どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

有田・波佐見でひとり旅をしてきた件。

人に何かをおすすめするのはとても難しい。単に自分が気に入った物や場所を言っておけばいいというものではないからだ。

 

ツイッターで「○○ってお店の△△が美味しかった」と周知するだけならいざ知らず、たとえば誰かに直接「おすすめの本は?」と聞かれたら私は、自分が知っている情報の中からその人の趣味趣向に沿って検討しようとするし、そうでなければならないと思っています。逆に「最近読んで良かった本は?」と聞いてもらえるときはシンプルに好きだったものを答えればいいので楽。

最近その「おすすめ」問題に関して、相手に申し訳ないことをしたと思った事がありました。初対面の男の人におすすめの本を聞かれて、あまりお互いのことを知らなかったし話の流れで聞いてくれただけだと思って、出来心でその週読んでいた本を適当に答えてしまったのです。翌々日「昨日早速買って読みました!」と言われたときに自分の不誠実を悔やみ、その本が好みだったらしいのを受けて、それなりに考えた上で次のおすすめをさせてもらいました。

余談が長くなりましたが、そんな私が「おすすめを聞かれて答えるのが難しいものランキング」で3本の指には入るだろうと思うのが旅先です。それを踏まえて、ここからが本題。

 

f:id:oyasumitte:20191231202225j:image

長崎県東彼杵郡波佐見町

に行ってきました、という話をします。完全なる個人の旅行記です。

東彼杵はひがしそのぎと読みますが、さて、波佐見と聞いてピンとくる方はどれくらいいたでしょう。波佐見といえば波佐見焼、焼物の町。地理的には、焼物界で格段の知名度を誇る有田焼の産地・有田(佐賀県)の隣にあります。私は今回、波佐見焼の産地として波佐見町に惹かれ、一人で旅行に行ってきました。

私が焼物に興味を持ったのは至極最近のことで、初心者中の初心者だった為に波佐見焼の歴史はもちろん陶磁器全体に関しても学ぶことだらけで、それはもう楽しい1泊2日の旅でした。が、最初に述べたようにそのことを理由として万人に波佐見町をすすめられるかという問題になると難しいところです。その理由は1つ。公共交通機関という概念がほぼ存在しないこと。

自家用車またはレンタカー(あるいはタクシーを乗りまわせる財力)が無いと身動きが取れないのは、波佐見に限らず地方の観光地ではあるあるです。田舎では車こそパワーなのです。車を持たない人間は無力。風の前の塵に同じ。

 

有田ポーセリンパーク

今回は波佐見焼の生産地・波佐見町に行くという目的があっての旅行でしたが、ついでといいますか、せっかくなので隣町の有田にも行ってきました。あまり時間もない中で、観光ガイドにとりあえず行っておけと書いてあった有田ポーセリンパークへ。

博多からJRの特急に乗って有田駅で降りると、駅前には何もありません。これは想定の範囲内です。1日に何本かはあると前情報を仕入れていたバスの時間もタイミングが悪く、駅前にいたタクシーで向かいました。駅から1,500円ほど。

f:id:oyasumitte:20191222145117j:image

佐賀県にある酒造・有田焼のテーマパーク 有田ポーセリンパーク

見所になっているツヴィンガー宮殿ですが、率直に言うとこれのためだけにわざわざ有田から山を登ってくるのはちょっともったいないかなという感想でした。綺麗は綺麗でしたけれど。

また私はニワカ日本酒好きなので、隣接する宗政酒造さんの酒蔵も見学してきました。
f:id:oyasumitte:20191222145146j:image

酒造とは別にあるパーク内の直売所で試飲をさせてもらえるのですが、ここにいるおじさんは気前が良すぎるので訪れる際には注意してください。私は清酒宗政の蔵出し原酒、初しぼり特別純米原酒、特別純米酒ruri munemasa、純米吟醸、梅酒眠り姫、本格焼酎のんのこ芋、とかもう本当に片っ端から試飲させていただいて。年末の帰省の手土産用に初しぼりなどいくつか購入してから、山を下りました。
f:id:oyasumitte:20191222145114j:image

