どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

【ご報告】私事ではありますが、

こんばんは。さやかです。

今日はタイトルの通り、私事ではございますが、この場を借りてご報告を致したく存じます。

私 さやかは、2019年11月29日を持ちまして、かねてよりお付き合いをさせていただいておりました Amazon アソシエイト・プログラ厶から、¥575の紹介料をいただきましたことをここにご報告申し上げます。

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これがブログを開設して11か月、アソシエイト・プログラムに承認されて7か月で初めての収入となります。マネタイズが目的ではありませんし、何ならはてなブログpro、独自ドメインの登録費用を考えると余裕で赤字ですが、それはさておき本当に嬉しいです。575円分のAmazonギフト券はもちろん、ここで紹介する書籍の購入費にあてたいと考えています。

ブログを読んでくださる方、さらに私のリンクからお買い物してくださった方、本当にありがとうございます!

以上、簡単ですがご報告まで。次はまたいつも通りの長文になる予定です。

おやすみなさいませ、良い週末を。さやかでした。

「オタクは性質」と彼女は言った

私にとって「オタクなので」というフレーズは万能な建前のようなものだ。気乗りしない誘いには「最近ちょっと忙しくて」とだけ言って断れば角が立たないのと同じで、「オタクなので」に特に意味はないけれど、言っておけばとにかく何でも丸く収まるような気がする。少なくとも私が発する「オタクなので」は精々リズムをとるための枕詞か、発言の角や棘を取り除くためのヤスリのような言い回しに過ぎず、ほとんどの場合はそれが無くても成立する。

 

オタクになれない僕たちの

大人になれない僕らの強がりをひとつ聞いてくれ〜〜〜という、同世代とカラオケに行くと高確率で誰かが歌うこの歌(曲名はカサブタ)は、どうやら昔のアニソンらしい。

実は私は、オタクなのでというフレーズを頻発する割にはなんのオタク行為も遂行できていない。オタクといえばまず思い浮かべられるであろうアニメやゲーム、漫画をあまり嗜まずに大人になってしまった。だから先に挙げたカサブタが一体いつ頃のどんな作品のテーマソングだったのかということは未だによくわからない。

J事務所や坂道Gの沼は学生時代に浅瀬を通ってきたけれど、もう課金することはおろか出演するテレビ番組さえも見ていない。服や化粧品なども好きだけれど、特段語れるような熱量や見識を持っているわけでもない。

それこそ学生の頃はよくいるコスメアカウントや美容アカウントの如く、隙あらば百貨店のコスメカウンターを渡り歩き、新作のチェックを欠かさなかった時期はある。でもある程度自分に似合うものを見つけて満足して、就職して自由に使える時間も減って、そうしたらコスメパトロールも私の趣味から消えた。

洋服も同じで、今でも自分の好きなものを探して買うのは好きだけれど、基本的には自分が何を買って何を着るのかということにしか興味がない。そして化粧品と同じで、ある程度自分の好きなブランドが固まってくるとそこしか見に行かない。たまにフラッと歩き回って開拓することはあるけれど、それでも大抵の場合はいつものお店に戻って買うことになる。自分が欲しい商品や欲しいテイストをもっているブランドを探す時のリサーチには労力を惜しまないけれど、それが見つかったあとの私はそれ以外の目新しいものに対して比較的興味を失い、保守的になるのだ。怠け者と言ってもいいかもしれない。

今、誰かに趣味を聞かれるととても迷う。学生時代の趣味の筆頭だった一人旅は、社会人になってからしていない。夏ごろまでよく乗っていた自転車も、ジムに通い出してから月1程度になってしまった。秋頃に一番していたことといえば資格の勉強とジム通いだけれど、これを趣味と言っていいのかどうかはよくわからない。やらねば、という切迫感から続けているものだからだ。

さて話を戻して、以上のような状況から私は、可処分時間が長い学生の頃にハマって時間やお金を多く費やしたものに対して、社会人になっても同じようにオタクであり続けられるのはひとつの才能だと思うのだ。

 

