どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

今見直したい「常識」の価値

少し前にツイッターをざわつかせた血液クレンジング。

私が今回の騒ぎで最初に「血液クレンジング」の文字を見たときには、血液透析とか血液浄化療法の新しいおしゃれな言い方なのかな、美容目的でカジュアルに使おうとするお金持ちがいるのかしら……くらいにしか思わなかったので特に情報を追わずにスルーしていたのだけど、フォロイーのブログでそれが血液をオゾンで酸化させるものであると知りました。

私は血や傷を見るのが苦手で、残酷だったり血がもろにお目見えしていたりするものは創作物ですら怖いので、芸能人やインフルエンサーが載せる施術中の血液の写真は怖くてほとんど見ていません。でもそんな写真よりもさらに怖いのが、自分の血を一度身体から外に取り出してその「血をオゾンで酸化させる」ことに対して何の疑問も恐怖も抱かない人の存在です。施術中の写真に写る、彼女たちの笑顔です。怖すぎる。だってオゾンですよ。血を、オゾンで、酸化させるんです。そんなトンチキ美容というかトンチキなだけで済むかどうかもわからない妖しい施術をあんな笑顔で受けて、しかも人に勧めるなんてどうかしてる。

 

オゾンの有毒性なんて常識じゃないのか

オゾンが毒性を持った気体であることなんて、義務教育で習いませんでしたっけ?理科とか、或いは理科は苦手でまともに理解できていなかったという人でも、環境学習を不真面目にでも通っていれば、オゾンと聞いてまず思い浮かぶのはオゾン層とフロンガスの関係辺りになるのでは?そして何となく人の身体に入ったらヤバそうな感覚を覚えるのでは?

……と思ったのだけれど、私が小学生の時に環境学習に取り組んだのは総合的な学習の時間で、これは2000年にスタートした制度なのでもしかしたらおじさまおばさま方は義務教育では教えてもらえなかったのかもしれません。或いは、総合的な学習は実施する内容が各学校に委ねられているので、若い人でも学校が環境学習を選択していなければオゾンは理科の時間に酸素の同素体としてさらりと紹介されただけだったのかも。

血液をオゾンで酸化させる血液クレンジングに飛びついてしまう人がいることは、義務教育の敗北というかなんというか…….何年も前から血液クレンジングに目をつけていた(のか目をつけられて広告塔になっていたのかはわかりませんが、とにかく血液クレンジングについてツイートしていたらしい)インフルエンサーの某ちゅうさんは確かkiou卒ですよね。私は比較的学歴厨な人間ですが、残念ながら学歴はきちんと義務教育で常識を身につけてきたことの証明にはならないのだなあと頭を抱えたくなります。

でもたとえ義務教育でオゾンそのものについてきちんと教わらなかったとして、それなら自分の血をそんな得体のしれないものに触れさせる前にオゾンについて多少知りたくはなりませんか?理科の教科書なんて見なくても、辞書を引くかググるかすれば一発で有毒の文字に出会います。

「酸素の同素体。特有のにんにくのような生臭いにおいをもつ微青色の気体。化学式O3。空気中で放電したり紫外線を当てたりすると発生する。酸化力が強く殺菌・消毒・漂白などに利用される。目や呼吸を冒すので有毒

ツイッターやインスタでハッシュタグ血液クレンジングで検索をかけるよりも先にオゾンをググれば、Wikipediaにもきちんと人体に有毒であることが書かれています。昨今は「ググれカス」が流行った時代から一周して、ググってもカスみたいな記事しか出てこなくなったからSNSの投稿検索の方が精度が高い情報に触れられる、という意見をよく見かけるようになってきました。主にツイッターで。

かくいう私も新作化粧品の評判を見たり、好きで行くカフェやパン屋を探したりするときにはよくインスタやツイッターの投稿検索機能を使っています。でもやっぱり、それだけを情報源にしてしまうのは危険すぎるのだな、と今回の件で改めて思いました。

 

