こんばんは。E女です。
一般的に記事のタイトルは,より多くの人に読んでもらうため,内容がわかりやすいように,且つその内容が気になってしまうようにつけるべきですよね。
その文脈で見ると,私のここまでの記事タイトルは完全に赤点です。
今日なんて「納得できてることなんてひとつもないよ」。
何について書いたのか推測できる要素なんてひとつもないよ。
原典はSHISHAMOの「終わり」です。
納得できてることなんてひとつもないよ
なにがなんなのか分からない
ちゃんと説明してよ私のどこがダメだった?私の何がダメだった?
そんなことも分からないどこがダメだった?♪ 終わり / SHISHAMO
今日このタイトルを付けた理由は後述するとして,私のタイトル付きの文章の書き方はざっくり2パターンあります。
1つは,タイトルを先に決めてから内容をつくるパターン。
思い浮かんだポエムとかお題サイトから借りてきたテキストを膨らませる形で設定やストーリーをつくっていくポエム先行型ですね。
昔,短編小説を書いていたときにはこれをよく使いました。
もう1つが,書きたい文章が先にあってタイトルを後付けするパターン。
このブログと,昔書いていた長編小説はこちらのポエム後付型です。
そしていずれのパターンであっても,私はタイトルを自分勝手に記事への伏線にしがちです。
伏線は伏せられていないと伏線たり得ないので,必然的に内容を明示しない,わかりにくいものとなります。
読み手ファーストではありません。
伏線散りばめ華麗に回収系のミステリーが好きすぎることの弊害だと思うのですが,とにかく記事の中に伏線回収ポイントをつくることで自己満足に浸っています。
完全なるオナニーですごめんなさい許してください
と,ここまでがいつもの長い前置きで,
今日の本題は書籍『知ってるつもり 無知の科学』を読んで考えたことです。
3本立てでお話してみたいと思います。
よろしくお願いします。
- 人はすぐ「説明してよ」と言うけれど
- 人間は錯覚の中で生きている
- 説明の持つ力と無力さを知って生きる
人はすぐ 「説明してよ」と 言うけれど
私は自己満タイトルをつけるのと同じくらい,一句詠むのも好きです。
それは置いておいて,人はよく何かに対して納得できないと思うとき「納得できるような説明」を求めるじゃないですか。
たとえば付き合っていた彼女に突然別れを告げられたときとか。
たとえばずっと好きだった男が,私と恋人紛いのことをしておきながら「あ〜彼女欲しい(笑)」なんて言い出したときとか。
でも,納得できないと思うことに対して何かそれっぽいこと説明をされたところで,本当に納得できると思っていますか?
相手の言葉に耳を傾けて,納得するつもりで説明を求めていますか?
唐突に猛烈な悲しみに襲われてるから「俺に尽くすとこが可愛い」って言われて尽くし続けたセフレに結局「お前は俺の言葉に従順すぎる」って理由で振られたことがある人間の言葉しか受け付けない
— さやか (@oyasumitte) 2018年11月5日
E女「私が彼女になれない理由は?」
好きだった男「E女は俺が言うこと何でも笑って聞いてくれて、従順すぎる」
え? いや……は???
3日3晩考えてもわからないわけです。
俺に従順なところがかわいいと言われ何か自己主張しようものなら威圧され,それに適応してきただけなのにそれが理由でフラれるなんてアリ?
何がだめだったのかな,どこでどうしたら良かったのかな……なんてことをずーっと考えてしまったんですけれど,考えても無駄なんですよね。
相手の中には先に「こいつとは付き合わない」という結論があって,それなのに私の身体だけタダ乗りしたその責任が私にあるように言える理由なら何でも良くて。
私は私でずっと自分をすり減らしている自覚もあったので,そこにあったのはもう恋ではなく執着です。
おれの気持ちを利用した代償を払えと。
責任をとって付き合えと。
まあ主従関係に陥っていたのでそんなことは言えなかったんですが,態度には滲んでいたんじゃないかなと思います。
私にとっては付き合えない理由が何であっても,彼女ポジションという正当な報酬(だと思いたかったもの)が得られない以上,納得できることなんてひとつもなかった。
こんな風に,そもそも納得する気もないくせに自分の意のままにならない相手に「納得できる説明をしろ」と声高に叫ぶ人に心当たりはありませんか?
説明しろ地獄に落とされている人を見たことはありませんか?
