どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

鳴ってもないのに鳴ってる気がする スマホはもはや俺の臓器

 

おはようございます。さやかです。

 

私の住むまちの公立図書館は土日になると家族連れを中心に賑わっていて,落ち着けるか落ち着けないかで言ったら完全に落ち着けない空間なのですが,大学の図書館とは所蔵されている本が結構違って面白いのでよく利用しています。

 

机は勉強する高校生で満員だし,館内は小声で交わされる親子の会話で満ちていて,大学の図書館のような静寂はありません。

でもそういう親子や高校生を見ると,週末に親と一緒に図書館に行くのが恒例だったこととか,中高生の頃によく図書館で自習したこととかを思い出して胸が熱盛ィ!になるので,私は結構好きです。

 

今日の記事は,そんな図書館でSEOの本を探していた時に偶然見つけた書籍『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が面白かったので,その読後感です。

よろしくお願いします。

 

そもそも「一般意志」とは

 

序文に示された本書の主張は,「情報技術が張り巡らされた社会の出現は,民主主義を実現するのではなく,民主主義の政治や統治そのものを変えてしまう」というもの。

結構過激な主張にも聞こえますが,これを段階を追って見ていきます。

 

『社会契約論』で知られるルソーは,個人の社会的制約からの解放,孤独と自由の価値を訴えた思想家であると同時に個人と国家の絶対的融合,個人の全体への無条件の包含を主張した思想家でした。

 

ルソーのこの思想家としての2面性,いわば矛盾をどう説明するか?

『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』の筆者,東浩紀さんはここに集合知(集団が生み出す知性)の概念を持ち出しました。

ツイッターなどのソーシャルメディアは,広くこの集合知の生成の場になっています。

 

ホッブズやロックに始まる社会契約説の構図は,人間は自由で孤独な存在として生まれ,その自然状態を維持することができなくなったが故に社会を作り社会契約を結ぶというものです。

一方,ルソーにおいて社会契約とは一人一人が自分の持つすべての権利と共に自分を共同体全体に完全に譲渡すること

社会契約が社会を作り,生まれるのが「一般意志」です。

 

ルソー「一般意志こそが善や公共性の基準をつくるため、それが誤ることは定義上ありえない

 

ここでいう一般意志は,所謂世論ではありません。

全体意志は特殊意志(個別意志)を集めたものの総和であり合計です。

一般意志は全体意志を構成する特殊意志から相殺し合うプラスとマイナスを取り除いた差異の和。

つまり一般意志は政府の意志でも個人の意志の総和でもない「数学的存在」であり,俗的な世論や全体意志とは区別されます(この「数学的存在」というところがド文系の私にはちょっと難しいのですが,ひとまずこのまま飲み込みました)。

 

ルソー「一般意志が適切に抽出されるためには,市民は情報を与えられているだけで,たがいにコミュニケーションをとっていない状態の方が好ましい」

 

ルソーは一般意志の成立過程において,そもそも市民間の討議や意見調整の必要性を認めていませんでした。

18世紀当時においてルソーの一般意志は抽象的な概念であり,そのため込み入った解釈を生んできました。

 

でも現代では,人々の意志や欲望を意識的なコミュニケーションなしに収集し体系化する機構が整備されてきています。

たとえばグーグルは,私たちが意識せずに検索したりクリックしたりすることによって無意識に行う情報の体系化を可視化します。

ツイッターにアップされる膨大な数のツイートも同じです。

個々の行為は意識的なものだけれど,これが数千万や数十億というデータ量になると,個人の意志を超えた無意識の欲望パターンの抽出が可能になります。

 

このように情報技術によって,私たちの「望みの集積」はわたしたち自身が話し合わなくてもすでにネットワークの中に記憶されています。

 

つまり,一般意志とはデータベースであるといえます。

 

現代社会は複雑怪奇

 

人民による討議や意見調整の必要性を否定したルソーに対して,アーレントとハーバーマスという2人の政治哲学者は,政治には市民間の討議が欠かせないと主張しました。

 

しかし厚い議論の重要性を説く2人は同時に,公的な議論が成立する条件として文化や生活様式の共有をあげています。

誰とでも話せばわかるとは言わないまでも,議論に参加している限り,落としどころを探り求める理念は共有しているはずだというのが彼らの主張の前提です。

 

そして私たちは,その前提が成立しない時代を迎えています。

情報量が劇的に増加し,人々は繋がり過ぎ,あらゆる人が「議論の落としどころを探れない他者」に悩まされるようになりました。

それはたとえばテロリズムであったり、少し世代や文化的な背景が異なるだけで全く会話が成立しなくなるネットにおけるコミュニケーションであったりします。

 

理解するつもりなんて毛頭ないくせに「俺が納得できるように説明しろ!」とつっかかってくる説明地獄案内人も,この悩ましい他者に含まれるかと思います。

 

関連記事︰納得できてることなんてひとつもないよ。 - どんな言葉で君を愛せば、

 

この落合先生のツイートでいうと黄色(と緑)の人でしょうか。

 

 

昨年話題になった書籍『知ってるつもり 無知の科学』でも強調されているところですが,私たちが生きる21世紀の社会はとにかく複雑です。

人間が理解するには複雑すぎるほど複雑である上に,その複雑さが新しい情報技術のおかげであまりにもそのまま可視化されてしまっています。

そのため議論を始めるにあたって,議論の場の共有という前提そのものを信じることができなくなりました。

 

「情報技術が国民の無意識を可視化しつつある今,21世紀の国家は熟議の限界をデータベースの拡大により補い,データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか?」

 

