どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

私が嫌いなあの子も誰かの可愛い娘だから

私は『水曜日のダウンタウン』という番組があまり好きではない。あの番組に限らず、自分が笑われている側に絶対なりたくないと思うような番組をあまり見てこなかった。

 

誤解してもらいたくはないのだが、私はお笑いが好きだ。漫才は好き。コントも好き。でも昔から、いじめといじりの際どいボーダーラインを攻めるような、笑われる側がちょっとしんどそうに見える種類の笑いが苦手だった。それはテレビだけでなく自分の生活の中でも同じで、高校生の時に付き合っていた彼氏が「いじられキャラ」の男子を扱き下ろすのを見て一瞬で恋が冷めたこともある。この話は今日はいいや。

 

さて、今の彼氏はその『水曜日のダウンタウン』が好きで、苦手な私も何度か一緒に見た。少し前には「あまり売れていない芸人に酷い仕打ちをして最後に番組名を明かしたら泣くか怒るか喜ぶか」みたいな企画があって、残酷なことをするものだと思った。怖かったし腹が立ったけど番組に出られて嬉しいと泣く、もういい歳をした男性たちを見ていて私も泣きたくなったのを覚えている。あれを笑える神経を持つ人はすごいと思う。でも、そういう人が少なからずいることは理解できる。

ひどい話だとは思うし私は楽しむ気持ちよりも痛みを感じてしまうけれど、でもあれが好きな人が世の中にはいて、ブラックなお笑いはその需要を満たしているにすぎない。そしてああいうことがある世界だと分かった上でお笑いの世界に飛び込んでいく人がたくさんいる。だから、私が距離をとれば済む話だ。

 

……済む話なのだが、先述した理由で別のある日の『水曜日のダウンタウン』も見た。取り上げられていた話題も具体的なセリフも、拾い聞き程度にしか覚えていないけれど、それでも「坊主の女を抱ける/抱けない」という話は確かに印象的だった。それに対して「妻は夫の性玩具じゃない😡」とブチ切れているツイートを偶然見かけて思うところがあり、ブログを書くに至っている。

 

うに on Twitter: "他の芸人は「坊主だと勃たないから無理」か。おわーーーーーーーその発想はなかった!!!なるほどね!!!!!妻は夫の性玩具だもんね〜〜〜〜そっかそっかーーー!!!!家父長制と女性蔑視がやばい。脳味噌無理やりダウングレードしないと辿りつかない発想だったすごい。流石日本の男は違うな。"

芸人の個人的な嗜好の話に対して「妻を性玩具として見ている」とか「坊主の女性もいるんですよ!彼女たちを傷つけるな!」とか、いろんな怒り方をしている人がいるみたいだった。

 

同じようないくつかのツイートを見て、私の抱いた感想は3つある。まず、シンプルに悪口が凄くて怖い。

2つ目は、今後自分が抱かれるとか抱かれないとか心配する必要がないであろう数人の男の性的嗜好をそこまで叩くのはなぜなのかという疑問。芸人が発した「坊主の嫁だと勃たない」という言葉は直接「男は女(嫁)を性玩具として見ている」という事実を示してはいないはずだ。

3つ目は盛大なブーメランなのだけれど、この手の話は原則「嫌なら見るな」で決着すべきだと思う。「刺さる人には刺さる内容」になればなるほど、熱いファンと強烈なアンチが生まれる。これは全然テレビに限らなくて、たとえばツイッターのアカウントAを好ましく思っているフォロワーBと、Aが何を言っても気に入らず隙あらば揚げ足をとってやろうと毎日Aを監視しているアンチCがいるとする。Bの対極にいるのはCではなく、Aの存在を知らない人だ。あるいは知っていても興味がない、または興味がない人と同じ振る舞いができる人だと思う。BとCは共にAのツイートが刺さる人で、違うのはその刺さり方だけ。

 

私も件のツイートがある意味刺さってしまった為にブログを書いているわけだが、ここで『水曜日のダウンタウン』に話を戻す。私にはあの番組も「坊主の嫁は抱けない」という言葉も刺さらないけれど、刺さる人がいるのはわかっている。良い意味で刺さって笑える人がいる一方で、望まない形で刺されて悲しむ人がいることもわかる。

自分から刺さりに行っておいて「刺されて痛い人がいるのがわからないんですか!?」という怒り方をする人がいるのも、わからないでもない。特にテレビ番組のように多くの人の目に触れるコンテンツに対しては、良くないものと感じたら批判することは必要なのかもしれない。発信者の自律には限界もあるだろう。

 