例えば,いわれもない疑惑をかけられた政治家に課される説明責任とか,特定の施設建設に反対する地域住民を納得させるために設けられる説明会とか。
多くの場合,説明させた人が納得することは無いように思えます。
説明を求める側に理解しようとする気持ちがなければ,どんなに根拠を提示して正論を述べたところで相手の心には届かない。
私が男と主従関係に陥ってしまった話は一旦忘れていただいて,世の中で起きる様々な問題に対して感情的に「説明しろ!」と言っている人に何かを説明したところで,理解や納得は生まれないという問題について考えてみたいと思います。
人は錯覚の中で生きている
なぜ人は相手の言葉に耳を傾けない強固な姿勢を持ちながら,納得するつもりがないのに説明を求めるのか。
どうして人は自分と異なる立場や意見に聞く耳を持たないほど強い思想を持てるのか。
彼らは無知で,自分がどれだけ物事を理解しているか,また理解する能力があるかを理解していないからです。
強い意見は概して深い理解ではなく理解の浅さや欠如から生まれます。
自分が何を知っていて何を知らないのか,自分がいかに問題を理解していないのかをよくわかっていない人ほど強い思想を持ってしまうということです。
感情的になって「説明しろ!」と言う人に限らず,人間は無知です。
呆れるほど無知な人間が複雑な世界に圧倒されずに生きていられるのは,自分たちがどれだけ無知かを理解していないからです。
自分では理解していないことを,理解している・説明できると思い込んでしまうことを「説明深度の錯覚」といいます。
これが「俺にわかるように説明しろ人間」を生むわけですが,そもそもなぜこんな錯覚をしてしまうのか?
そもそもヒトは,他者と志向性を共有して協力するという他の生物に類を見ない特徴をもって大成長を遂げてきました。
同じ目標と関心を持った各々が与えられた役割を果たすこと(分業)によって,個々の能力の足し合わせ以上の力を発揮してきたのが人間です。
そのため,人間の知性は自分の脳内にある情報と,他の人の脳内や外環境にある情報を区別しないようになっています。
自分が知っていることは相手も知っていると思い込んだり,他人の頭やインターネットにしかない情報を自分が知っていることであるように思ったりするのは自然なことです。
しかも人間の思考は合理的な行動を目的としているので,五感から絶えず入ってくる膨大なデータから本質的な情報だけを抽出し一般化するようにできています。
加えて人間の記憶と物事の因果関係を推論する能力には限界があるので,本当は複雑な事柄についても単純化して理解しようとします。
こうした知性の性質によって,結果的に人は自分の理解度の評価を実際より高く見積もる説明深度の錯覚を引き起こします。
この錯覚にも順機能と逆機能があって。
上述したように,人間が世界の複雑さに圧倒されずに生きるためには「知っている気になる」錯覚が必要なんですね。
ただし同じ錯覚が,根拠なき極端な政治的反応など,社会にとって重要な課題の多くを引き起こしているという問題がある。
錯覚は,本当はよく知らない問題について強い意見を持つことを可能にします。
同じ意見の人だけを探してみたり,自分の意見を支持する理由だけを集めていると気分は良いですよね。
誰だって否定されたくないし,自分は正しいと思いたい。
だから同じような考えを持つ人同士で議論する。
それによって意見は一層極端になり,先鋭化していきます。
あなたが話す相手はあなたに影響されるし,同時にあなたも相手から影響を受けます。
(この仕組みはこちらのサイトでゲーム感覚で実感できるので,気になる方はぜひ→群衆の英知もしくは狂気)
現代は錯覚や意見の極論化がSNSなどのテクノロジーによって促進されやすくなっています。
しかも人は自分が持っている知識とインターネット上にある知識を区別しないために,インターネットさえ使えれば何でも理解できると思いやすい。
そして自分とは異なる立場や意見を理解することができず,まれに異なる意見を目にしたり聞いたりしても,相手もこちらの意見をわかっていないので無知に見えてしまう。
誰もが自分は多くのことを理解していて,また正しく説明されたら理解できると思っているからです。
知識を共有しているコミュニティの誰もが自らの無知を理解できず,自らが正しいと思い込んでしまう状態の危険性は,人類の歴史を見れば明らかです。
でも,やっぱり人間はこの問題だらけの錯覚なしには生きられません。
錯覚の中から「納得できる説明をしろ」と怒鳴ってくる人に,説明を通して理解を求めるのは無意味なのでしょうか。
説明の持つ力と無力さを知って生きる
たとえば誰かの持っている強い思い込みが,ある政策の問題を対象に起こっているとき。
『知ってるつもり 無知の科学』によれば,その思い込みが説明深度の錯覚から来ている場合,問題となっている政策自体について考えて説明させようとすることで,強硬な姿勢を穏やかにできるということがわかっているそうです。