「常識」とは

所謂インターネットリテラシーというか、インターネットに限らず、情報リテラシーがないと学力的には問題がない人でも思わぬ落とし穴にハマってしまうのだなあと思います。日常的にはインターネットリテラシーという言葉は、名前や顔などインターネットにむやみに載せると危険なものがわかっていて、それをしないという「危機管理能力」的な文脈で用いられているような気がしていて。もちろん発信者側に立つときのそれもネットリテラシーの一面なのだけれど、見ている受け手にも受け手としてのリテラシーが求められているのですよね。誰もが気軽に発信できるからこそ、発信者側にあまり誠実さを期待しすぎない方が良いのだと思います。

今回の血液クレンジングで言えば、オゾンで血を酸化する方法だとわかった時点で、「血液クレンジングの口コミ」ではなく「オゾンが何であるか」を調べてみるとか。この「オゾンって体内に入れて大丈夫なものなんだっけ」という何となくの感覚がどこからくるかというと、それが結局、常識と言われるものなのではないかなと思うのです。昨今散々壊せとか捕らわれるな等と言われがちな常識こそ、情報リテラシーの基礎なのではないでしょうか

「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」とはアインシュタインの言葉ですが、私は小中学校の義務教育(と場合によっては高等教育も含む)で身につけることが期待される知識や判断力が、最も多くの他人に共通して求めることができる常識なのではないかと思います。

ここで改めて常識の意味を引いてみると、「一般の社会人が共通に持つ、また持つべき普通の知識・意見や判断力」とあります。常識は当然持っていることが期待される知識のことも指しますが、定義にあるように持つべき普通の判断力もまた常識の構成要素です。常識という言葉が英語のCommon senseと対応していることを考えると、常識の持つ判断力という色が見えやすくなるかと思います。

このところ「常識にとらわれない柔軟な発想」というようなフレーズをよく耳にしたり、「常識的に考えて」と言った人が「今は常識も多様なのに」と責められたりと、これまでの常識をとにかく悪いものとしたい人たちがたくさんいるのだなと感じています。確かに変化の多い時代の中で何でもかんでも歴史があるものが頼れるものとも限らないけれど、それでもオゾンに毒性があることは明らかにとらわれるべき常識でしょう。

 

集めた常識を更新しながら生きていく

健康や美容に興味があるなら、老化の大きな要因として糖化・酸化があることを知っていれば、血液にオゾン(O3)どころか酸素(O2)を呼吸で得られる以上に取り入れる必要があるのかどうかも気になって立ち止まれるのではないでしょうか。

ただこのような医療的な知識など、どこかの誰かが日々続けてくれている研究によってもたらされる変化が大きい「常識」があるのも事実です。18歳までに身につけた適切な偏見のコレクションだけで生きていけるほど人生は短くありません。

学ぶべきときに学ぶべきことを学びながら大人になった上で、大人になってからも常に自分の常識をメンテナンスしていくことが必要なのだと思うのです。でもその更新に際して致命的なバグを生んでしまわないためには、やはり教育システムの中で然るべき知識と判断力を身につけ揺るがない基礎を固めておく必要があって、今のところインターネットはそのための義務教育や学校という制度を代替できるような環境ではないと私は思っています。

だから学校に行くのって原則大事なことだと思うし、一方で高学歴でも血液クレンジングに対して違和感を覚えないような(違和感を持っているのに人に勧めているとしたらもっと悪質ですが)某ちゅうさんのような方々を見ていると、学校には行けばいいというものでもないことがわかります。

大事な教育を担う教員の働き方の厳しさやごく一部の教員による過激な教員間のいじめ行為が話題になり、それにより教員を志望する人がさらに減って人手が足りなくなり労働環境が悪化、結果的に優秀な人材は教職を選ばない悪循環が起きていたり、ある教員資格の試験は台風の騒ぎの裏でひっそりと試験中止・全員合格なんていう事態になりかけていたり……ネット上の発信者が常に自分に対して誠実であると期待しない方がいいように、公教育や学校という環境に対しても過度な期待や信頼は禁物なのだと思います。無論、インフルエンサーの投稿と学校で用いられている教科書の内容とは並べて語れるようなものではないのですが。

 