ただ私は「坊主になった嫁は抱けない」「女は若いのが一番」などの個人的な発言に対して逐一目くじらを立てて許しがたいと怒りを表明することを、あまり好ましく思っていない。自分が好きになれない何かを罵るよりは、目をそらして距離をとる方が回り回って自分の好きなものを守ることになるような気がしている。

誰かが好きなものは誰かの嫌いなもので、私の好きな誰かは他の誰かには嫌われているかもしれないし、私が嫌いなあの子だって誰かの可愛い彼女かもしれない。

「嫌い!」「許せない!」「地上波で流すな!」と自分の気に入らない何かを強く否定したくなったとき、自分のお気に入りが誰かに同じように全面的に否定されていたらどう思うかを考えてみるのは大事なことだと思っている。

 

勿論こんな風に書いてきた私だって、一部のフェミニスト(多分)の自由なツイートについて好ましくないと断じているわけで。好ましく思わないものについて2,000字もかけて語り、さらにそれが自分自身に対する盛大なブーメランになっているという大バカ者です。

強い言葉は使わなかったつもりだけれど、「嫌なら見るな」という大原則に逆らう回になってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。次は何か好きなものについてのポエムを書きたいと思っています、おやすみなさい、さやかでした。

ないものねだりとよかった探し

今付き合っている人は、出会ってから一度も私に可愛いと言ったことがないし、好きだと言ったこともない。私の記憶の限りでは。

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(画像出典:2013年夏広告メイキング ~Hide & Seek Lady~ | Ad Making | LUMINE MAGAZINE

 

私は私の顔を特別好きなわけではないし、美人だと思ってもいないけれど、私のことを好きな男性で私に「可愛い」と言わなかった人はこれまでいなかった。それに私は、頻繁に「かわいい」と言ってくれる会社の先輩・同僚、友人に常々甘やかされている。

だからちょっと傲慢であることはわかりつつも、私と付き合っている、つまり私に好意を抱いていると推定される男性には可愛いと思われていたかった。

 

私は「言わなくてもわかってよ」みたいな察してちゃんが嫌いだ。自分がそうなるのも嫌だったので、一度もかわいいとも好きだとも言われたことがないと気づいたとき、直接本人に尋ねた。返ってきた理由はいくつかあったけれど、すべて「私のことを可愛いとも好きだとも思っていない」というものではなかった。でもやっぱり可愛いとは言われていないし、好きだとも言われていない。

 

さて、こんな話があるのをご存知だろうか。

運が良い人と悪い人の違いは、たった1つ「何を数えるか」だけだという。自分のことを運が良いと思っている人は自分にとって都合の良い偶然だけを数え、運が悪いと思っている人は望ましくなかった偶然ばかりを数え、それぞれ数えたものをより頻度が高いと思い込む。両者に起きていることは変わらないのに、自意識によって自分が恵まれていると思えるかどうかが大きく左右される。

運が良い人と悪い人の違いが自意識であるように、自分が幸せか不幸かを決めるのもまた自意識なのではないかと思う。私はここのところしばらく、会社に行くのが嫌でつらいとか、好きな人に好きだと言ってもらえなくてつらいとか、つらいことばかりを数えようとしていた。

ところが先日あるとき、不意に思い出した。それは、彼が疲れているときに連絡をくれるのは私だということ。私のマッサージを求めてくれるのがいつも嬉しかったこと。そうして一緒にいるときに、彼が「幸せだ」と言ったこと。

 

彼が私を好きかもしれないという状況証拠は、自白(?)の欠如を補って余りあるように思える。思いたい。好かれていたいと思うのは、私が彼のことを好きになったからだ。

失恋のあと自暴自棄的な生活を送っていた時期に出会った彼の第一印象は、清潔感と余裕があってモテそうな人、だった。個人的には、私達が付き合うことになったのは「タイミングが合ったから」ほとんどこれだけだと思っている。でも結果的に、私は彼を好きになった。彼もそうなのか、もしかしたら今でも別に好きではないのかは前述のとおり明言されないので推測するしかない。

 

さてかなり話が脱線してしまったが、今回書きたかったのは、自分の手元にないものや望ましくない事実ばかり数えて、思い返すだけでニヤけるような出来事を忘れてしまったり過小評価したりするのはもったいないよね、ということ。

それから、上記のことは落ち着いて考えると当然に思えるのに、自分が負のスパイラルに入っているときにそう気付くのは案外難しいということだ。

 

