どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

あちら側にいたのは、自分だったかもしれない

もうそんなに若くないということ。

「かわいい」って大別すると愛か軽蔑じゃない?とインターネットで書き出したそばから、でもその両方なことも多いかあと思って何も書けなくなる、みたいなこと。失礼なおじさんに腹が立つとき、その向こう側に顔は見えない誰かの存在が浮かんで気が収まってしまうようになる、みたいなこと

 

親友の未来を奪った加害者らへの復讐劇である映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、極端な例だ(と言っていいのかわからない)けれど。主人公が憎む加害者らに、主人公の憎しみの深さと同じだけの罪の意識はなかったように、自分の意識や記憶の外で誰かの恨みを買うことそれ自体は、特に珍しくないと思っている。

傷つく方はいつも勝手に傷ついている。傷つける側の人が、その傷を正しく認識できる場合はそう多くないと思う。自分が自分の思いもよらないところで誰かに憎まれているかもしれないと、露程も思わずにいられるのは、それはそれで幸せな人生なのだろうか

 

 

人を裁けば、いや裁かなくても、いつか自分が裁かれる側にまわる。たとえばいい年して独身なんて絶対に何か難があると笑った、たとえば先の短い老人より若者の命を優先すべきだと吠えた、その声はいつか自分の背中に刺さる日が来るかもしれない。

だから何かを批判するのはやめよう、と言うつもりはない。気に入らない何かや誰かに石を投げるなとも思わない。ただ、投げる前に石の当たったときの痛みを想像したり、石を投げるように唆してくる人や投げようとする自分の足元に一瞬目をやったり、それくらいはしてもいいのでは、と思うことが増えてきた。これは単に私がインターネットを見過ぎているだけかもしれない

 

時と場所が変われば、自分が石を投げられているかもしれない。あちら側にいたのは、自分だったかもしれない。そういう恐れなしに発揮される正義って若さだなと思う。

自分より若い人が持ち合わせる若さは当然に素敵で眩しい。それを削ったり捏ねたり揉まれたりしないまま、年齢だけ重ねた人が持ち続けたとき、それは若さではなく成熟度の不足に置き換わってしまうような気がしている

 

私が私の人生を生きる間、人には人の人生がある。その中で、私の正義にも誰かの論理にも大抵は一理ある。だから衝突することもあって、その結末がエンタメになるほどのわかりやすい勧善懲悪になることは、まあほとんどないと思うのだ。

誰かが正義を感じてスカッとするなら、誰かのメンツが潰れている。おじさんの面子は地雷とはよく言うが、面子・面目が地雷なのは何もおじさんに限らない。面目とは尊厳だ。尊厳を著しく損なわれた人がどう歪むのか、どこに対してどんな恨みを募らせるのか、少し思い馳せてからでも石を投げるのは遅くないはず

 

 

遠回りになりましたが、結局言いたかったのはこれです。正義みたいな顔してインターネットで私刑を促す大きなアカウントとそのフォロワー、面白がることで私刑に加担する人たち、正義でもなんでもなくて真っ黒に悪ではないですか?

誰が何を好きでもいいけれど、私はあの露悪的なアカウントをフォローして面白がって時には拡散している友達の、あの露悪的なアカウントをフォローして面白がって時には拡散している部分だけはどうしても嫌いで苦しいです