こんな私もいつか子どもを産み、育てるのかもしれません。自分の子どもには、うっかり血液クレンジングに手を出さないくらいの常識を備え、リストランテで「おなかが空いていない」と言われた時に想像力を働かせ機転を利かせられるような人になってほしいと思うけれど、そのためにはどうするのが良いのかなあということをつい考えてしまいました。まずは彼氏をつくるところからかな。

最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

興味と体力と時間が無ければ本なんて読めない

こんばんは。さやかです。台風19号に荒らされた3連休の前半でしたが、このブログを読んでくださっている方々はご無事でしょうか。おかげさまで私は身も家族も住処も無事だったので、旅行をキャンセルして予定が真っさらになった週末をのんびりと過ごしております。

久しぶりの更新になってしまった今回は、私が愛読しているブログ「俺の遺言を聴いてほしい」の読みたい本を買って読もうという記事に触発されて、本に関することを書いてみようと思います。いつものように一冊をとりあげて長々と読後感を書くのではなく、読書に関する私の雑感をまとめてみようかなと。ゆるっとふわっと、文字数も抑えめにするつもりです。よろしくお願い致します。

 

優しく諭されるような語り口の本しか読めない夏だった2019

さて文字数を減らそうということで、寄り道しがちな前置きを省いて早速本題に入りますが、私は以前の記事にも書いたように、読むのにそれなりの胆力がいる本が好きです。

情報量が多くて,且つ根拠がちゃんと外部に担保されている文章が好きです。論文を読むのはすごく好きだし,本で言ったら学術書が好き。

なぜあの人は過剰に改行するのか。私はなぜそれを嫌うのか - どんな言葉で君を愛せば、

でも最初に触れた「俺の遺言」の記事でヒデヨシさんも書いていたように、私が普段好んで読み漁るアカデミック寄りの本は、読むのに体力と時間が必要です。

そして名著の名著たる所以なのか、名著は分厚い本が多い。それゆえに読み始めるのに気持ち的な準備が必要で、読み終えるためには時間的な余裕が必要だ。

「後で読む本」は結局読まない。積ん読の予防と対策を考える - 俺の遺言を聴いてほしい

私は本が好きだと公言していることもあって、現実で知り合う人やツイッターのフォロワーから「自分は読書が苦手」とか「特に難しい本は読めたものではない」とか言われることが少なくないのだけれど、きっとその要因は様々だと思うのです。本が読めないときに無いのは気力かもしれないし集中力かもしれないし、時間的余裕かもしれないし、はたまた興味かもしれない。

いくら読書が好きでも、いつもと同じ本に向き合う気力や体力、時間がないときというのは確かにあります。私のような、文字を目で追うこと自体が好きなのかもしれないと思う活字中毒的人間でも、本を手に取る気になれない日はありますし、それがしばらく続くことも頻繁に起こります。

べつに本を読まなくても死なないし、いまどき求める情報を得る手段なんていくらでもあるのだから、本を読む気がないのなら無理をする必要なんて無くて。でも本にしか書かれていないこと、書籍くらいの厚みを通して語られないと体系的に理解ができないことというのは少なくないと私は思っているから、未だに読書なんていうアナログな趣味に好んで多くの時間を割いているに過ぎません。

 

「とにかく原典にあたれ」論の厳しさ

さてここで話をやや横道に逸らしてしまうけれど、「何かを学びたいと思ったとき、原典にあたる以上に良い学習法は無い」という論は根強いです。それが最も良いということに関して、基本的に私も異論はありません。でもたとえば哲学に明るくない人がデカルトの思想に興味を持ったとき、いきなり彼の著作『方法序説』や『情念論』にあたるのはハードルが高く、それこそ日中働いて脳も疲れている社会人が家に帰ってから読むのはなかなか骨が折れるはずです。そこでせっかく興味を持った人に「自分には哲学は難しすぎた」と思わせてしまうのなら、「とにかく原典にあたれ(そうでなければダメだ)」という原典至上主義論は害ですらあると思います。自由に使える時間も体力も限られている大人が新しいことを始めるためには、ハードルは低く低く設定しておく方が良い。