私は彼を好きかもしれないと思っていたから、彼の言動に時折ダメージは受けながらも、優しさを感じた行為や言われて嬉しかった言葉を集めるうちに好きになった。おそらく。

でも彼が私に好きだとか可愛いとか、所謂蜜語的なことを全く言わないことが一度気になり出したら、その疑念は彼の優しかった言動の数々を覆い隠した。私は「彼は私を好きでもないし興味を持ってもいないらしい」と悲観し、それを裏付けそうな事実ばかり数えていたのである。その説に対して都合の悪い、つまり彼が私をよく思っていることの根拠になるような何かには目を瞑りながら。

 

自分に無いものを意識の中心に据えてしまうとつらい。それが自分の努力で完結するものではなく、他者に何かを思われたい言われたいという願望なら尚更だ。

私はそんな良くない「ないものねだり」の逆は「よかったさがし」なのではないかと思っている。よかった探しとは、手に入らないものを嘆くのではなく起こったことの中に良い点を見出すゲームであり、前向きに生きようとする姿勢そのものでもある。

(参考:極端な楽天家│ ポリアンナのよかった探し|Englishに英語

度が過ぎると現実逃避の手段になってしまう為バランス感覚は重要だが、悲観ばかりする人よりも楽観主義者の方が総じて幸福度が高いことについては、ほぼ疑う余地がない。

 

また、私のように「他人に〇〇と言われたい/思われたい」というゴールを目指してしまうと、達成までの道のりに自分のコントロールできない範囲を含めてしまう。これは目標として望ましくない。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない様に、制御し得ぬものについては諦念をおぼえなければならないのだ。ちなみにこれはストア哲学の専門分野なので、興味があればぜひこちらを。→ 迷いを断つためのストア哲学

 

我儘を言えば、好きな人にかわいいって言われて承認欲求を満たされるのは絶対的に最高だし、「あなたのおごりでしょ?」と言ってくる人よりも気障に「女性に出させるほど困ってないよ」と笑ってくれる人の方がかっこいい。それはそう。

でもそんな表面的なことに気を取られて、好きになった人の好きなところとか、そんな相手に見合う自分であろうとする姿勢とか、もっと大事にすべきものを蔑ろにしないようにしたいとも思う。

 

自戒を込めて、昔流行ったKANA-BOONの「ないものねだり」を載せて終わります。今回も最後まで当たり前ポエムをお読みいただきありがとうございました。おやすみなさい。さやかでした。

認めたくなかった。会社に行くのが辛いこと

今の私の最大の悩みは、自分がマグロであることに由来していると今更気づいてしまった。今夜はそういう自分語りです。

ちなみにマグロってまな板の上の鯉ならぬベッドの上の……ではなく、泳ぎ続けないと酸素を取り込めなくて死んでしまう回遊魚の方です。為念。

 

特に根拠のない義務感

昔から、自分が努力とは思わないことを人にはそうとられることが多かったような気がします。中高生の頃も親は私に勉強しろとか言わなかったし、言われなかった私も自分がそんなに真面目にやっているとは思っていませんでした。

でもたとえば大学生になってからその時期を振り返って、友人に「さやかは本当によくやってたから合格したことに何の不思議もない」、母に「あの子達(下の兄弟)が言っても勉強しないことに気付いて、初めてあなたが当たり前にやってたことが当たり前じゃなかったと気付いた。今思うとよく頑張ってたね」とそれぞれ言われたのが印象に残っています。

そしてそれらの言葉を受けて、私も親と似たような感想を抱いたような気がするのです。自分がそれなりに“頑張っている”ように見えるらしいと知って驚きました。

ただ当然やるべきだという謎の強迫感に追われて、それから逃げるために何かをしてきただけで、自分の意識が高いとかストイックな性格をしているだとか、考えたこともなくて。それは社会人になってからも変わらず、

特に昨年秋頃までの間、働きながら毎日ジムに行ったり業務外の勉強をしたりしてきたのは、日々自己研鑽☆みたいなキラキラなノリではなく、ここでも謎の切迫感に追われていたから。

仕事に余裕があって早く帰れて自由な時間があるのに、その間にも働き続けて伸びていく人がいるのに、少しでも意味の有りそうなことをしないでいられるほど私は強い人間ではありません。ツイートの「単にそうしていないと気が狂いそうなだけ」は、我ながら中々的確な表現をしたな、と。

 

「会社に行くのが嫌」と言わなかった理由

以前から私の書くものを見てくださっている方はこいつずっと会社に行くのが楽しいとか言ってなかったかしら、と思ったかもしれません。

自分でもそう思ってツイートを遡ってみたら、会社や仕事に対して何かポジティブなことを言っていたのは案外昔でした。配属されたのは6月、上のツイートが7月で、8月頃にはなんだか不穏な感じになっていきます。この頃からは少しずつ上司に対する愚痴のようなものも増えていました。