歩いて山を下りました。何もない、舗装も怪しい道を。
f:id:oyasumitte:20191222145150j:image

歩いて、山を、下りました。川が綺麗でした。
f:id:oyasumitte:20191222145154j:image

予約していたホテルの送迎車が下りた先の有田・波佐見ICまで来てくれることになっていたので、ポーセリンパークからそこまで20分程度歩いたのですけれど、ずっと何もない道を来て、インターに近づいたときに突然目の前に現れたのがこちら。

f:id:oyasumitte:20191222145129j:image

波佐見焼ブランドを牽引する「有限会社マルヒロ」さんの直営店でした。

有限会社マルヒロ | 波佐見焼の陶磁器ブランド

f:id:oyasumitte:20191222145110j:image

床が陶器でつくられていて、最初に足をのせるときはヒヤヒヤすると思います。

f:id:oyasumitte:20191222145136j:image

クリスマスシーズン限定のこちらのシリーズ一式やら丼やらを購入して、いざホテルへ。
f:id:oyasumitte:20191222145120j:image

 

ブリスヴィラ波佐見

私が泊まったのは、田畑が広がる風景の中、突如現れるホテル「ブリスヴィラ波佐見」。波佐見町内ならどこでも無料で送迎してくれる、車を持たない無力な旅行者こと私には有難すぎる宿でした。

f:id:oyasumitte:20191231221409j:image

わりと新しいので雰囲気も良いです。
f:id:oyasumitte:20191231221406j:image
f:id:oyasumitte:20191231221402j:image

お風呂と食事はホテル内の施設も利用できますが、私はおすすめされたので隣接する温泉施設とレストランを満喫しました。ちなみに入浴料は、ホテルでチェックインするときに受け取れるカードを見せると無料になります。
f:id:oyasumitte:20191231221412j:image

食べかけの写真で申し訳ないのですが、石窯焼きピザと地元で採れた野菜のサラダ、波佐見焼で飲む白ワインが最高に美味しかったです。
f:id:oyasumitte:20191231224106j:image

このあとはやたらと照明の設定を細かく変えられるホテルの自室に戻って、贅沢にダブルベッドでゆっくり寝て、翌朝はホテルのレストランで優雅に朝食を食べました。そういえばきちんと書いていませんでしたが、羽田を発ってから波佐見で朝を迎えるまで、私はずっと一人です。一人で空を飛び、山を歩き、酒を飲みました。

実はこの翌日に波佐見焼の窯元で製作体験をしたのが旅のメインイベントだったのですが、その様子は諸事情で当分載せられないため今回は割愛します。

f:id:oyasumitte:20191231232615j:image

そういえば波佐見で私が特に気に入ったものの一つは、空の色でした。上の写真はレストランから見えた朝焼けの様子ですが、夕焼けのオレンジ・薄いピンク・ラベンダーの淡いグラデーションはこれ以上に美しくて、息を呑んで見上げたのを覚えています。見惚れていたらみるみる暗くなってしまって、写真は撮れなかったのが心残りです。

また私は今回時間の都合上ほとんど諦めましたが、波佐見町はそれなりに観光産業の街としてさまざまな施設・仕掛けが用意されているようでした。特に「西の原」の辺りにはかわいいショップやカフェがコンパクトに集まっていて、女子旅の目的地としては最適かと!

 

交通が不便な土地だったり、誰もが興味を掻き立てられる絶景のようなコンテンツが存在しなかったりすると、自分が気に入った旅先であっても人にすすめるのは難しいと感じます。でもここでなら自分の見聞きしたことを感じたままにつらつらと書いても許されるかな、というくらいのゆるさで、来年もこのブログを続けていけたらなと思っています。

昨年末に突然ブログを開設して1年、想像以上に多くの方に読んでいただき、感謝の言葉しかありません。次の回で改めて2019年の振り返りと2020年の目標設定をします。どうぞ良いお年をお迎えください。さやかでした!