重要なのは,政策に絶対反対という立場を取る人に「なぜ反対するの?」ではなく「その政策について説明してみてください」と問いかけること。
問題をよく理解しないままわかっているつもりになっている人に,理解度の低さを気づかせることができます。
これは説明が持つ,錯覚を打ち破って内省を催す力です。
でも残念なことに説明の機会や正しい情報を与えることが力を持たない場合もあります。
説明や啓蒙による努力が敵わないもの,それは道徳的思考停止とコミュニティの影響力です。
反科学主義の文化を背景に持つ人には科学的で客観的な情報を提供して説得しようとしても効かないし,同性愛や近親相姦など理由なき絶対的価値観に起因する強い拒否反応は説明で緩和されません。
意見が違う人に対して説明することは,効果がある場合もない場合もあるという元も子もない結論になってしまうわけですが……
ではそんな錯覚と思考停止が蔓延する世界で賢く生きるために,個人として何ができるのか。
そもそも人間には説明を嫌う傾向があることを自覚すること。
自分の理解は穴と隙だらけだと常に認識しておくこと。
何か重要な決断をする前には,必ず立ち止まって自分を陥れようとしない専門家に助言を求めること,などがあります。
一方で,誰かを説明地獄に引きずりおろそうとする人を作らないためには,人間の知性の弊害を防ぐための社会の仕組みが必要です。
『知ってるつもり 無知の科学』によると,こうした社会を作る上で重要な「自らの知識がわずかであることを受け入れ,他者の知識に敬意を持」ち,「他者の知識に感謝するよう促す教え」を持つ東洋思想には学ぶべきところがあると。
最近どこかで聞いた話だなと思いました。
わかりやすさばかり求めるのはダメ。難しいものは難しいまま一度飲み込んで「わかりやすくないのは自分のせいだから修行しよう」というのが東洋的精神。わかるように説明しろというのは権利主義=西洋的精神。
— さやか (@oyasumitte) 2019年1月4日
DAY3 落合陽一「日本再興戦略」を語る https://t.co/pPn2RkvdQP #NewsPicks #WEEKLYOCHIAI
落合陽一さんも動画で東洋思想推してた!
ちなみにおすすめは荘子だそうです。
理由は世界を二元論的に語ろうとしないからだったかな。
余談ですが,別の場所で学んだこと同士が繋がったときって,情報に対する信頼度が増すのもそうだけれど,自分で引いた伏線を回収したような快感が味わえることが何よりも気持ちよくないですか?私だけ?
さて話を戻して,何かを勉強するときに重要なのは,わかりやすい二次情報や三次情報ばかりに触れてわかったようなつもりにならず,最初はハードルが高くてもできるだけ一次情報に触れること。
漢文で言えば,白文があって訓読文があって書き下し文があって現代語訳があって,それを解説しようとする人の意見があります。
川にたとえて白文を上流,解説文を河口とすると,学ぶ地点は上流に近いほど混じり気のない教えのエッセンスに触れられることになります。
他の人の知識や経験を通して得られた知識だけで学んだつもりになると,その過程で重要な部分が欠落してしまっていてもそれに気付くことすらできないというリスクがあるのです。
わからないときには自分の力不足を認めて,正しく理解しようと努めること。
「俺にわかるように説明しろ!」と相手に責任を丸投げしないこと。
社会の仕組みはすぐには変わらないけれど,
『知ってるつもり 無知の科学』を人間だという自覚のある人が全員読んだら世界はもう少し良くなるのかなと思いました。
無論,この本についての二次的な情報である本記事を読んで『知ってるつもり』を読んだつもりになってしまうのはだめです。
- 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック,橘玲,土方奈美
- 出版社/メーカー: 早川書房
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加えて,記事のタイトルはこれからも自分勝手な愛を込めてお届けする所存ですのでよろしくお願い申し上げます。
最後までお付き合いくださり,本当にありがとうございます!
E女こと,さやかでした。
【参考文献】
スティーブン・スローマン,フィリップ・ファーンバック著,土方奈美訳『知ってるつもり 無知の科学』早川書房,2018年。
(原題『The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone』)
【前記事までのタイトルの元ネタ】
#1 予感めいたものなど、何ひとつなかった。
→大好きな小説『秘密』の書き出し。
#2 もはや前置きとかそういう次元ではない。
→大好きなブログ『もはや日記とかそういう次元ではない』のパクリ。
#3 話で聞いてる神様はどれもこれも人の形なんだ。
→♪RADWIMPS「おしゃかしゃま」の一節。
#4 僕にできなくて誰かにできるような そんなことばかりあふれているけど。
→♪ハルカトミユキ「385」の一節。