これは当たり障りのない暮らしに幸せを見出していないからこそ出てきたものと思われます。

さらに、秋にはもっと顕著に自分の仕事に対してあまり良くない感情を抱くようになっていました。

 「毎日を会社と自宅(とジム)の往復だけ、しかも会社での仕事をそれほど負荷にも感じていない、という快適で健全で単調な暮らしをコンプレックスに感じる」

「辛くなければ頑張っていない、頑張っていない自分はダメだと思ってしまう」

「それなら激務な職を選べばよかったじゃないかというセルフツッコミで毎日心をこじらせて死にそうになっている」

映画「アイネクライネナハトムジーク」を見ました - どんな言葉で君を愛せば、

 

今この瞬間目の前にある生活における時間的拘束という意味でも、人生における目的という意味でも大きな存在感を放つ仕事。こんなに大事なものに対する悩みを、文章を書くのが好きだと言いながら今まではっきりと言語化してこなかったことにはもちろん理由があります。

シンプルに、向き合うのが怖かったからです。正面からこの問題を自分につきつけるのは危険だと、これもまた言葉にせずともわかっていました。だから推しをつくって会社に行くことを楽しもうとしたり、一緒に働く人たちのことが好きでその人たちの為に役に立ちたいと思うようにしてきました。まさしく自分を騙すように。

 

もう誤魔化しようがない

転機になったのは人事部教育担当との面談。この時期悩みがちな新卒のケアをするために設けられている制度らしいのですが、私に関して言えば完全に裏目に出ました。今の仕事や職場への不満を話すように求められ、今まであえて目を背けてきたフラストレーションを言葉にしたことで、自分が今の仕事をとても嫌っているという事実を認めざるを得なくなったのです。詳しく話して身元が割れるのは怖いので内容は伏せますが。

 

自分の実力以上の成果を求められて苦しみたい。やるべきことに追われていないと自分が生きている意味がわからないのに、自分のキャパの体感二割くらいしか求められていない現状が本当に苦しい。

私はたぶん泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロのような人間で、それなのに観賞用の金魚鉢で飼われる金魚になるような、ぬるくて優しくて退屈な環境に身を置くことを選んだのも私。就職活動の戦略を誤ったのは自分だから自業自得でしかない。内定前には示しもされなかった職種での望まない配属とか、日本語がまともに通じないと感じてしまうヤバい上司だとか、そういう偶発的で私にはどうしようもない問題もたしかにあるけれど、大まかに言えば私が今苦しいのは私のせい。

 

自分を読み違えて就活に失敗した。そのことに薄々気付きながら、それを認めたくなくて仕事も通勤も楽しいと思おうとしてきたのがこの半年。楽しかった気持ちも全てが嘘ではないけれど、すべてが純粋なものではなかった。私は就活に失敗し、それによって全てを投げ出すことはせず切り替えて健やかに生きようとしたことにもまた、挫折しようとしている。

 

さっき読んだ本にはこんなことが書かれていた。

「有意義な仕事が長寿につながるとしたら、あなたの寿命を短くするものは何か?失業だ。(中略)しかし、嫌いな職に就いていることは、失業よりさらに悪い。2010年のギャロップ調査によると、疎外感を覚えたり、感情移入できない職に就いている人は、失業状態にある人より幸福度が低い。スウェーデンの就業者を対象とした調査では、単調な仕事は心筋梗塞の発症リスクを高めることが明らかになった。つまり、退屈な仕事はあなたを殺すのだ。」

 

自分が選んで入った会社を自分が配属された1拠点、もっと言えば1フロアだけしか知らずに会社全体に絶望して辞めるなんてありえないと思ってきたけれど、様々な事情で社内での異動はどうやらすぐには叶いそうもなく、でもこのまま終わりの見えない退屈な仕事に向き合い続けるのはあまりにも苦しくて、もう転職しかないかと思いきや、家賃補助が手厚い今の会社を出て一人で部屋を借り直さなければいけないのは怖くて、結局は退屈な仕事をしながら毎日泣くことしかできずにいる自分が情けなくて、こんな情けない姿は家族にも友達にも彼氏にも見せたくなくて、もう全部おしまいにしたい。実家暮らしの同期に辞めたいと相談されて「いいよね、会社辞めても家がある人は」って嫌味を飲み込んだ昼休み。相手を一緒に頑張る仲間と思えない自分の器の小ささに震える。もう疲れた。おわり