趣味を駆逐する不本意な活動について

さて話を戻して、以上のような状況から私は近頃、オタクであり続けることは才能だと思うようになった。可処分時間が長い学生の頃にハマって時間やお金を多く費やしたものに対して、社会人になっても同じような熱量を注げるのはシンプルにすごい。

少し前にツイッターで「婚活女子にしてはいけない質問」という印象的なツイートを見た。それっぽい単語で検索しても見つけられなかったのでうろ覚えだが、ざっくり言うと「婚活で出会った相手に余暇の過ごし方を聞くのはやめろ!」という話であったと思う。なぜなら、婚活中の人間が余暇にしていることは婚活だからだ。あなたが婚活で相手と会っているその時間こそ、本来相手が趣味や自己研鑽や婚活以外の交際活動に費やしていた時間なのだ。

私も先月婚活を齧るような生活をしてみて実感したが、ノルマ的に初対面の人間と毎週毎週出会い、そのために本来自分がしたいことをする時間的・体力的な余裕を失うことは、精神的な余裕の無さに直結する。「休みの日は何をして過ごしていますか?」と聞かれると発狂しそうになる感覚はわかったような気がした。

「ノルマ的に会う」と言うと「会いたくないならやめれば?」と言う人が湧きかねないと思うので先回りしていっておくが、婚活に関して会う前のマッチングの段階で「あ♡好きかも♡」となる人としか会わないつもりなら、そんなんだから婚活する羽目になっているんじゃないかと思ってしまう。好きな人や会いたい人としか会わなくていいのは出会ったあとの話で、まずは対面してみなければお話にならない、そして会うためにはそれなりに様々なコストが避けられない形でかかるものだ、というのが私の考えだ。

随分話が逸れた。とにかく言いたかったのは、不本意でもやらなければならないこととか、自分の為に自分がすべきだと思う活動が、趣味に費やす時間だとか何かのオタクになり得るだけの余裕を奪っていくこともあるということだ。暇な女子大生ではなくなった私たち会社員がオタクであり続けるためのカギは、やはり日中働いて疲れたあと眠るまでの数時間よりは、休日の過ごし方にあるのではないかと思う。

 

土日の片方は一人でいたいオタク

わたしは自分が日曜日にジムに行くことも、その帰りにスーパーで買い物をして1週間分の料理を作ることも、誰か自分以外の人と約束して会うのと同じように「予定」として数える。もっと単純に言えば、土日のどちらかを誰かとランチしたり飲みに行ったりする予定で埋めたら、できればもう1日は自分の好きなように過ごす時間として確保したいと思う。

そして私は自分自身が何のオタクなのか自分でもわからないままに、これがオタクっぽい感覚であることはわかっている。「オタクだから土日のどちらか一日は一人で家にいたい」、ほらね、とてもしっくりくる感じ。

この自分一人ですると決めていることを予定に数えるということ、または何も決めず気ままに過ごす日を設けようとすることについて、共感できる人とできない人がいるのはわかる。端的にいえば、オタク的か、オタク的でないかの違いだ。

幸運なことに大抵の場合は、これを人に打ち明ける必要はない。断るときは「お誘いありがとう、でも明日は(ジムに行く)予定があるから会えない」、これで済む。ただ食い下がってその予定を聞きたがる相手だと参ってしまう。

そして正直に「明日は昼間ジムに行って夜は料理をしたくて」と伝えたときにあっけらかんと「じゃあ会えるじゃん!」「それは予定ないって言うんだよ」と言われてしまったときの絶望感は計り知れない。超えられない壁、埋められない溝を感じる。

誰かとの約束でなくても、自分がしたいと思うこと、すべきだと考えていることに費やすと決めた時間は予定として扱いたい。そしてそれを妨害されることが自分にとってストレスになるらしい、ということも最近わかってきた。

私がそうした自分だけの予定を曲げてでも会いたいのは基本的に好きな人だけなのだが、それをすると確実に私は生活が疎かになり精神を病んで、何もかも良く転ばない。それがわかっているだけで上手くいくのなら、今までもこれからもこんな風に悩んだりポエムを綴ったりする必要はないのだけれど!