社会はあまりに複雑で,すべてを見渡せる視線は存在していません。

古典的な選良は存在せず,いるのは特定の業界の専門家だけ。

彼らはその業界を離れれば無見識な大衆の一員にすぎず,ツイッターのようなソーシャルメディアはその現実を明らかにしてきました。

 

「現代においては,選良と大衆という人間集団の対立があるというより,一人の人間がある時は選良として,あるときは大衆として社会と関わっていると理解すべき」だと東さんは主張します。

 

大衆の欲望は各人の大衆的な部分の集合として形成されています。

欲望はそれがいかに不合理でも理性で消し去るのは困難で,言葉による説得ではなく,湧き上がる衝動への実践的な対処が必要になります。

 

スマホ依存を思い浮かべてもらうとわかりやすいのではないでしょうか。

スマホを触らずに勉強したいと思うとき,スマホを触りたいという欲望を行動に繋げない環境をつくる必要があり,それはたとえば郵便ポストにスマホを入れてしまうことかもしれません。

 

そして,『日本国紀』のような書籍がウケる土壌ともなっているナショナリズム。

理性ではなく欲望に,国民の意識ではなく無意識に根差したものであるナショナリズムも,理性や言葉の力ではどうしようもないものであるということになります。

 

民主主義2.0とツイッター

 

ここでルソーに話を戻します。

ルソーは理性の力を信じずに野生の人の本能を信じ,意志として意識されない意志を語って,意識ではなく無意識に,人の秩序ではなくモノの秩序に導かれる社会を理想としていました。

 

ただ,大衆の無意識に従うことは危険な発想でもあるとされてきました。

一般意志とは各個人が自覚できない欲望であり,ナショナリズムも目には見えない欲望に端を発するものです。

これを可視化できる「カリスマ」を求める期待が,ナチスドイツを生みました。

 

しかし現代では本当に多くの人々が,自発的に自らの行動や思考の履歴をネットワーク上に残しています。

技術で人々の無意識を可視化できるようになった今,それを可視化できる唯一存在であったカリスマを求めてしまう危険は回避できると考えられます。

 

ここで一度まとめると,『一般意志2.0』の主旨は,

  1. 近代民主主義の基礎「一般意志」は、集合的な無意識を意味する概念である。
  2. 情報技術はこれを可視化する技術であり,これからの統治にこの分析が活かされるべきである。

というものです。

 

20世紀後半,アメリカの哲学者ローティは「現代社会では”アイロニー”が倫理の基盤となるべきだ」と言いました。

ここでいうアイロニーは皮肉と言うよりも,”2つの矛盾する主張を同時に信じること”であるといいます。

 

何かが真実であることや普遍的であることを信じながら,それは自分が信じているものでしかなく,他人がそれを共有しない可能性もあると認識すること。

これは真理なのだから皆が信じるべきだと思っていながらも,それを決して他人に押しつけないこと。

このような“自己矛盾”を抱えていられる人をアイロニストと呼びます。

 

今私たちは多くの場合,人は私的な領域では自分のことだけを考えて好きなように生きていますが,公的な領域では人のことを考えて倫理的に生きなければならないと信じているはずです。

でもこれからの社会においては「人間はこのように生きるべきだ」と考えることはすべて私的なものと見なされる,というのが彼の主張でした。

 

ローティによれば,人間は決して見知らぬ他者への偏見をなくすことはできません。

そのため理性によっては偏見を乗り越えて連帯できず,相手のおかれた状況や痛みに共感するための想像力によってのみ連帯できるとしています。

 

著者の東さんいわく,民主主義2.0の構想はリベラル・アイロニズムの電子強化版だといいます。

旧型の「話し合えばうまくいく」理想主義と,「データベースさえあれば集合知で最適解が出る」理想主義の組み合わせが民主主義2.0。

そしてこの構想に最も近いのは,なんとツイッター

 

ツイッターでは,ユーザーは自分の画面に自分が好む人物のツイートを並べ,自分専用のコミュニケーション空間を作ることができます。

ここに表示されない外部の情報は,原則的に存在しないのとほぼ同義になりますよね。

このため社会学的にはツイッターは「人々を分断された共同体に閉じ込めるツール」に位置づけられます。

 

でもツイッターはリツイートという機能を備えることによって,ユーザーを意図しなかったツイートに遭遇させたり,繋がる意図を持たなかったユーザー同士を結び付けたりします。

 

 

さて本書はこの後,国家や公共性の再構成について展開されていきますが,私が書きたいことに直接関係しないので気になる方は本を読んでみてください。

 

ここまで長々と語ってきましたが,私が書きたかったのは,既に自分とズブズブの関係になっていると思っていたツイッターでさえも,異なる視線を手に入れて見つめ直すと異なる顔が見えてきませんか?ということです。

 

ツイッターが社会的にどんな作用を持っているツールであるかなんて,普段から考えて使っている人は多くないと思うのです。

 

自分が親しんでいてよく見知ったつもりになっているものに対して「自分は意外と何も知らなかった」と思えるのは大切なことです。

わかったつもりになって脊髄反射でクソリプを送らずに,熟慮して相手の意見の背景に想像力を働かせて,賢く生きていきたいなと思います。

 

SNSの1つであるという単純な事実を超えて,社会学的にどんな作用を持っているのかを考えながらツイッターを見ると,新鮮に映るし,より楽しくなってきます。

 

でもそんなツイッターも決して万能ではなく,字数制限があるため複雑な物事を論理立てて表明することは困難です。

たとえばこの『一般意志2.0』にしても,ルソーの社会契約論からツイッターに新たな民主主義を見るに至る論の展開は140字ではとてもできません。

 

