どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

ここではないそこへ行けば ここにはない何かがある

ドイツの詩人,カール・ブッセの「山のあなた」という詩をご存知ですか。尋ねておきながらこう言うのも何ですが、一度も見たことも聞いたこともない人はそこそこの大人の中にはあまりいないのではないかと思います。

山のあなたの空遠く

「幸」住むと人のいふ。

噫、われひとと尋めゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

「幸」住むと人のいふ。 

上田敏訳『海潮音』,明治38年

意味としては「山の向こうに幸せな場所があるのだ、と言う人がいるので行ってみたが、そんな場所は無かったので涙ながらに帰ってきた。今回行った場所よりももっと遠くにあるのだと言う人がいる」という感じ。個人的には「もっと遠くにあるのだと言う人はいるが、そこにもきっとないだろう」というようなニュアンスがあるように思っています。

 

あの坂をのぼれば

さて、「あの坂をのぼれば、海が見える」というフレーズに見覚えはありますか?こちらはおそらく「山のあなた」よりもわかる人が少ないだろうと思います。杉みきこさんの短編集『小さな町の風景』所収作品、「あの坂をのぼれば」の書き出しの一文です。私は小学生の時に国語の教科書で出会いました。作品のあらすじはこちら。

幼いころ、添い寝の祖母から、いつも子守歌のように聞かされた言葉。「あの坂をのぼれば、海が見える」数々の重圧に耐えきれなくなった少年は、磁石が北を指すように、まっすぐに海を思います。自分の足で、海を見てこようと。しかし、峠をいくつ越えても海は見えません。こんなつらい思いをして、いったい何の得があるのか、本当に海に出られるのか。なにもかもどうでもよくなってきます。疲労が胸をつきあげます。「もう、やめよう」と思ったそのとき、一羽の海鳥の声を耳にするとともにその姿を目にします。そして、海鳥はまるで先導するかのように峠を越えてゆきます。「あの坂をのぼれば、海が見える」海鳥のおくりものような一片の羽根を手に、少年は再び歩き始めます。

あの坂をのぼれば | 樟蔭レポート | 樟蔭LIFE

なぜこんな話をしているかというと、まず「山のあなた」を思わぬところ(大学の先輩のツイート)で目にして、自分の悩みを図星で突かれた気がしたからです。そして山の向こうに幸せを探しに行った人から連想して、山の向こうの海を見ようとした少年がいたことを思い出しました。

近頃の私には、とにかく自分の仕事に物足りなさがあって。もっと追い込まれたい、全力で向かってやっと乗り越えられるような業務に挑戦して大きくなりたいという気持ちばかり急いてしまって、その焦りに呑まれていました。もちろん呑まれている自覚も足りていなくて、抜け出し方がわからなくて苦しかった。そんな風に近視眼的になっていることに気付くきっかけとなったのが、久しぶりに読んだ詩「山のあなた」だったのです。

「山のあなた」は「見えない山の向こうに行ってみても理想郷などないのだから、今自分が手にしているもの、目にしているものに幸せを見出すのが良い」と促す詩であると認識していますが、少年が同じように夢見て山を越える「あの坂をのぼれば」は、その展開からして同じ教訓を示してはいません。

少年は、今、どうしても海を見たいのだった。細かく言えばきりもないが、やりたくてやれないことの数々の重荷が背に積もり積もったとき、少年は、磁石が北を指すように、まっすぐに海を思ったのである。

細かい話になり、物語を知らない方には申し訳ないのですが、少年は海を見たいと強く願っていました。そして疲れて立ち止まったとき、海の近くにいるはずの海鳥が上空を飛んでいるのを目撃して、さらにその羽根を偶然手にします。

海鳥がいる。海が近いのにちがいない。そういえば、あの坂の上の空の色は、確かに海へと続くあさぎ色だ。

それらのことから、一度疲労感に足を止めた少年は、海が近いという確信にも近い期待を持って立ち上がり、再び歩き出すのです。山を越える前の日々をよくさらって幸せを見出そうとはしていません。

なかなか報われない努力を続ける苦しさ、それを乗り越えるときには少年で言う海への強い思いと、海が近づいている=努力が実りつつあるという実感を得てモチベーションを上げることの二つが重要である、と読み取ることができるのではないかと思います。

 

見えてるものを見落として

「山のあなた」から読める教訓には、今自分の手の中にあるもの、目の前にあるものに対して感謝と満足を覚えることの大切さがあると思います。

見えるものを見つめるのではなく「見えないものを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」のはBUMP OF CHICKENですが、このフレーズが印象的な楽曲「天体観測」の大サビにはこんな一節もあるのをご存知ですか。