 

そんな話をしていたとき、今でもちゃんと好きなもののオタクをしている友人が悟ったように言った言葉を今回のタイトルとさせてもらった。「オタクは性質だからね。辞めたり卒業したりできるものじゃないから」。オタクは才能でも病気でもなく性質らしい。一生の付き合いだ。

あーあ、私も早く土日のどちらかはできるなら一人で好きなことをして過ごしたいと独身の今は思っているようなオタクな性質を持つ人と結婚して、イオンの近くにマイホームを建てて、休日の買い物はミニバンで大混雑のイオンに行くような典型的な幸せを手に入れたいな〜!

 

……というわけで、私の書くものが好きだと言ってくれる人しか読んでいないようなここでわざわざ言う必要もないのだけれど、過去のツイートの微炎上について少し弁明したい。わたしは140字できっちりと言いたいことを言い切れず2,3ツイートで一連の何かを書いていることが多い気がしていて、恣意的に過去のツイートを切り取って持っていかれると、傍からは自分が随分違う人格を持つように見えるのだなと面白くもなった。しかしネットのそうした切り取り文化と他人から突然剥き出しにされる悪意にはやはり怖さが勝る。それを再確認した週末だった。炎上マーケティングをする人たちのメンタルは凄いな。

あと不思議と多くの人の目には見えていないようだけれど、そもそもあのツイートは「」で括っているし、私の自己紹介も、わざわざ私のアカウントページに飛んできて過去ツイートを遡ったりクソリプを送ってくれた一部の人たちの目には入らなかったらしい。わたしがツイートするどんなポエムもあなたのことではないから安心して眠ってほしい。

 

そんなこともあり、小心者のオタクなのでしばらくブログをツイートで流すのはやめます。最後が特に言い訳がましい長文になりましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさいませ。さやかでした。

反面教師はたぶん要らない

こんばんは。お久しぶりです。さやかです。

ここ1ヶ月ブログの更新をサボって何をしていたかというと、労働や受験勉強やジム通いやアプリ婚活等々です。仕事を含めて春から基本的にずっと楽しかった社会人としての生活でしたが、最近はやや息切れしているというか、辛いも感じることが増えてきていて。先月、体力とか時間とか興味がないと本は読めないよねという話をしましたが、この1ヶ月の私はまさにそれでした。書きたいことをそれなりのまとまりをもつ文章にするのは、読書と同じく気力と時間が必要な作業です。ブログを書く余裕をもてないくらい毎日しんどくて、何かに必死になって生きていたつもりなのですが、日記も一緒にサボっていたので振り返ると何をしていたのかよく覚えていません。あんなに精一杯だったし苦しかったのに。

そんな自棄的な日々のさなか、ひょんなことから深夜のファミレスで3時間の耐久レース(ソロ)に臨むことになった夜がありました。経緯はご想像にお任せします。

歓迎されないだろうと思いつつドアを開けたら優しそうな店員のお爺さんがいて「いらっしゃいませお嬢様、おひとり様でございますか?」、お酒とヒールでやや足元がおぼつかない私を見て「足元お気を付けくださいお嬢様」。一体ここはどこで、私は誰だったかしら。思いがけない優しさに触れたことでささくれていた気分が随分落ち着いたのを覚えています。もう知らない土地で終電後に一人でいるのは嫌だけれど、あのお店にはまた行きたいな。

……はい、というわけで本日も前置きが長くなりましたが、今日はそんな眠れない夜にまわらない頭で考えていたことを整理しつつ書いてみたいと思います。

 

脳のお茶目な特性

あなたの身の回りに、事あるごとに反面教師にしようと思わされるような人はいますか?もしもいるのであれば、可能な限り距離をとって目を逸らした方が良い。最近私はそう考えるようになりました。

にわかには信じがたいかもしれませんが、人の脳は否定形・時制・人称を区別できないのだといいます(今回おそらく何度も曖昧に脳という言葉を使いますが、これは人の無意識の領域や潜在意識などのことを指しています)。