さらに『一般意志2.0』は2011年の本なので,ツイッターの仕様等については現状に則さない部分もあります。

たとえば今は意図しないツイートとの衝突事故がリツイートだけでなく,フォローしている人がいいねしたツイートやフォローしている人がフォローしているアカウントのツイートがタイムラインに現れることによっても起こっていますよね。

 

 

ログイン状態が可視化されるようになる(かもしれない)予告なんて,まさに今回の記事で再三繰り返して来た「行動の履歴をネットワーク上に刻んで収集し可視化する」行為のど真ん中だなーと思っています。

ちなみに私はインスタグラムのログイン状態も非公開にするようなタイプなのでツイッターのログイン状態可視化ももちろん嫌ですが,こうやってサービスの狙いやその作用について考えてみるのは楽しいです。

 

ということで,自分が想像以上に何も知らずに生きてることがわかって見える世界が変わってしまうから,本を読むのはやめられないんだよね~!!!というのがこの記事で言いたかったことです。

 

これは余談ですが,今回の記事で何度も「可視化」という言葉を使ってきてふと思いました。

「可視化」っていう言葉がもう存在していたのに「見える化」という言葉を最初に使った人は誰なんだろう。

既存の言葉を知らなかった人が言ったのか,漢字から意味を拾えない人のためにあえてやさしい言葉を作ってあげたのか……。

私は言葉をバカにしていくのが好きじゃないので「可視化」を使いたいし,「見える化」でなく「可視化」を使う人の文章を読んでいる方が心地良いなと思います。

 

【1/17 12:30追記】

「見える化」という表現はトヨタ自動車による業務の改善活動の観点において初めて登場した。それに触れている2006年度の年頭所感の英訳では「見える化」を「問題を見つけ出し、明るみに出す」と表現している。

見える化 - Wikipedia

「見える化」と「可視化」は言い換えのように使われることもあるし,狭義の「見える化」だけに付与されている意味もあるみたいです。

【追記終わり】

 

余談でした!

 

最後までお読みいただき,ありがとうございました♡

 

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

 

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

  • 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック,橘玲,土方奈美
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/04/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (4件) を見る
 

 

鳴ってもないのに鳴ってる気がする

スマホはもはや俺の臓器

♪キュウソネコカミ「ファントムヴァイブレーション」

 

参考文献

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社,2011年。

スティーブン・スローマン,フィリップ・ファーンバック著,土方奈美訳『知ってるつもり 無知の科学』早川書房,2018年。

ねえ もしも幸福が見えるとしたら それはこんな景色のことじゃないかな

こんばんは。さやかです。

少し前の記事で,人に「幸せになって」と言われるけど幸せが何なのかわからなくて辛すぎワロタという趣旨のポエムを書きました。

そして,その直後に見たNewspicksのオリジナル番組「WEEKLY OCHIAI」で幸福がテーマになっていて,これは「幸せ」について見つめ直すいい機会だなあと思っていたので,今回はそういう記事です。

 

Newspicks WEEKLY OCHIAI 2018.12.19

「幸福をアップデートせよ!」ゲスト:石川善樹さん

newspicks.com

 

アップデート前の幸せについて,戸建を買って家族で暮らすような「サザエさん型」の幸せがあるよねという確認がなされたところで番組が始まります。 

以下のような流れで内容をさらったあとで私なりの幸せを考えてみたいと思いますが,諸々の都合上,番組内の発言の論拠や議論の着地点までは言及していません。

Newspicksは無料体験もあるので,気になる方は動画を見ていただくのがおすすめです!

  • アップデートとは何か?
  • 幸せとは何か?
  • 社会科学における幸福とは?
  • 幸福をどうアップデートするか?

 

アップデートとは何か?

f:id:oyasumitte:20190114161215p:plain

これは石川さんが番組内で描いた図です。

既存のものや概念に対して,

質を高めるのがアップグレード(Upgrade)で,

新しくするのがアップデート(Update)。

そして新しさと質の高さはトレードオフ構造にあり,通常は新しさがあるものは価値を感じにくいようになっている。

その中で新しさと質のどちらもが高い領域を「ルネッサンス(再生)」とすると,ネッサンスからルネッサンスに至る道は「アップグレードからアップデート」と「アップデートからアップグレード」の2つがあります。

今回はまずアップデートをしようという後者の方針で進行していきます。

 

幸せとは何か?

  1. 自然科学的なアプローチ(分解)

    脳にとっての幸福(快楽)は3種類に分けられます。

    f:id:oyasumitte:20190114163353p:plain

    (P=快楽度,t=時間の経過)

    石川さん曰く,幸せを分解すると砂糖と脂肪と旨みになる。
    ①ピュッと上がってストーンと落ちる(ひと夏の恋型)
    ②時間が経つにつれてグーッと上がっていく(泥沼の不倫型)
    ③じわじわじわじわ~とゆるやかに続く(熟年の夫婦型)

    ①と②は,摂り続けないと快楽が続かないため,摂っても摂っても不足感が出る。
    ③の旨みは満足感が出る。
    ⇒これをエンジニアリングするのが自然科学的なアプローチ。

  2. 社会科学的なアプローチ(近似)

    幸福な人はお金や生きがいを持っている人が多い」ということは言えても,それだけではすべてを説明できません。
    だから「=」ではなく「≒」で繋いでいくのが社会科学的な式の立て方。

    a)左辺に幸福を置いて,その要因を考える人
      幸福≒□,○… ←幸福を最大化したい
    b)右辺に幸福を置いて,幸福の影響を考える人
      業績≒幸福  ←幸福を最適化したい

    たとえば業績を右辺に置いて考えるとき,幸せすぎると満足してしまって業績が落ちるので,業績の最大化のために幸福はある程度制限された方が良いということになります(これが最適化)。
    ⇒自分は幸せであると言う人たちがどんな人たちなのか,他人を調べたいのが社会科学。

  3. 人文科学的なアプローチ(体験)
    ⇒自分が幸せになるのはどんなときか,という体験を掘っていくのが人文科学。

 

1の自然科学的なアプローチは「脳の中でどんな物質が出ると幸せなのかを考える人」,2の社会科学的なアプローチは「統計で幸福をとらえる人」,3の人文科学的アプローチは「一周回った幸せを考える人」とも言い換えられていました。

番組は2の社会科学的なアプローチに焦点をあてて進みます。

社会科学における幸福とは?