見えてるものを見落として

望遠鏡をまた担いで

書いていて、こんな詞を持つ別の楽曲のことも思い出しました。

尽きない欲と願望にあてられて

きっと何処にもないものを探して歩くよ

見えていたものまで見失って僕らは

♪ 激動 / UVERworld

私がこのところ感じていた苦しさは、コンフォートゾーンにいながら(もっと言葉を選ばずに言えばそこに囲われながら)何とかラーニングゾーン/ストレッチゾーンに出ようとする自らの焦りから来るものでした。ストレッチゾーンとは以前書いた記事で言うところの「背伸びをしてやっと手が届く成果が求められる環境」のことで、私が今いるのはおそらく完全にコンフォートゾーン、つまりそこにい続けるだけでは成長が見込めない位置です。

働く大人の学びに必要なもの、3選 - どんな言葉で君を愛せば、

コンフォートゾーンにいる今、所属長や先輩は私にとっての「安心屋」ばかりで、私は「緊張屋」としての自責・自戒の意志と彼らとの温度差に自滅しそうになっていました。

「このままここにいてはいけない」と思うばかりだったわけではなく、やりたいことのためにそれなりにストイックな日々も過ごしてきたと思います。自分でも思うし、私がしていることを知っている人にもそれは認めてもらっていると感じてきました。

それでも気持ちばかり急いて空回りしていたのには理由があって、それは私がまだ入社して半年強のひよっこで、コンフォートゾーンであると感じている今の職場でさえもそれ以上を求めてもらえるほど力を認められていないから。それと、見えないけれど「山のあなた」に行けばあるはずの「やりたい仕事」や「一生懸命になれる仕事」をただ漠然と夢見ていたからだと思います。

 

悩み始めた時に考えていたのは「成長したい」「自分が成長を感じられる環境で仕事をして生きたい」だったはずなのに、いつからか「とにかくここを抜け出したい」ということばかりに意識が向いて手段が目的になってしまっていて。しかも所謂JTCなので人事制度もわりとガチガチで、数年勤務しないと異動の希望なんて出せず、目的化してしまった手段の実現はしばらく叶いそうもない。

叶いそうもない異動先の仕事はよく見えず、そちらに憧ればかりが募り、一方で手元にある自分の仕事はとてもちっぽけでつまらないものに見えてきてしまっていました。

多分、山のあなたに夢を見るのをやめるには私はまだ若過ぎるし、海を見たいという気持ちだけで途方も無い山道を走り続けられるほど幼く強くもないのです。山のあなたに夢を見ながら、少年のところに舞い降りた海鳥の羽根のように 自分を励ます言葉を自分自身や安心屋さんから積極的に得て、休み休みでも着実に坂を登り続けて海を目指すほかありません。

そうして出来る限りの事をし尽くす日々を積み重ねて、いつか夢見てきたことに挑戦するチャンスが自分に降ってきたときに「頑張ってきたあなただから」と心から応援してもらえる、そういう会社員になりたいです。最近ずっと苦しかったけれど、ここで腐らずに見方を変えてまた頑張ろうと思えた月曜日でした。

ここではないそこへ行けば

ここにはない何かがある

♪ Hey!Say!JUMP / Your Seed

夢を見るのは良いことだけれど、どうしたって見えないものを見ようとしたり、何処にもないものを探し歩いたり、ここではないそこへ行くだけでここにはない何かが得られると思ったりしてしまうと苦しいばかりです。夢見ることと地に足付けて歩くことのバランシングが大切なのだと思います。

おやすみなさい。さやかでした。

 

海潮音

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小さな町の風景 (偕成社文庫)

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何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性で

言葉は、誰かと話すためだけに存在しているわけではない。私たちは黙って考え事をするときにも絶え間なく言葉を使い続けている。

浮かぶように現れては放っておくとそのうちまた見えなくなったり、またふとしたときに戻ってきたりして自分の中を回っている言葉。そのうちどれを口にして何を口にせず内に秘めておくか、或いは無かったことにしようとするかは、その人らしさがよく表れる重要な問題だと私は思っています。その人らしさというか、それこそがその人自身であると言ってもいいのではないかと思っているほどです。

https://twitter.com/taguchi2_0_1_6/status/1183264102657019904?s=21

私はさやかのアカウントでフォローしている人にはそれぞれ「この人がこれについて語っているところが特に好き」と思うポイントがあるのですが、たぐちまるさんについてはそれが知性・品性に対する考え方です。「先のRT」が何だったのかは忘れてしまいましたが、このツイートでは私が「先のRT」に対してモヤリとした感情が見事に言語化されていて、これ以上もう何も言えない……と思ったことを覚えています。リツイートしたもののあまりにも続ける言葉が見つからず、かといって無言で投げっぱなしにするのもどうかと思い、重ねて他人(スピードワゴン小沢)の言葉を借りてくることしかできませんでした。