ここではないそこへ行けば ここにはない何かがある

ドイツの詩人,カール・ブッセの「山のあなた」という詩をご存知ですか。尋ねておきながらこう言うのも何ですが、一度も見たことも聞いたこともない人はそこそこの大人の中にはあまりいないのではないかと思います。

山のあなたの空遠く

「幸」住むと人のいふ。

噫、われひとと尋めゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

「幸」住むと人のいふ。 

上田敏訳『海潮音』,明治38年

意味としては「山の向こうに幸せな場所があるのだ、と言う人がいるので行ってみたが、そんな場所は無かったので涙ながらに帰ってきた。今回行った場所よりももっと遠くにあるのだと言う人がいる」という感じ。個人的には「もっと遠くにあるのだと言う人はいるが、そこにもきっとないだろう」というようなニュアンスがあるように思っています。

 

あの坂をのぼれば

さて、「あの坂をのぼれば、海が見える」というフレーズに見覚えはありますか?こちらはおそらく「山のあなた」よりもわかる人が少ないだろうと思います。杉みきこさんの短編集『小さな町の風景』所収作品、「あの坂をのぼれば」の書き出しの一文です。私は小学生の時に国語の教科書で出会いました。作品のあらすじはこちら。

幼いころ、添い寝の祖母から、いつも子守歌のように聞かされた言葉。「あの坂をのぼれば、海が見える」数々の重圧に耐えきれなくなった少年は、磁石が北を指すように、まっすぐに海を思います。自分の足で、海を見てこようと。しかし、峠をいくつ越えても海は見えません。こんなつらい思いをして、いったい何の得があるのか、本当に海に出られるのか。なにもかもどうでもよくなってきます。疲労が胸をつきあげます。「もう、やめよう」と思ったそのとき、一羽の海鳥の声を耳にするとともにその姿を目にします。そして、海鳥はまるで先導するかのように峠を越えてゆきます。「あの坂をのぼれば、海が見える」海鳥のおくりものような一片の羽根を手に、少年は再び歩き始めます。

あの坂をのぼれば | 樟蔭レポート | 樟蔭LIFE

なぜこんな話をしているかというと、まず「山のあなた」を思わぬところ(大学の先輩のツイート)で目にして、自分の悩みを図星で突かれた気がしたからです。そして山の向こうに幸せを探しに行った人から連想して、山の向こうの海を見ようとした少年がいたことを思い出しました。

近頃の私には、とにかく自分の仕事に物足りなさがあって。もっと追い込まれたい、全力で向かってやっと乗り越えられるような業務に挑戦して大きくなりたいという気持ちばかり急いてしまって、その焦りに呑まれていました。もちろん呑まれている自覚も足りていなくて、抜け出し方がわからなくて苦しかった。そんな風に近視眼的になっていることに気付くきっかけとなったのが、久しぶりに読んだ詩「山のあなた」だったのです。

「山のあなた」は「見えない山の向こうに行ってみても理想郷などないのだから、今自分が手にしているもの、目にしているものに幸せを見出すのが良い」と促す詩であると認識していますが、少年が同じように夢見て山を越える「あの坂をのぼれば」は、その展開からして同じ教訓を示してはいません。

少年は、今、どうしても海を見たいのだった。細かく言えばきりもないが、やりたくてやれないことの数々の重荷が背に積もり積もったとき、少年は、磁石が北を指すように、まっすぐに海を思ったのである。

細かい話になり、物語を知らない方には申し訳ないのですが、少年は海を見たいと強く願っていました。そして疲れて立ち止まったとき、海の近くにいるはずの海鳥が上空を飛んでいるのを目撃して、さらにその羽根を偶然手にします。

海鳥がいる。海が近いのにちがいない。そういえば、あの坂の上の空の色は、確かに海へと続くあさぎ色だ。

それらのことから、一度疲労感に足を止めた少年は、海が近いという確信にも近い期待を持って立ち上がり、再び歩き出すのです。山を越える前の日々をよくさらって幸せを見出そうとはしていません。

なかなか報われない努力を続ける苦しさ、それを乗り越えるときには少年で言う海への強い思いと、海が近づいている=努力が実りつつあるという実感を得てモチベーションを上げることの二つが重要である、と読み取ることができるのではないかと思います。

 

見えてるものを見落として

「山のあなた」から読める教訓には、今自分の手の中にあるもの、目の前にあるものに対して感謝と満足を覚えることの大切さがあると思います。

見えるものを見つめるのではなく「見えないものを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」のはBUMP OF CHICKENですが、このフレーズが印象的な楽曲「天体観測」の大サビにはこんな一節もあるのをご存知ですか。

