン小沢)の言葉を借りてくることしかできませんでした。

余談ですがこのように私がすべてを「」で括ったツイートをしたらそれは他人の言葉です。よかったら覚えておいてください。

また、こうして「いわゆる知性や教養」と語られるように知性や品性と遠からざるところにありそうな教養については、同じくツイッターでフォローしているいわんこさんの定義が好きです。

 

知性・品性以前の問題として

隙あらばツイッターを開いてしまう寂しい23歳OLなのでツイッターの話を始めると止まりませんが、何を書こうと思ってはてなブログのアプリを開いたのか思い出したので本題に入ります。

「何を言えるかに知性が表れ、何を言わないかかに品性が表れる」、一般論としてそれは確かにそうだと思うのだけれど、最近私が気になったのはもっと具体的な、狭い範囲における言葉の問題。それは対人コミュニケーションにおいて、必要な一言が言えない/余計な一言が止められないというのは、等しく一種のコミュ二ケーション障害なのではないかということです。

コミュニケーションには多様なかたちがあっていいしそうあるべきだという話は今回一旦棚に上げます。たとえば言葉の通じない人同士がボディランゲージやその場のテンションだけで言葉の壁を乗り越えて交流するのも、長年連れ添った夫婦が言葉を交わさず阿吽の呼吸で理解し合うのも、素敵だとは思うけれど特殊な状況だし、私がしたいのは主に会社や学校などの日常世界でのコミュニケーションの話なのです。まあこれもある種の特殊な環境と言えそうですが……。

さて、私は知性と品性が表れるのは、言わなくてもいい中で何を言えるか/言わないかという問題なのかなと思っていて、多分それはレイヤーで考えるとわりと上位の話なんじゃないかと考えます。その下で基盤を成すのは言うべきことを言えるかどうかというコミュニケーション能力、もっと言葉を選ばずに言えば最低限度の礼節や良識。ここで言うべきこととは「ありがとう」「申し訳なかった」などの一言を想定しています。

 

謝れない人が守りたいもの

人がどうしても謝れない状況について考えたとき、まず頭に浮かんだのは昔何かのドラマで見たことがある、相手に謝罪することが己の非を認めることに繋がり裁判で不利になってしまうという立場に置かれた被告です。この人は確かに謝ることができないでしょう。

でも私達は普段誰かに訴えられた被告ではないし、おそらくそうなってしまうことを心配しているわけでもない。どんな状況であっても自分には全く非がないと被害者面をキメまくる人はもうお話になりませんが、100ではなくても一部は自分にも非があると感じていながら謝ることができない人というのも意外に多いなと思います。苦虫を噛み潰したような顔をしながら、なお責任転嫁するような言葉がすらすらと出てきたり、逆にだんまりを決め込んだり……。

立場とか尊厳とか、考えるところは色々あるのかもしれません。今の私の頭で私より少し長く生きているおじさん(とお姉さま)たちの思考を理解できるとは思えないので、おそらく私には見えない何かが見えているのだと思います。「目下の相手に対して自分の不注意や不備を詫びる」ことに対する大きなハードルが、多分存在している。

でも少なくとも今の私から見れば、謝れない人は謝れない人でしかないのです。反射で「ごめん!」が出るおじさんの方がずっと大人だと感じます。社会で生きる大人が「ありがとう」「助かった」「申し訳ない」このあたりの言葉を素直に言えるかどうかは知性ではなく、大人としての成熟度の問題だと思うのです。言うまでもなくあくまでも私の尺度では、ですが。

 

余計な一言イコール悪意、ではない

ここまでは言うべきことを言えるかどうかという点を軸に書いてきたつもりですが、次に書きたいのは逆の、言うべきでないことを言わずにいられない人についてです。

先程、知性をもって「何を言えるか」品性をもって「何を言わないか」問題は上位のもので、言うべきことを言えるかどうかはその下にある問題ではないかと書きました。そう思う一方で、2つはまったく別のものかもしれないと思ってもいます。そこにあるのは、コミュニケーションの種類の違いです。ツイッターで不特定多数に向けて発信する言葉と、相手がある状況で伝える言葉は同じではない。

目の前の相手に言わない方がいいことを言わずにいられない人、あるいはそれが言うべきでない一言だとわからない人に欠けているのは、品性ではなく想像力だと思います。

たとえばセクハラに類することを言うおじさんが「こんなことを言ったら今はセクハラって言われちゃうかな」と薄気味悪い笑みを浮かべるとき、「気持ち悪いおじさんとして気持ち悪いことを言って不快にさせてやろう」とは思っていないはずです。そんなに邪悪な人ではない、馬鹿なのと邪悪なのは違うと私は信じています。

私の上司は所謂「一言余分な人」で、その余計な一言で円滑なコミュニケーションを阻害していることに自覚的ではありません。何より最も困るのは、彼自身はおそらくそれを良かれと思って言っているのであろうこと。

朝早く会社に行けば「早すぎない?」昼に英語の勉強してたら「どこで使うの?」……上記ツイートのように何か一言言ってやりたいというよりは、部下に些細なことでも何か声をかけたいという思いからきているものなのだと思います。悪い人ではないから。

でも私の感想はツイート元の方と同じ「無視してくれ」の一言に尽きます。「ちょっと来るのが早すぎない?もっと遅くてもいいよ」に「オフピーク通勤したいので…」と返しつつ「このくだりあと何回やればいいですか?私より早く来てる人だっているし、時間外手当つけてるわけでもないし、ピーク時の満員電車が本当に嫌なんです、好きで早く来てるんです、いけませんか!?」という喉まで出かけた喧嘩腰の台詞を飲み込んだことは、一度や二度ではありません。

それは彼が一言余計なのは出勤時間に関することだけではないから。私の中で上司はもう「一言余計な人」になってしまっていて、だから彼の一挙手一投足、一言一句に神経を逆撫でされてしまうのです。これが悪循環なこともわかっていて、改善するべく色々と手を打っているのですが、それはまた回を改めて書きたいと思います。

 

「ありがとう、あなたに頼んでよかった」

もう3,500字も書いてしまったのでまとめに入ります。今回書きたかったのは「何を言えるか」で見えるのが知性で「何を言わないか」で見えてしまうのが品性で、必要なことが言えるかどうかでわかるのは成熟度だと思う、という話でした。

それともう一つ最近ひしひしと感じているのが、(相手の気分を良くするという意味で)言った方が良いことを、思ったときに躊躇わずに言えるのも大切な力だなということ。

これは非日常なシチュエーションだったので随分大げさな話に見えますが、たとえば思いがけない親切を受けたときの少しオーバーなくらいのお礼とか、その人でなくてもいい仕事を頼んだあと、結果を受けて最後に「あなたに頼んでよかった」と添える一言とか。

「ありがとう」「ごめんなさい」は言えて当たり前の、必要な言葉だと思います。それに比べると「あなたに頼んでよかった」「あなたのおかげで助かった」は少し過剰です。余分と言ってもいい。でもそれで相手の気分や自分との関係性が言わないよりも良くなるなら、言うべきだと私は思います。情けは人の為ならず、です。

今日も長々と書いてきましたが、とにかく私は誰に対しても気分を損ねる余計な一言ではなく、良い方向に余剰的な言葉が口をついて出る人でありたいと思っています。ついこの間反面教師なんていない方がいいと書いたばかりですが、仕方がないので余計な一言がやめられない一部の諸先輩方を反面教師としつつ。

 

ちなみに時と人と場合と関係性によりますが、下記のようなものも言った方が良い言葉に数えられるかもしれません。時と人と場合と関係性によるので、使うときはくれぐれも注意してください。

最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。