社会科学において幸福は2パターンに分けられます。

 

  1. ネガティブが少ない状態
    ・ただしポジティブも少ない
    ・代表例は日本や台湾
    幸福は運で決まるもの→「人事を尽して天命を待つ」
    ・実際幸福が訪れると「ありがたい」=感謝の感情がわく

  2. ポジティブが多い状態
    ・ただしネガティブも多い
    ・代表例は中南米の国
    幸福はつかみ取るもの
    ・実際幸福が訪れると「やったったぞ」=誇りを感じる

 

これは2つのどちらが良い・悪いということではなく,タイプによって幸福の感じ方が異なるということ。

では,そんな幸福をアップデートする方法とは何なのか?

 

幸福をどうアップデートするのか?

幸福観を変えるためには,影響する環境要因を変えるか,その判断基準を変える。

落合さん曰く,環境要因として与えられるものは自然科学的に答えを出せそうだし,基準は個人の中にあるものだから人文科学的に言えそうだし,それらを模式化したときにその近似バランスは社会科学的に言えそうであると。

たとえば,番組MCの佐々木さんは「お風呂に入ってリラックスしているときが幸せ」。

この場合の環境要因はお風呂で,判断基準はリラックスしているかどうか,です。

幸福な状態を手にするためのお風呂に近似するものは簡単に探せます。

でも判断基準が変化するとその環境要因は機能しなくなることもあるのがポイント。

お風呂でリラックスする状態に幸せを感じる人が「お風呂に入ってリラックスしていると少しずつ寿命が縮んでいく」という情報を与えられた場合,幸福の基準が変化して,お風呂と幸福は結びつかなくなってしまいます。

つまり個人の中にある基準も,何らかの外的な要素を与えることで変化させられるということ。

 

判断基準(価値観)を作るのは基本的にマスメディアによる発信や小さいころから受ける教育で,環境要因には経済活動や生物的欲求,社会生活などが含まれます。 

その中で画一的に描かれてきたのがこれまでの「幸福」。

 

単一な幸せ:受け取る幸せ,つまり受け取らないと幸せになれない

  ↓

多様な幸せ:与える幸せ,みんな違ってみんないい

 

単一な幸福感を脱して,多様な幸福観を手に入れることが「幸福のアップデート」。

 

番組はこの後,「多様な幸せを認める価値観が成立するためには経済的な余裕が必要か?」「人類の寿命が延びる中で人の働くことがどう変化するか」という議論に進みます。

が,WEEKLY OCHIAIが会員制の有料コンテンツであることなどを考えて,内容を紹介するのはここまでとして,ここからは私自身の体験に基づいて幸せについて考えてみたいと思います。

 

私がなぜ「幸せとは……」などという疑問を持つに至ったかというと,自分が不幸だと思っていない状況で他人に「幸せになってほしい」と言われる不思議な場面に何度も遭遇したからです。

具体的に言うと,私が不安定な恋愛をしている様子が友人の目には不幸であるように映る一方で,私は自分を不幸だとは思っていなかったという状況です。

そしてその答えはおそらく,石川さんが示していた社会科学的な幸福の分類で明らかになりました。

 

穏やかで安定的な恋愛関係を理想とする人は,ネガティブ要素が少ない状況に幸せを見出します。

そしてネガティブ要素が少ない環境は,ポジティブ要素の大きさにも制限がかかります。

友人の「いい人と幸せになって」という言葉がさす幸せは,ネガティブ要素が少ない幸せです。

どうもネガティブ要素が大きく見える私の状況は,ネガティブ要素が少ないことこそが幸せだという判断基準を持つ人からは不幸であるように見えるらしい。

 

しかしポジティブ要素が多いことに幸せを感じる人間は,いくらネガティブ要素が少なかったところでポジティブな要素を自分で掴み取る喜びがないと幸福感を得られません。

私が自分を好きだと言ってくる人とほのぼのと付き合っていくことに喜びを見出せないのは,私が恋愛における幸せについて(ネガティブ要素が同程度あったとしても)ポジティブ要素が大きいことに幸福を見出すタイプであったからです。

 

「愛される幸せ」は,いわば愛を受け取る幸せ,単一的で受動的な幸福です。

「愛する幸せ」は,相手のために何ができるかを考えて主体的に行動することで,相手の対応にはあまり依存しません。

 

もちろん主体的に愛することを実践する中で男の人に振り回されているように見える私の状況は,お世辞にも幸せには見えないということは重々承知しています。

ただ傍から見ると同じ「振り回されている」という状況であっても,本人が望まずに振り回されているパターンと,自ら振り回されにいっているパターンがあると思うのです。

無論私は完全に後者で,巨大なポジティブ要素(幸福感)を得るためにネガティブ要素を体当たりで受け止めているに過ぎません。

だから客観的に見ると「クソ男」と表現できそうな男性を心から好きになるし,クソ男とネタにすることがあっても心からクソ男だと思っていることはありません。

 