見えてるものを見落として

望遠鏡をまた担いで

書いていて、こんな詞を持つ別の楽曲のことも思い出しました。

尽きない欲と願望にあてられて

きっと何処にもないものを探して歩くよ

見えていたものまで見失って僕らは

♪ 激動 / UVERworld

私がこのところ感じていた苦しさは、コンフォートゾーンにいながら(もっと言葉を選ばずに言えばそこに囲われながら)何とかラーニングゾーン/ストレッチゾーンに出ようとする自らの焦りから来るものでした。ストレッチゾーンとは以前書いた記事で言うところの「背伸びをしてやっと手が届く成果が求められる環境」のことで、私が今いるのはおそらく完全にコンフォートゾーン、つまりそこにい続けるだけでは成長が見込めない位置です。

働く大人の学びに必要なもの、3選 - どんな言葉で君を愛せば、

コンフォートゾーンにいる今、所属長や先輩は私にとっての「安心屋」ばかりで、私は「緊張屋」としての自責・自戒の意志と彼らとの温度差に自滅しそうになっていました。

「このままここにいてはいけない」と思うばかりだったわけではなく、やりたいことのためにそれなりにストイックな日々も過ごしてきたと思います。自分でも思うし、私がしていることを知っている人にもそれは認めてもらっていると感じてきました。

それでも気持ちばかり急いて空回りしていたのには理由があって、それは私がまだ入社して半年強のひよっこで、コンフォートゾーンであると感じている今の職場でさえもそれ以上を求めてもらえるほど力を認められていないから。それと、見えないけれど「山のあなた」に行けばあるはずの「やりたい仕事」や「一生懸命になれる仕事」をただ漠然と夢見ていたからだと思います。

 

悩み始めた時に考えていたのは「成長したい」「自分が成長を感じられる環境で仕事をして生きたい」だったはずなのに、いつからか「とにかくここを抜け出したい」ということばかりに意識が向いて手段が目的になってしまっていて。しかも所謂JTCなので人事制度もわりとガチガチで、数年勤務しないと異動の希望なんて出せず、目的化してしまった手段の実現はしばらく叶いそうもない。

叶いそうもない異動先の仕事はよく見えず、そちらに憧ればかりが募り、一方で手元にある自分の仕事はとてもちっぽけでつまらないものに見えてきてしまっていました。

多分、山のあなたに夢を見るのをやめるには私はまだ若過ぎるし、海を見たいという気持ちだけで途方も無い山道を走り続けられるほど幼く強くもないのです。山のあなたに夢を見ながら、少年のところに舞い降りた海鳥の羽根のように 自分を励ます言葉を自分自身や安心屋さんから積極的に得て、休み休みでも着実に坂を登り続けて海を目指すほかありません。

そうして出来る限りの事をし尽くす日々を積み重ねて、いつか夢見てきたことに挑戦するチャンスが自分に降ってきたときに「頑張ってきたあなただから」と心から応援してもらえる、そういう会社員になりたいです。最近ずっと苦しかったけれど、ここで腐らずに見方を変えてまた頑張ろうと思えた月曜日でした。

ここではないそこへ行けば

ここにはない何かがある

♪ Hey!Say!JUMP / Your Seed

夢を見るのは良いことだけれど、どうしたって見えないものを見ようとしたり、何処にもないものを探し歩いたり、ここではないそこへ行くだけでここにはない何かが得られると思ったりしてしまうと苦しいばかりです。夢見ることと地に足付けて歩くことのバランシングが大切なのだと思います。

おやすみなさい。さやかでした。

 

海潮音

海潮音

  • 作者:上田 敏
  • 発売日: 2012/09/12
  • メディア: Kindle版
 
小さな町の風景 (偕成社文庫)

小さな町の風景 (偕成社文庫)

  • 作者:杉 みき子
  • 出版社/メーカー: 偕成社
  • 発売日: 2011/02/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性で