「人称を区別できない」とは、特に目や耳などの器官を通して知覚した情報、例えば紙に書いたり声に出したりした言葉について、自分が言った言葉なのか誰かに言われた言葉なのかということも識別できないということ。

それはつまり、誰かに向けて自分が発した「バカ」という言葉は、自分以外の誰かへ向けた言葉として脳に認識はされないということを意味します。人を侮辱したり嘲笑ったりするような言葉はすべて自分の身をも傷つけているということで、その意味では「バカって言ったらお前がバカ」はわりと深い言葉なのかもしれません。

たとえば人に勘違いブスと言われるのが怖くて自分から「私ブスだから〜」と自虐に走っている女の子がいたとして、先に自分で言ってしまうことで自己防衛しているつもりでも、無意識下で自分が受けるダメージとしては自虐は他人にブスと言われるのと変わらないということになります。自虐は読んで字の如く、自分を虐める行為に他ならないのです。

話を戻して、賢いようで意外とポンコツな脳はなんと時制を区別することもできないらしく、過去のもう終わったことを気に病み続けていると、それを現在起きていることのように認知してしまうのだそうです。

そして3つ目、最後のこれが今日私が書きたいことの軸になるポイントなのだけど、なんと私たちの脳は否定形も認識できないらしいのです。なんてお茶目なの!

 

「絶対に○○しないぞ!」←フラグ

否定形を認識できないという脳のチャーミングな一面と「具体的に想像できることほど実現しやすい」というよく自己啓発本などで見かける俗説を重ね合わせると、恐るべき仮説が浮かび上がります。それは「絶対に○○しない」と考え続けることは「絶対に○○をする」と自分に言い聞かせることに等しいのではないかというもの。

眠さゆえに働いていない頭で考えているので多少ガバついていてもゆるしてほしいのだけれど、「僕は/私は、絶対にこうはならない」と思っていた対象に気づけば自分がどんどん近づいてしまっていた、ということは往々にしてあると思います。歌にもよくありません?「ああはなりたくないと思っていた大人に もうすぐなってしまいそう/いつのまにかなってしまっていた」みたいなポエム。

 

「あんな大人にはならないぞ」←フラグ

人が「自分は大人になった/なってしまった」と思うとき多分それには大きく2つのパターンがあって、

①「あんな大人」にも道理があったことを理解する

視野が広がったり視座を高く持てたりするようになることで、幼かったときには見えなかった事情や状況に揉まれ、それを無視できない程度に成熟した自分を発見すること。

②想像できてしまった大人像を実現する

ちょっとわかりにくい話になるかもしれませんが、具体的に想像できることほど実現しやすいという説を裏付けそうな現象として「世代間伝達」があります。

世代間伝達というのは、たとえば「かつて親に虐待された子どもが大人になって親になったとき、我が子に虐待をしてしまうことは珍しくない」というようなこと。

不適切な養育を受けた子どもの場合は,虐待経験に基づいて形成された愛着人物と自己についての内的ワーキング・モデルによって,親子間の虐待-被虐待という関係性の質が,次世代,つまり自分と自分の子どもとの関係に伝達され,養育関係の連鎖が生まれる結果となることが多い。(Buchanan 1996)。

久保田まり「児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略: 発達臨床心理学的視点から」季刊・社会保障研究 45 (4), 373-384, 2010年。

もちろんよく知っているから必ずそうなるという単純な話ばかりではないけれど、人間はよく知る対象に寄っていく傾向があるのは確かで。

「こうなりたくないな」とつい思ってしまうような人とは多分可能な限り距離を置いたほうが良いのだと思います。

ただそれが上司とか同僚とか、接することを余儀なくされる関係であるときにどうしたらいいのかがわからないので私は困っているんですね。今は反面教師として意識しすぎているような気もするので、もう少し自分に余裕ができれば良い距離感を保てるのかなあと期待を持ちつつ、頑張ってみます。

 

あー!ジム行ったあとブログ書いてたらもう眠い!今日中に更新することを重視した結果、結論が迷子になってしまっていますが、また進捗があれば報告します。おやすみなさい。さやかでした。