ちなみに、もしもこのブログを読んでいる方の中に「偶然最近デカルトに興味を持ったところだった!」という方がいらした場合、おすすめしたいのがこちらの本。優しく語りかけられるような文体で、デカルト自身もかなり人間らしい存在として描かれている少々変わった入門書になっています。

デカルトの憂鬱 マイナスの感情を確実に乗り越える方法 (扶桑社BOOKS)

(津崎良典『デカルトの憂鬱 ー マイナスの感情を確実に乗り越える方法』扶桑社,2017年。)

 

さらに余談ですが、原典至上主義といえば先週ツイッターで燃えていたのがこちらのツイート。もしかしたらザワついていたのは文系学部出身者が多い私の周りだけで、今ここで初めて見るという方が多いのかもしれません。

このツイートへの言及を見ていると「漢文を学ぶ必要がない」と読み違えている方が多い気がしたのですが、これは明らかに漢文を日本語として読み直す訓読というステップを挟む、書き下して理解するという漢文の学習方法についての批判であって、漢文自体について彼は「中国語で読める漢文を教えてほしかった」とはっきり述べています。

もちろん英語で書かれたものは英語のまま、漢文で書かれたものは漢文のまま読めるに越したことはないのです。書き下すとき、書き下したものを現代語訳されるとき、現代語訳に解説が加わるときに少しずつ原典は濁るという考え方そのものは疑いようがないし、他者の意向によって濁る前の清流に触れられるならその方が良い。でも中国語を一から学んで漢文に臨むよりも、日本語に直す方法を知って、母語である日本語で理解する方が私たち日本人が漢文を理解しようとする上で効率が良いのです。漢文が中国語を学べた者にしか理解できないものであったとしたら、漢文の古典を日本人として基礎的な素養とすることはおよそ叶わなかったと思います。

 

随分回り道になりましたが、今回書きたかったのは2つ。難しいものを難しいまま、複雑なものを複雑なまま理解しようとする姿勢を私はとても尊いと思うけれど、それに縛られる必要もないと考えていること。それから、読書は無理にするものでもないし、名著と名高い古典や誰かの推薦がついている本だからといってそれが自分が読むべき本というわけでもなく、そのときの自分に合った、心惹かれる本を読むのが良いと思っていること。

たとえば漠然と経済に興味を持ったばかりのあまり読書家でない友人におすすめの本を尋ねられたとき、いきなりカール・マルクスの『資本論』などを読んで当然という顔で投げつけて心を折ってしまうのは勿体ない話で、入口として『父が娘に語る経済の話』あたりをスッと差し出してその対象に対する興味を一層強くしてもらって沼に導く、私はそういう優しく残酷なオタクでありたいなと思っているという話でした。

父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

 (ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社,2019年。)

 

改めて言うまでもないとは思うけれど、義務感や人の勧めに追われず、ぜひ読みたいときに読みたい本を、読みたいときに読みたいブログを読んでください。その中に私の紹介した本やこのブログがあるとしたら、それはこの上なく幸せなことですが。

今回も結局長文になってしまいました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

デカルトの憂鬱  マイナスの感情を確実に乗り越える方法

デカルトの憂鬱  マイナスの感情を確実に乗り越える方法

 
父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

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  • 作者: ヤニス・バルファキス,関美和
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/03/07
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高学歴男女限定マッチングサービスはおすすめできない

少し前にツイッターで、高学歴男女限定マッチングサービス「ブライトマッチ」なるものが話題になった。

男性はほぼ旧帝大と早慶に絞られているのに女性の範囲はもう正直何でもありという印象を受ける。男女格差がすごいし、確かに大学院についてもノータッチなのが謎だ。一応登録には出身大学の判断がつくFacebookのアカウントが必要で、学歴に関してのみ言えば、いくらでも詐称ができる某ィンダーなどよりは信頼性が高いかもしれない。

 