 

光が強いほど生まれる影が濃くなるように,私に激しい幸福感を与える人は激しい悲しみをもたらす人にもなり得ます。

一方で私をひどく悲しませることが無い人は,私を非常な幸福感で包んでくれることもありません。

 

感情のアップダウンが激しい恋愛に幸せを感じることそれ自体が幸福であるのかという問題はまた別というか,そこに幸せを感じる人がいるのであれば,それを画一的な幸せにあてはまらないからといって不幸だと決めつける幸福観を多様化させていくことが必要なのではないかなと思います。

 

自分だけを愛してくれる凡庸な男を選んで穏やかに恋愛関係を結びたい人がいてもいいし,刺激的な相手との不安定な関係に身を置いて幸福感を勝ち取ろうとする人がいてもいいはずです。

そしてその価値観すらも人生において普遍的でなく,その時々の環境や手にしている情報に応じて変化させていけばいいのではないかと思いました。

少なくとも今の私は「相手の一挙手一投足に一喜一憂するような不安定な恋愛」の中に幸せを感じているし,友人であろうと「あなたのために」という正義を振りかざして幸福観を押し付けられることは歓迎できません。

 

女性が一人でも経済的に自立して人生を歩める現代において,愛される幸せだけを求めてそれ以外を不幸とするのは古いような気がします。

ただし,それも多様な幸福観の中の一つであるということも理解すべきです。

新しくないからといってそれを否定しては,多様性を認めているのではなく,単一的な幸福観の内容だけが入れ変わったに過ぎないということになります。

 

私はWEEKLY OCHIAIの「幸福をアップデートせよ」回を見て,不幸である自覚がないのに不幸だと断定される違和感の正体をはっきりと認識できました。

私と友人の思う「幸せ」が違っているのだろうと予想はついていましたが,これを社会科学的にはっきりと分類することができ,さらにそこに優劣は無いということを学べたのは大きな収穫でした。

私も心のどこかで単一的な与えられる幸せを求める幸福観を内面化して,「愛される幸せを感じられない自分はダメだ」と思ってしまっていたような気がします。

 

幸せな人がしている3つのこと

気になるのは,幸せになるためには結局何をすればいいのかということですよね。

これは番組の最後で石川さんが紹介していました。

「ホワイトカラー1万人調査」によると,幸せな人はある3つのことをしていたそうです。

それがこちら。

①寝る

②雑談(ポジティブなものに限る)

③ポジティブスケジュール(自分のための,絶対守る予定)

ポジティブスケジュールで決める内容は3時にコーヒーを飲むとか,華金には合コンに行くとか,自分のための予定なら何でも良いみたいです。

 

幸せになるためには,とにかくまず眠ること。

愚痴でなく,Newspicksのような前向きな雑談を誰かと交わすこと。

絶対に譲れない、自分を幸せにしてくれる時間を意識して設けること。

自分のための予定をたてて,それを守って,自分を大切にすること。

 

……私が幸福そうに見えないのは,睡眠が不足しがちだったり,自分の予定よりも相手の予定を優先してしまうところにも原因があるような気がしてきました。

幸福な人がしている3つのことを見て,自分との約束を守ることは,自己肯定感を高めて幸福感を得ることに繋がるのだなと再確認しています。

そうやって自分を認めて,自分をいかに幸せにしていくかという軸さえあれば,その「幸福」の内容について人が口を挟む余地はないように思いました。

わたしも今日は夜更かしせずによく眠って,明日からはポジティブスケジューリングを実践していきたいと思います。

 

最後までお読みいただき,ありがとうございました。

おやすみなさい。さやかでした。

 

にほんブログ村 大学生日記ブログ 女子大学生へ

 

<参考資料>

Newspicks WEEKLY OCHIAI 2018.12.19

「幸福をアップデートせよ!」ゲスト:石川善樹さん

newspicks.com

 

*タイトルはHey!Say!JUMP「Ignition」より。

このまんがに 無関心な女子はいても、無関係な女子はいない。無関係な男子もいない。

 

こんにちは。さやかです。

今日は記事の内容とタイトルをストレートに繋げてみました。

 

さよならミニスカート』というマンガをご存知ですか?

 

f:id:oyasumitte:20190111163903p:plain

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156632735347

 

その日、彼女は「女の子」をやめた──。

女子で唯一、スラックスで

通学する仁那が抱える秘密とは。

衝撃のドラマが幕を開ける。

 

さよならミニスカート - 集英社 りぼん

 

作者は牧野あおいさん,『りぼん』で連載中です。

    

さよならミニスカート(以下さよミニ)は「異例」なマンガとして各所で話題を呼んでいるそう。

普段から全くと言っていいほどマンガを読まない私も,記事タイトルにも使ったコピー「このまんがに無関心な女子はいても、無関係な女子はいない」をどこかで目にして,意識の片隅に残っていました。

りぼん編集長の言葉なのかな?