言葉は、誰かと話すためだけに存在しているわけではない。私たちは黙って考え事をするときにも絶え間なく言葉を使い続けている。

浮かぶように現れては放っておくとそのうちまた見えなくなったり、またふとしたときに戻ってきたりして自分の中を回っている言葉。そのうちどれを口にして何を口にせず内に秘めておくか、或いは無かったことにしようとするかは、その人らしさがよく表れる重要な問題だと私は思っています。その人らしさというか、それこそがその人自身であると言ってもいいのではないかと思っているほどです。

https://twitter.com/taguchi2_0_1_6/status/1183264102657019904?s=21

私はさやかのアカウントでフォローしている人にはそれぞれ「この人がこれについて語っているところが特に好き」と思うポイントがあるのですが、たぐちまるさんについてはそれが知性・品性に対する考え方です。「先のRT」が何だったのかは忘れてしまいましたが、このツイートでは私が「先のRT」に対してモヤリとした感情が見事に言語化されていて、これ以上もう何も言えない……と思ったことを覚えています。リツイートしたもののあまりにも続ける言葉が見つからず、かといって無言で投げっぱなしにするのもどうかと思い、重ねて他人(スピードワゴン小沢)の言葉を借りてくることしかできませんでした。

余談ですがこのように私がすべてを「」で括ったツイートをしたらそれは他人の言葉です。よかったら覚えておいてください。

https://twitter.com/taguchi2_0_1_6/status/1199417377466675200?s=21

また、こうして「いわゆる知性や教養」と語られるように知性や品性と遠からざるところにありそうな教養については、同じくツイッターでフォローしているいわんこさんの定義が好きです。

 

知性・品性以前の問題として

隙あらばツイッターを開いてしまう寂しい23歳OLなのでツイッターの話を始めると止まりませんが、何を書こうと思ってはてなブログのアプリを開いたのか思い出したので本題に入ります。

「何を言えるかに知性が表れ、何を言わないかに品性が表れる」、一般論としてそれは確かにそうだと思うのだけれど、最近私が気になったのはもっと具体的な、狭い範囲における言葉の問題。それは対人コミュニケーションにおいて、必要な一言が言えない/余計な一言が止められないというのは、等しく一種のコミュ二ケーション障害なのではないかということです。

コミュニケーションには多様なかたちがあっていいしそうあるべきだという話は今回一旦棚に上げます。たとえば言葉の通じない人同士がボディランゲージやその場のテンションだけで言葉の壁を乗り越えて交流するのも、長年連れ添った夫婦が言葉を交わさず阿吽の呼吸で理解し合うのも、素敵だとは思うけれど特殊な状況だし、私がしたいのは主に会社や学校などの日常世界でのコミュニケーションの話なのです。まあこれもある種の特殊な環境と言えそうですが……。

さて、私は知性と品性が表れるのは、言わなくてもいい中で何を言えるか/言わないかという問題なのかなと思っていて、多分それはレイヤーで考えるとわりと上位の話なんじゃないかと考えます。その下で基盤を成すのは言うべきことを言えるかどうかというコミュニケーション能力、もっと言葉を選ばずに言えば最低限度の礼節や良識。ここで言うべきこととは「ありがとう」「申し訳なかった」などの一言を想定しています。

 

謝れない人が守りたいもの

人がどうしても謝れない状況について考えたとき、まず頭に浮かんだのは昔何かのドラマで見たことがある、相手に謝罪することが己の非を認めることに繋がり裁判で不利になってしまうという立場に置かれた被告です。この人は確かに謝ることができないでしょう。

でも私達は普段誰かに訴えられた被告ではないし、おそらくそうなってしまうことを心配しているわけでもない。どんな状況であっても自分には全く非がないと被害者面をキメまくる人はもうお話になりませんが、100ではなくても一部は自分にも非があると感じていながら謝ることができない人というのも意外に多いなと思います。苦虫を噛み潰したような顔をしながら、なお責任転嫁するような言葉がすらすらと出てきたり、逆にだんまりを決め込んだり……。

立場とか尊厳とか、考えるところは色々あるのかもしれません。今の私の頭で私より少し長く生きているおじさん(とお姉さま)たちの思考を理解できるとは思えないので、おそらく私には見えない何かが見えているのだと思います。「目下の相手に対して自分の不注意や不備を詫びる」ことに対する大きなハードルが、多分存在している。

でも少なくとも今の私から見れば、謝れない人は謝れない人でしかないのです。反射で「ごめん!」が出るおじさんの方がずっと大人だと感じます。社会で生きる大人が「ありがとう」「助かった」「申し訳ない」このあたりの言葉を素直に言えるかどうかは知性ではなく、大人としての成熟度の問題だと思うのです。言うまでもなくあくまでも私の尺度では、ですが。