余談ですがこのように私がすべてを「」で括ったツイートをしたらそれは他人の言葉です。よかったら覚えておいてください。

https://twitter.com/taguchi2_0_1_6/status/1199417377466675200?s=21

また、こうして「いわゆる知性や教養」と語られるように知性や品性と遠からざるところにありそうな教養については、同じくツイッターでフォローしているいわんこさんの定義が好きです。

 

知性・品性以前の問題として

隙あらばツイッターを開いてしまう寂しい23歳OLなのでツイッターの話を始めると止まりませんが、何を書こうと思ってはてなブログのアプリを開いたのか思い出したので本題に入ります。

「何を言えるかに知性が表れ、何を言わないかに品性が表れる」、一般論としてそれは確かにそうだと思うのだけれど、最近私が気になったのはもっと具体的な、狭い範囲における言葉の問題。それは対人コミュニケーションにおいて、必要な一言が言えない/余計な一言が止められないというのは、等しく一種のコミュ二ケーション障害なのではないかということです。

コミュニケーションには多様なかたちがあっていいしそうあるべきだという話は今回一旦棚に上げます。たとえば言葉の通じない人同士がボディランゲージやその場のテンションだけで言葉の壁を乗り越えて交流するのも、長年連れ添った夫婦が言葉を交わさず阿吽の呼吸で理解し合うのも、素敵だとは思うけれど特殊な状況だし、私がしたいのは主に会社や学校などの日常世界でのコミュニケーションの話なのです。まあこれもある種の特殊な環境と言えそうですが……。

さて、私は知性と品性が表れるのは、言わなくてもいい中で何を言えるか/言わないかという問題なのかなと思っていて、多分それはレイヤーで考えるとわりと上位の話なんじゃないかと考えます。その下で基盤を成すのは言うべきことを言えるかどうかというコミュニケーション能力、もっと言葉を選ばずに言えば最低限度の礼節や良識。ここで言うべきこととは「ありがとう」「申し訳なかった」などの一言を想定しています。

 

謝れない人が守りたいもの

人がどうしても謝れない状況について考えたとき、まず頭に浮かんだのは昔何かのドラマで見たことがある、相手に謝罪することが己の非を認めることに繋がり裁判で不利になってしまうという立場に置かれた被告です。この人は確かに謝ることができないでしょう。

でも私達は普段誰かに訴えられた被告ではないし、おそらくそうなってしまうことを心配しているわけでもない。どんな状況であっても自分には全く非がないと被害者面をキメまくる人はもうお話になりませんが、100ではなくても一部は自分にも非があると感じていながら謝ることができない人というのも意外に多いなと思います。苦虫を噛み潰したような顔をしながら、なお責任転嫁するような言葉がすらすらと出てきたり、逆にだんまりを決め込んだり……。

立場とか尊厳とか、考えるところは色々あるのかもしれません。今の私の頭で私より少し長く生きているおじさん(とお姉さま)たちの思考を理解できるとは思えないので、おそらく私には見えない何かが見えているのだと思います。「目下の相手に対して自分の不注意や不備を詫びる」ことに対する大きなハードルが、多分存在している。

でも少なくとも今の私から見れば、謝れない人は謝れない人でしかないのです。反射で「ごめん!」が出るおじさんの方がずっと大人だと感じます。社会で生きる大人が「ありがとう」「助かった」「申し訳ない」このあたりの言葉を素直に言えるかどうかは知性ではなく、大人としての成熟度の問題だと思うのです。言うまでもなくあくまでも私の尺度では、ですが。

 

余計な一言イコール悪意、ではない

ここまでは言うべきことを言えるかどうかという点を軸に書いてきたつもりですが、次に書きたいのは逆の、言うべきでないことを言わずにいられない人についてです。

先程、知性をもって「何を言えるか」品性をもって「何を言わないか」問題は上位のもので、言うべきことを言えるかどうかはその下にある問題ではないかと書きました。そう思う一方で、2つはまったく別のものかもしれないと思ってもいます。そこにあるのは、コミュニケーションの種類の違いです。ツイッターで不特定多数に向けて発信する言葉と、相手がある状況で伝える言葉は同じではない。