編集長メッセージで印象的に用いられています。

 

さよならミニスカート - 集英社 りぼん

 

さよミニは大学の友人が単行本を貸してくれたので読んだのですが,読み終えた今,彼女が私にこの本をすすめてくれた理由がわかった気がしています。

 

今回はなるべく決定的なネタバレは避けますが,思うところがあったシーンを切り取りセリフを引用してきますので,まだ読んでいない方はぜひ先に読んでみてください。

時期によって公開部分が変わるようですが、とりあえず1話はいつも無料で読めそうです。 

 

 

今回は第1巻で特に印象に残った3場面と絡めつつ,改めて自分の経験を振り返って,女であることの不都合さとそれを踏まえた行動指針について考えてみたいと思います。

よろしくお願いします。

 

  1. スカートは 男のために 履いてねえ
  2. わかってる 皆が悪い わけじゃない
  3. わたしだけ 我慢すれば 終わるから

 

スカートは 男のために 履いてねえ

 

まず登場人物ですが,今回の記事におけるさよミ二の主要なメンバーはこの3人です。

  • 主人公:神山仁那
  • ヒーロー男子:光くん
  • ヤバ女:長栖未玖

 

 

近場の他校で女子が変質者に襲われたため,女子は集団で下校するようにという学校からの注意が呼びかけられていた,ある朝のこと。

ヤバ女である未玖ちゃん(色白で細くてかわいい)が変質者に襲われたという噂が教室に舞い込みます。

ところが,実際はすれ違いざまに太ももを触られた「だけ」

本人不在の中,ざわつく教室には未玖ちゃんを心配する女子がいる一方で「あんな短いスカートを履いていたら変質者に狙われても仕方ない」などと言う男子(モブ)が……。

 

「変質者怖がってるくせになんでそんなスカート短けーの?」

「結局さぁー 男に媚び売るために履いてんだろ?スカートなんかさー」

「説得力無ェんだよ そんなの触られて当たり前」

 

ここでスラックスJKこと仁那がブチ切れます。

 

「スカートは あんたらみたいな男のために履いてんじゃねえよ」

 

f:id:oyasumitte:20190111163337p:plain

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156632735347

 

めちゃくちゃかっこいい。

でも女子(モブ)たちが仁那に追随しようとしていた時,当事者の未玖が登場します。

心配してかけよる女子(モブ)。気まずそうな男子(モブ)。

 

腹黒未玖さん「もーっ みんな大げさっ!たかが太ももだよぉ!?」

 

この一言で場の空気は一転します。

仁那は当事者でもないのにブチ切れたヤバい男女(おとこおんな)で,

未玖は男の気持ちをわかってるモテる女であると。

 

* 

 

このシーンで気づかされたのは,私の中には仁那も未玖もいるということ。

状況によって,自分は仁那になるときも未玖になるときもあったなと。

仁那は本当に格好いいけれど,私は人生の多くの場面において未玖のように振る舞うことをしてきたなと思いました。

 

スカートは男の為ではなく自分が好きだから履いていると思う自分,

スカートが好きな男の視座を自分に取り込んでスカートを選ぶ日もある自分,

男の人に太ももを触られたら怖いと思う自分,

太ももくらいで騒ぐのは大げさだと思ってしまう自分。

 

関連記事:ねえ君はどうしてデートの日、いつも同じ服を着ているの? - どんな言葉で君を愛せば、

 

「男受けの良さそうな服を着ていたのは単に自分の好みだったから」と主張するこんな記事を書いたのはもちろん,私の中で仁那的側面が優位になっている日でした。

実際のところ「純粋に好き」なのか「男の人が好きそうなものという視点を自分に取り込んでいるから好ましく思う」のか,自信がない日もあります。

 

私は大学1年生の頃,サークルの飲み会で4年生を中心とした上級生からセクハラを受けていました。

たとえば胸をはじめとして身体を触られたり,卑猥な状況を思わせる写真を撮られたり。

体育会系の組織で3つ上の先輩というと神のような存在なので,セクハラというよりはパワハラと言った方が良いのかもしれません。

嫌気がさした同期の一部は先輩がいる飲み会にほとんど来なくなり,セクハラに対して怒れずに飲み会にも来る私は「わかってるやつ」認定を受け,偉いねと言われるようになりました。

 

私は怒りたかったのに怖くて怒れなかったのではなくて,拒否するほどの怒りや嫌悪感が沸いてこなかったのです。

高校生の頃に付き合っていた彼氏とはプラトニックだったので,自分が「女として見られる存在である」ことに確信を持てていませんでした。

身体を触られたとき,私の中にあったのは恐怖や怒りではなく「へえ,私もこの人たちにとっては女なんだ」という驚きだったと記憶しています。

 

昔から,自分が貶められたときに怒ったり泣いたりして抵抗することが苦手で。

失礼なことを言われて泣きたくなったり悔しくなったりしても,愛想笑いでその場をやり過ごしてしまう子どもでした。

しかも,そのことを他人によく「大人だね」と褒められてきた。

その経験によって私はセクハラをされても怒らない都合の良い女を求める男の思考を,自分にインストールしてきてしまったのかもしれません。

 

飲み会でのセクハラで後輩が辞める騒動が起きたときも,一度触られたくらいで大袈裟だなと思っている自分がいました。

この感覚はもちろん女の敵ですが,さよミニでいう未玖のような部分とも言えます。

戦略的に「わかってる女」認定を取りに行っているからです。

もちろん私だって触られて良い気分なわけはないけれど,それ以上に自分がそれを嫌がって場の空気を壊すことの方が怖かったし,拒否することで嫌われたくなかった

 

私はコールが飛び交って吐くほど飲む,バカみたいな飲み会の空気が好きでした。

いろんな不文律があってメンバーそれぞれの気回しと無茶があって,そうやって何の生産性もないけれど「盛り上がる飲み会」というのは作られていて。

本当に頭が悪いんですが,私は頭が悪くない人たちとそうやって頭の悪いことをする飲み会という場が,ただ好きだった。

 