さて、ここからは私の個人的な事情と感想のみを綴っていくことになる。結論から述べると、自分の出身大学が登録対象になっているとしてもブライトマッチへの登録は原則おすすめしない。原則、と付けた理由も含めて書いていくつもりだけれど、どんな体裁をとったところで内容としては「残念な時間とお金の使い方をしてしまったという後悔を何とかブログのネタにすることで昇華した気になりたい」という動機で吐き出す愚痴である。また、内容の都合上どうしても私が上から目線に何かを判断しているようにとれる表現も多いと思われる。不快感を覚えたらすぐに読むのをやめてほしい。

 

ブライトマッチは受け身の人間向き

しつこいようだが、私は自分が常に男性を選ぶ立場であるなどとは思っていない。今回の登場人物は全員恋人がいない男女であることが前提になっているわけで、マッチングサイトなどいわば現時点で決まった相手がいない余り物同士の出会いの場である。言わずもがな私も。

前提を確認したところで、まずブライトマッチの特徴と思われる点から述べていく。

1.登録時に学歴審査がある

2.マッチングは運営任せ

3.プロフィール写真という概念が無い

4.「まずはランチ」という運営からの指示

 

順番に説明していきたい。先述の通り、登録時にはFacebookアカウントを使って学歴を確認される。本人確認やクレジットカードの登録、プロフィールの入力が済むと、あとは運営側が「ご紹介」してくれるのを待つだけだ。個人差はあるかもしれないが、私の場合は登録した日かその翌日には最初の紹介を受けたように記憶している。

紹介を受け、相手の簡略なプロフィールを確認してデート希望エリア(恵比寿/代官山/中目黒、銀座/丸の内、六本木/麻布、青山/表参道、その他)を選択すると、メッセージのやりとりが許可される。運営からの「まずは気軽なランチデートを推奨しております」という文言が表示されることもあって、挨拶もそこそこに具体的な日時の調整に入ることが多いのではないかと思う。

さて、もうお気づきかと思うがブライトマッチは自分で良い方に働きかけられる範囲がとても小さい。例えどんなに自分の好みの男性が会員として存在していたとしても、紹介されなければ巡り合うことはない。ただし紹介さえされてしまえば、顔写真すら見たことが無い人とも自然にまずは会ってみようという流れになるように設計されている。この誘う段階で気を揉まなくて良いということがどれほどのメリットであるかは個人差がある部分だと思うが、大まかに、女性をデートに連れ出すことに苦手意識がある男性にとっては強烈なメリットになり得るだろう。誘い方がわからなかったり、顔写真を載せられるほどルックスに自信がなかったり、他の主体的に行動する必要があるマッチングサービスではなかなかデートまでたどり着けない男性には優しい設計になっていると思う。マッチング後の食事が前提になっているサービスには某イナーというものもあるけれど、私は使ったことがないのでコメントを控えておく。

 

ブライトマッチを人に薦めない理由3つ

人と書いたが、男女ともにあてはまる部分と、特に私と同じ女性にしか関わらない部分があると思う。あえて書き分けることはしないので、自分の立場から取捨選択をしつつ読んでほしい。

3つの内1つはもう上に書いてしまった。このサービスは、途轍もなく受け身の人間向きだ。私は1か月ほど前に失恋し、他の出会いを求め、同時に好きだった人以外に対しては積極的に会おうと思えないことを自覚した。そのため半ば強制的に出会えるこのサイトに登録してみたのだが、わかったことがひとつ。私は、受け身の男性があまり好きではない。ユーザーが受動的であるというか、在らざるを得ないこのサービスがぴたりとハマってしまう男性を、おそらく私は好きにならない。

これは好みの話なのであまり言っても仕方ないのだけれど、普段顔見知りの男性に普通に誘われたり、デートをするということに限って言えば他のアプリでも特に困っていなかったりする女性があえて戦場にすべきサービスではないように思う。

 