目の前の相手に言わない方がいいことを言わずにいられない人、あるいはそれが言うべきでない一言だとわからない人に欠けているのは、品性ではなく想像力だと思います。

たとえばセクハラに類することを言うおじさんが「こんなことを言ったら今はセクハラって言われちゃうかな」と薄気味悪い笑みを浮かべるとき、「気持ち悪いおじさんとして気持ち悪いことを言って不快にさせてやろう」とは思っていないはずです。そんなに邪悪な人ではない、馬鹿なのと邪悪なのは違うと私は信じています。

私の上司は所謂「一言余分な人」で、その余計な一言で円滑なコミュニケーションを阻害していることに自覚的ではありません。何より最も困るのは、彼自身はおそらくそれを良かれと思って言っているのであろうこと。

朝早く会社に行けば「早すぎない?」昼に英語の勉強してたら「どこで使うの?」……上記ツイートのように何か一言言ってやりたいというよりは、部下に些細なことでも何か声をかけたいという思いからきているものなのだと思います。悪い人ではないから。

でも私の感想はツイート元の方と同じ「無視してくれ」の一言に尽きます。「ちょっと来るのが早すぎない?もっと遅くてもいいよ」に「オフピーク通勤したいので…」と返しつつ「このくだりあと何回やればいいですか?私より早く来てる人だっているし、時間外手当つけてるわけでもないし、ピーク時の満員電車が本当に嫌なんです、好きで早く来てるんです、いけませんか!?」という喉まで出かけた喧嘩腰の台詞を飲み込んだことは、一度や二度ではありません。

それは彼が一言余計なのは出勤時間に関することだけではないから。私の中で上司はもう「一言余計な人」になってしまっていて、だから彼の一挙手一投足、一言一句に神経を逆撫でされてしまうのです。これが悪循環なこともわかっていて、改善するべく色々と手を打っているのですが、それはまた回を改めて書きたいと思います。

 

「ありがとう、あなたに頼んでよかった」

もう3,500字も書いてしまったのでまとめに入ります。今回書きたかったのは「何を言えるか」で見えるのが知性で「何を言わないか」で見えてしまうのが品性で、必要なことが言えるかどうかでわかるのは成熟度だと思う、という話でした。

それともう一つ最近ひしひしと感じているのが、(相手の気分を良くするという意味で)言った方が良いことを、思ったときに躊躇わずに言えるのも大切な力だなということ。

これは非日常なシチュエーションだったので随分大げさな話に見えますが、たとえば思いがけない親切を受けたときの少しオーバーなくらいのお礼とか、その人でなくてもいい仕事を頼んだあと、結果を受けて最後に「あなたに頼んでよかった」と添える一言とか。

「ありがとう」「ごめんなさい」は言えて当たり前の、必要な言葉だと思います。それに比べると「あなたに頼んでよかった」「あなたのおかげで助かった」は少し過剰です。余分と言ってもいい。でもそれで相手の気分や自分との関係性が言わないよりも良くなるなら、言うべきだと私は思います。情けは人の為ならず、です。

今日も長々と書いてきましたが、とにかく私は誰に対しても気分を損ねる余計な一言ではなく、良い方向に余剰的な言葉が口をついて出る人でありたいと思っています。ついこの間反面教師なんていない方がいいと書いたばかりですが、仕方がないので余計な一言がやめられない一部の諸先輩方を反面教師としつつ。

 

ちなみに時と人と場合と関係性によりますが、下記のようなものも言った方が良い言葉に数えられるかもしれません。時と人と場合と関係性によるので、使うときはくれぐれも注意してください。

最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

【ご報告】私事ではありますが、

こんばんは。さやかです。

今日はタイトルの通り、私事ではございますが、この場を借りてご報告を致したく存じます。

私 さやかは、2019年11月29日を持ちまして、かねてよりお付き合いをさせていただいておりました Amazon アソシエイト・プログラ厶から、¥575の紹介料をいただきましたことをここにご報告申し上げます。

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これがブログを開設して11か月、アソシエイト・プログラムに承認されて7か月で初めての収入となります。マネタイズが目的ではありませんし、何ならはてなブログpro、独自ドメインの登録費用を考えると余裕で赤字ですが、それはさておき本当に嬉しいです。575円分のAmazonギフト券はもちろん、ここで紹介する書籍の購入費にあてたいと考えています。

ブログを読んでくださる方、さらに私のリンクからお買い物してくださった方、本当にありがとうございます!

以上、簡単ですがご報告まで。次はまたいつも通りの長文になる予定です。

おやすみなさいませ、良い週末を。さやかでした。