セクハラなんて別になんでもないという顔をして,「わかるやつ」と思われて,そこにいたかった。

そこが自分の,大学での居場所だと思っていたからです。

そう思うと,計算高い未玖が男に「未玖ちゃんはわかってる」と言われたいがために,わかってない仁那との差を見せつけようと「たかが太ももだよ?」と自分で言ってしまった気持ちは痛いほどわかります。

 

私も「べつに触られて減るものでもないし」と思っていました。

確かに胸は減りませんでした。ずっとEです。

気づかないまま代わりにすり減らしていたのは,自尊心でした。

 

わかってる みんなが悪い わけじゃない

 

男全員がセクハラをするわけじゃないし,女子を傷つけようとするわけじゃない。

男が怖いと言う女の子や女性に対してそう反論する男の人がいますが,そんなこと,男の人に指摘されなくてもわかっています。

 

『さよミニ』でも光くんの友達が,仁那に男として怖がられて落ち込む光くんに対して印象的な言葉を発していました。

 

「どんなに信頼関係があろうと,絶対に力で勝てない相手っていうのは怖えーんだよ、お前が男なかぎり女はいつも怯えてる。そういうの忘れんなよ」

 

これは正論です。

でもこれを逆手にとって「私だけは悪い男と良い男を一概に男としてくくらないイイ女」として自分を差別化しようとする未玖のような女がいます。

 

 

日常的に痴漢の被害にさらされている辻ちゃんという女の子がいました。

彼女は,未玖が発した「女性専用車両なんて男の人に悪い」という言葉が拡散され指示されたことの煽りを受けて,せっかくできた女性専用車両を利用しづらく,そのことによって痴漢から逃げられないという実害を負っています。

そのことを彼女とその友達から告げられた未玖の返答がこちら。

 

「私はチカンなんてヘーキだから専用車両なんていらないし、男の人全員疑ってるみたいでなんかヤだな、そんなことするなんて一部の人だけでしょ?」 

 

 

未玖の言葉は100%の正論ですが,痴漢に悩んでいる辻ちゃんに向けるのは酷なものだと思います。

というか,おそらく辻ちゃんも男の人を怖いと思い,未玖のように全員を疑うべきではないという規範意識で何度も悩み,それでも拭いきれない恐怖に悩んでいたのではないかと。

 

これも私が新入生の頃の話ですが,飲み会の後「夜道は危ないから」と言う男の先輩Dに家まで送ってもらったところ,部屋に上がり込まれて襲われたことがありました。

そうすると何が起きるか。

 

夜道を一人で歩くよりも,知り合いの男と一緒に帰る方が余程怖くなるのです。

 

一方で私の周囲には,飲み会中にお手洗いで席を立った私を心配して「大丈夫?無理してない?」と声をかけてくれたり,本当にヤバい時にはストップをかけてくれたりするA先輩のような男の人もいました。

年上だったセクハラ上級生たちをA先輩が表立って止めることはできないとわかっていたので,そうやって優しくしてもらえるだけで十分ありがたかったし,私はすっかり懐いていました。

 

それでも一度先輩Dに植え付けられた恐怖は,大好きなA先輩のことも信じきれなくなるほどの威力を持っていたのです。

先輩Dに襲われたことは口止めに従って誰にも話せないままで,別の先輩の家で宅飲みをしていた日のことでした。

 

私「そろそろ帰ります」

A先輩「俺も帰ろうかな。送っていくよ」

私「悪いのでいいですよ~家遠いし(笑)」

A先輩「大丈夫大丈b「ほんとにいいです!一人で帰れます!」」

 

食い気味に拒否した私の言葉に,一瞬部屋の空気が凍りました。

他の先輩が「何、A嫌われてんの?笑」と笑いにしてくれて何とか空気が回り出して,その間も私は男であるA先輩に送られる不安と疑いたくない気持ちの間で揺れていて。

怖かったけれどA先輩の顔を立てたくて,結局2人で帰ることに。

 

帰り道に「俺が送るって言ったの迷惑だった?」と心配されて,そんな風に先輩に思わせるのが嫌で,初めて先輩Dに口止めされていたことや他の先輩からの連絡で困っていることを相談しました。

先輩は「自分が送れるときは送るけど,それができないときには一人で帰れるようにする」と言ってくれて,その日無事に帰れたことはもちろん,その後特別怖い経験をせずにいられたのは先輩のおかげだと思っています。

A先輩とは二人きりでも多くの時間を一緒に過ごしたし,その間私は客観的に見るとかなり無防備だったけれど,一度も恐怖や不快感を感じませんでした。

 

男の人の中には,A先輩のような優しい人もいます。

でも先輩Dのような人も「夜道は危ないから」などと優しい人を装って近づいてきます。

男の人全員が悪い人だなんて思っていません。

でも,いい人と悪い人は一見したところで見分けがつかない場合が多いのです。

痴漢をする人としない人の見分けがつかない以上,女性には「女性専用車両を利用して男の人との接触機会を避ける」という選択肢が与えられるべきだと思います。

 

 わたしだけ 我慢すれば 終わるから

 

最後はこちら。

未玖にド正論でマウントをとられてしまった辻ちゃんは,女性専用車両を使えずにまた痴漢被害にあってしまいます。

 

 

辻ちゃんがサラリーマンに触られている現場に遭遇した仁那と光くん。

犯人を捕まえようとする仁那を辻ちゃんは引き止めます。

 

「いいの こんなの……大したことじゃないんだから」

「わ…私が触られることなんて私が我慢すればいいだけだからっ…」

 

 

わ、わかるよ辻ちゃん~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!