 

余計な一言イコール悪意、ではない

ここまでは言うべきことを言えるかどうかという点を軸に書いてきたつもりですが、次に書きたいのは逆の、言うべきでないことを言わずにいられない人についてです。

先程、知性をもって「何を言えるか」品性をもって「何を言わないか」問題は上位のもので、言うべきことを言えるかどうかはその下にある問題ではないかと書きました。そう思う一方で、2つはまったく別のものかもしれないと思ってもいます。そこにあるのは、コミュニケーションの種類の違いです。ツイッターで不特定多数に向けて発信する言葉と、相手がある状況で伝える言葉は同じではない。

目の前の相手に言わない方がいいことを言わずにいられない人、あるいはそれが言うべきでない一言だとわからない人に欠けているのは、品性ではなく想像力だと思います。

たとえばセクハラに類することを言うおじさんが「こんなことを言ったら今はセクハラって言われちゃうかな」と薄気味悪い笑みを浮かべるとき、「気持ち悪いおじさんとして気持ち悪いことを言って不快にさせてやろう」とは思っていないはずです。そんなに邪悪な人ではない、馬鹿なのと邪悪なのは違うと私は信じています。

私の上司は所謂「一言余分な人」で、その余計な一言で円滑なコミュニケーションを阻害していることに自覚的ではありません。何より最も困るのは、彼自身はおそらくそれを良かれと思って言っているのであろうこと。

朝早く会社に行けば「早すぎない?」昼に英語の勉強してたら「どこで使うの?」……上記ツイートのように何か一言言ってやりたいというよりは、部下に些細なことでも何か声をかけたいという思いからきているものなのだと思います。悪い人ではないから。

でも私の感想はツイート元の方と同じ「無視してくれ」の一言に尽きます。「ちょっと来るのが早すぎない?もっと遅くてもいいよ」に「オフピーク通勤したいので…」と返しつつ「このくだりあと何回やればいいですか?私より早く来てる人だっているし、時間外手当つけてるわけでもないし、ピーク時の満員電車が本当に嫌なんです、好きで早く来てるんです、いけませんか!?」という喉まで出かけた喧嘩腰の台詞を飲み込んだことは、一度や二度ではありません。

それは彼が一言余計なのは出勤時間に関することだけではないから。私の中で上司はもう「一言余計な人」になってしまっていて、だから彼の一挙手一投足、一言一句に神経を逆撫でされてしまうのです。これが悪循環なこともわかっていて、改善するべく色々と手を打っているのですが、それはまた回を改めて書きたいと思います。

 

「ありがとう、あなたに頼んでよかった」

もう3,500字も書いてしまったのでまとめに入ります。今回書きたかったのは「何を言えるか」で見えるのが知性で「何を言わないか」で見えてしまうのが品性で、必要なことが言えるかどうかでわかるのは成熟度だと思う、という話でした。

それともう一つ最近ひしひしと感じているのが、(相手の気分を良くするという意味で)言った方が良いことを、思ったときに躊躇わずに言えるのも大切な力だなということ。

これは非日常なシチュエーションだったので随分大げさな話に見えますが、たとえば思いがけない親切を受けたときの少しオーバーなくらいのお礼とか、その人でなくてもいい仕事を頼んだあと、結果を受けて最後に「あなたに頼んでよかった」と添える一言とか。

「ありがとう」「ごめんなさい」は言えて当たり前の、必要な言葉だと思います。それに比べると「あなたに頼んでよかった」「あなたのおかげで助かった」は少し過剰です。余分と言ってもいい。でもそれで相手の気分や自分との関係性が言わないよりも良くなるなら、言うべきだと私は思います。情けは人の為ならず、です。

今日も長々と書いてきましたが、とにかく私は誰に対しても気分を損ねる余計な一言ではなく、良い方向に余剰的な言葉が口をついて出る人でありたいと思っています。ついこの間反面教師なんていない方がいいと書いたばかりですが、仕方がないので余計な一言がやめられない一部の諸先輩方を反面教師としつつ。

 

ちなみに時と人と場合と関係性によりますが、下記のようなものも言った方が良い言葉に数えられるかもしれません。時と人と場合と関係性によるので、使うときはくれぐれも注意してください。

最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。