すすめられない理由2つ目、顔が見えない。私はツイッターを通じて人と会う機会があるので、顔が見えない人と会うこと自体をあり得ないこととする感覚があるわけではない。それでもツイッターならその人が何について語り、何については語らず、またどういう言葉を使う人なのかを見ていると少なからずどんな人なのかはわかってくる。ツイッターでヤバすぎる人と出会ったことはまだない。一方ブライトマッチでは紹介された相手の顔は会ってみるまでわからない上に、アプリ版がなく開くのが面倒なので、デートの日時と待ち合わせ場所を決める以上の言葉のやり取りに積極的になれない。私は指定された待ち合わせ場所についた時、そこにいた20代後半の男性の頭が禿げ上がり、胸元のポロシャツのボタンが2つ外れ、これからハイキングにでも出かけるのかと思うようなリュックと運動靴を身に着けているのを見て帰りたくなった。ドタキャンなどできる質ではないので意を決して声をかけたけれど、思えばあの瞬間にブライトマッチを退会しようと思ったような気がする。

 

3つ目。マッチングの解除ができない。普通のマッチングアプリというか、何が一般的かはよくわからないのだが、広く知られている中で私も使ったことがある某アーズや某ィンダーはマッチングの解除ができたはずだ。解除とはつまり、最初にプロフィールを見た時点ではいいなと思った相手がメッセージのやり取りや実際に対面する中でヤバ男あるいはヤバ女だとわかったときにその相手との繋がりを断つ仕組みだ。マッチングが解除された相手はもう自分にメッセージを送れなくなったり、プロフィールを見られなくなったりする。ブライトマッチにはそれがないのだ。

私は前述の一度会った男性から連投されるメッセージに辟易して解除について運営に問い合わせたところ、「ご紹介済のお相手を解除することは出来ません。やりとりの中で迷惑行為などを受けた場合は、ユーザー通報メールにてご報告をお願いいたします。よろしくお願いします。」というお返事をいただいた。おそらく「月○人以上の紹介」という金額設定の都合上、解除を許してしまうとその数字が担保できなくなって困るということなのだろう。

個人的には解除ができなかったのでとても困った。清潔感や常識がない人と一緒に食事をしなければならなかったこと、それ自体が私としては猛烈に恥ずかしかったのだけれど、それを以て迷惑行為とすることもできない。本人に「もう連絡しないでください」なんて言うのは嫌だし、悪い人ではないと思うので通報するのも違う。一般的にマッチングサービスを使うことの良さは、合わない相手と巡り合ってしまったときにそれを気軽になかったことにできる点にあると思っていたのだけれど、ブライトマッチでそれができないことは盲点だった。

 

私が高学歴男女限定マッチングサイト「ブライトマッチ」への登録を誰かにすすめるとするなら、審査基準の学歴を持っていることは前提として、その中でも「自力でデートに漕ぎ着ける自信がない男性」に限る。ルックスや経験の乏しさ等を要因として自分から女性を誘うことに強烈な苦手意識があったり、様々な理由で顔を出すことが当然になっている他のマッチングサイトでは戦えなかったりする男性にハマるサービスなのだと思う。

私は4人の男性としか会っていないのでこれを一般化するのはとても危険だけれど、このサービスの作り方としてどうしても「ルックスに自信がない」「異性経験に乏しい」「対人コミュニケーションが得意でない」というような特徴を持った男女が増えるのは自然だと思われる。それを理解した上で、他者によって結び付けられた、学歴以外の顔や性格などがよくわからない異性と会う意味があると感じるのであれば登録してみるのが良いと思う。

 

私の場合、学生時代の友人は皆ブライトマッチの基準で言えば高学歴男性なわけだが、ブライトマッチで会ったあるコミュニケーション激ヤバオタクのような人はいなかった。彼は他のマッチングアプリで写真などを見ていれば絶対に会わない層(4人が4人ともそうだったわけではない)だったのだけれど、実際はこの人と同じ土俵に立っているのだという現実に突き当たって結構凹んだ。

色々と書いてきたものの、魅力的な人ではないと外見だけで判断できた時点で仮病なり何なり使って帰らなかった私が悪いし、コミュ障オタクの話を頑張って引き出して楽しませて勝手に疲れた私が悪いし、こんなに思うところがあるくせにそれを本人に改善点としてフィードバックもせずこんなところで愚痴を書く私が悪いし、そもそも彼氏がいないからマッチングサイトなんか使おうと思った私が悪いし、もう全部私が悪いです 自己責任でしかない 早く死にたい人生イヤイヤ期