 

セクハラは場の空気を壊したくなくて騒げなかったけど,痴漢も別の理由で声を上げにくい。

怖いのです。人の人生を壊すのは。相手が痴漢の犯人であっても。

 

今この一瞬自分が耐えて逃げれば,人の人生を壊す恐怖からは逃れられます。

 

痴漢を犯した人や痴漢の冤罪を受けた人の境遇を取り上げた映画やドラマが話題になることがありますよね。

それらの作品には,順機能として痴漢や痴漢冤罪を防止する効果があるかもしれません。

逆機能として,痴漢にあった女性に「私がこの人を痴漢だと言ってしまったら,この人の人生は……」と,思わせて痴漢の暗数を増やしてしまう効果もあるのではないかと思っています。

サンプルは私と辻ちゃんだけなので説得力には欠けますが……

 

 

今回の記事で言いたかったことは,3つあります。

 

まず,スカートは男の人のために履いていないということ。

 

男の人に太ももを触られるためにミニスカートを履くJKはいません。

金髪クソモブ男が言った「ミニスカートを履いていたから変質者に狙われても仕方ない」という論は本当に良くないです。

被害者に責任があるような言い方をすることは二次被害に他なりません。

被害にあった女性の責任が問われる「ヴィクティム・ブレーミング」の異常さは,男女を逆転させたこの動画の異常さを見れば明らかなはずです。

 


What were you wearing? - Tracey Ullman's Show: Season 2 Episode 6 Preview - BBC One

 

女性警察官が強盗被害にあったという男性から事情を聞いているのだが、会話の内容がどこかおかしい。この女性警察官の態度は妙に威圧的で、男性を責めたてるような口調で質問。しかも犯人のことではなく、被害者であるこの男性のことについてばかり聞いている。
「強盗にあったとき、あなたは今のような服装をしていたのですか?」
「自分が裕福であることをアピールしているかのような身なりですね」
「被害にあった時、お酒は飲んでいましたか?お酒を飲んでいると襲われやすくなりますからね」
 この動画で描かれている状況は、性暴力被害にあった女性たちに向けられる批判とそっくりだ。

https://front-row.jp/_ct/17130834

 

性暴力と服装の相関関係を問うためにアメリカのカンザス大学で2017年に開催された展覧会「What were you wearing?(あなたは何を着ていたの?)」の内容を見ると,ミニスカートのような挑発的とされる服装でなく長いパンツを履いていた人も被害に合っていることがわかります。

 

https://www.huffingtonpost.jp/2017/09/25/what-were-you-wearing_a_23218909/

 

スカートよりもむしろデニムのようなパンツの方が中途半端に脱がせたときに足の自由を奪えて都合が良い,なんて気分の悪い話を聞いたこともあります。

このようにそもそもスカートが性犯罪と結びついているわけではないし,増してやそれを履く女の子が悪いなどと言うべきではありません。

 

 

 2つめは自戒でもありますが,「男の人が怖い」のは女子のデフォルト設定なので,女性は男の人だというだけで相手を警戒してしまう気持ちに罪悪感を抱く必要はないということです。

男性はそれで一々ショックを受けないでほしいし,そこで「信頼されたと思ってたのに!」なんて憤慨するのは最悪です。

 

 

私自身,二人きりの状況では仲良くなった男友達の部屋にも上がりません。

本当に信頼していたA先輩の部屋には何度も上げてもらいましたが,ここでいう信頼とは「この人なら何もしないだろう」というよりは「この人になら何をされても(最悪の事態になっても)いい」と思う状態です。

密室に二人きりという状況を受け入れるハードルがこれほど高い女子もいるということは覚えておいてもらえたら嬉しいです。

 

さよミニの正暉くん「どんなに信頼関係があろうと,絶対に力で勝てない相手っていうのは怖えーんだよ、お前が男なかぎり女はいつも怯えてる。そういうの忘れんなよ」

 

 

3つ目。

これも自分に言い聞かせるようなかたちになりますが,痴漢にしろセクハラにしろ,自分が我慢すれば済むと思ってしまうのは本当に良くないです。

「減るものでもない」って割り切るようなことはやめましょう。

胸やおしりが減らなくても,心はすり減っています。

 

「ちょうどいいブスのすすめ」とかいう女による男のための女への呪いとか,「男はわかってる女が好き」みたいな男による男のための女への呪いとか,そういうのを真に受けて自分をすり減らしていくのはやめましょう。

 

ここでいう自分とか心というのは,所謂自尊感情に限りません。

 

恋愛体質で常に好きな人がいて,男性にセクハラをされても怒らない私のようなタイプは,周囲の目に「男好き」であるように映ることがあるようです。

同期の女の子に,冗談交じりに「先輩に気に入られて調子乗ってんじゃねーよ」と典型的な台詞を言われたこともありました。

 

でも私は,誤解を恐れずに言えば男性という生き物が好きではありません。

説明するのが難しいのですが,強く嫌悪感を抱くのではなくて,薄っすらと絶望していると言う方が正確でしょうか。

私が男の人に浮気をされてもセクハラを受けてもそこで怒りに直結しないのは,自尊感情が低いということよりも「まあ男性だもんね,仕方ない」という諦めがあるからなのではないかと思っています。

 

いずれにせよ,正しく怒れないのは不健全な状態といえそうです。

自分が傷つけられたときにきちんと抵抗できる自尊心と,信頼するに足る男の人には素直に期待できる健やかな精神を育むためにも,自分が我慢するという方法で丸くおさめようとするのは男女の問題に限らずやめようと思いました。

 

 

「さよならミニスカート」では,昨今話題になっている「アイドルを傷つけるファン(を名乗る加害者)」という存在も一つの大きな主題になっています。

読み始めるなら,今です。

 

 

 

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックスDIGITAL)

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックスDIGITAL)