どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「オタクは性質」と彼女は言った

私にとって「オタクなので」というフレーズは万能な建前のようなものだ。気乗りしない誘いには「最近ちょっと忙しくて」とだけ言って断れば角が立たないのと同じで、「オタクなので」に特に意味はないけれど、言っておけばとにかく何でも丸く収まるような気がする。少なくとも私が発する「オタクなので」は精々リズムをとるための枕詞か、発言の角や棘を取り除くためのヤスリのような言い回しに過ぎず、ほとんどの場合はそれが無くても成立する。

 

オタクになれない僕たちの

大人になれない僕らの強がりをひとつ聞いてくれ〜〜〜という、同世代とカラオケに行くと高確率で誰かが歌うこの歌(曲名はカサブタ)は、どうやら昔のアニソンらしい。

実は私は、オタクなのでというフレーズを頻発する割にはなんのオタク行為も遂行できていない。オタクといえばまず思い浮かべられるであろうアニメやゲーム、漫画をあまり嗜まずに大人になってしまった。だから先に挙げたカサブタが一体いつ頃のどんな作品のテーマソングだったのかということは未だによくわからない。

J事務所や坂道Gの沼は学生時代に浅瀬を通ってきたけれど、もう課金することはおろか出演するテレビ番組さえも見ていない。服や化粧品なども好きだけれど、特段語れるような熱量や見識を持っているわけでもない。

それこそ学生の頃はよくいるコスメアカウントや美容アカウントの如く、隙あらば百貨店のコスメカウンターを渡り歩き、新作のチェックを欠かさなかった時期はある。でもある程度自分に似合うものを見つけて満足して、就職して自由に使える時間も減って、そうしたらコスメパトロールも私の趣味から消えた。

洋服も同じで、今でも自分の好きなものを探して買うのは好きだけれど、基本的には自分が何を買って何を着るのかということにしか興味がない。そして化粧品と同じで、ある程度自分の好きなブランドが固まってくるとそこしか見に行かない。たまにフラッと歩き回って開拓することはあるけれど、それでも大抵の場合はいつものお店に戻って買うことになる。自分が欲しい商品や欲しいテイストをもっているブランドを探す時のリサーチには労力を惜しまないけれど、それが見つかったあとの私はそれ以外の目新しいものに対して比較的興味を失い、保守的になるのだ。怠け者と言ってもいいかもしれない。

今、誰かに趣味を聞かれるととても迷う。学生時代の趣味の筆頭だった一人旅は、社会人になってからしていない。夏ごろまでよく乗っていた自転車も、ジムに通い出してから月1程度になってしまった。秋頃に一番していたことといえば資格の勉強とジム通いだけれど、これを趣味と言っていいのかどうかはよくわからない。やらねば、という切迫感から続けているものだからだ。

さて話を戻して、以上のような状況から私は、可処分時間が長い学生の頃にハマって時間やお金を多く費やしたものに対して、社会人になっても同じようにオタクであり続けられるのはひとつの才能だと思うのだ。

 

趣味を駆逐する不本意な活動について

さて話を戻して、以上のような状況から私は近頃、オタクであり続けることは才能だと思うようになった。可処分時間が長い学生の頃にハマって時間やお金を多く費やしたものに対して、社会人になっても同じような熱量を注げるのはシンプルにすごい。

少し前にツイッターで「婚活女子にしてはいけない質問」という印象的なツイートを見た。それっぽい単語で検索しても見つけられなかったのでうろ覚えだが、ざっくり言うと「婚活で出会った相手に余暇の過ごし方を聞くのはやめろ!」という話であったと思う。なぜなら、婚活中の人間が余暇にしていることは婚活だからだ。あなたが婚活で相手と会っているその時間こそ、本来相手が趣味や自己研鑽や婚活以外の交際活動に費やしていた時間なのだ。

私も先月婚活を齧るような生活をしてみて実感したが、ノルマ的に初対面の人間と毎週毎週出会い、そのために本来自分がしたいことをする時間的・体力的な余裕を失うことは、精神的な余裕の無さに直結する。「休みの日は何をして過ごしていますか?」と聞かれると発狂しそうになる感覚はわかったような気がした。

「ノルマ的に会う」と言うと「会いたくないならやめれば?」と言う人が湧きかねないと思うので先回りしていっておくが、婚活に関して会う前のマッチングの段階で「あ♡好きかも♡」となる人としか会わないつもりなら、そんなんだから婚活する羽目になっているんじゃないかと思ってしまう。好きな人や会いたい人としか会わなくていいのは出会ったあとの話で、まずは対面してみなければお話にならない、そして会うためにはそれなりに様々なコストが避けられない形でかかるものだ、というのが私の考えだ。

随分話が逸れた。とにかく言いたかったのは、不本意でもやらなければならないこととか、自分の為に自分がすべきだと思う活動が、趣味に費やす時間だとか何かのオタクになり得るだけの余裕を奪っていくこともあるということだ。暇な女子大生ではなくなった私たち会社員がオタクであり続けるためのカギは、やはり日中働いて疲れたあと眠るまでの数時間よりは、休日の過ごし方にあるのではないかと思う。

 

土日の片方は一人でいたいオタク

わたしは自分が日曜日にジムに行くことも、その帰りにスーパーで買い物をして1週間分の料理を作ることも、誰か自分以外の人と約束して会うのと同じように「予定」として数える。もっと単純に言えば、土日のどちらかを誰かとランチしたり飲みに行ったりする予定で埋めたら、できればもう1日は自分の好きなように過ごす時間として確保したいと思う。

そして私は自分自身が何のオタクなのか自分でもわからないままに、これがオタクっぽい感覚であることはわかっている。「オタクだから土日のどちらか一日は一人で家にいたい」、ほらね、とてもしっくりくる感じ。

この自分一人ですると決めていることを予定に数えるということ、または何も決めず気ままに過ごす日を設けようとすることについて、共感できる人とできない人がいるのはわかる。端的にいえば、オタク的か、オタク的でないかの違いだ。

幸運なことに大抵の場合は、これを人に打ち明ける必要はない。断るときは「お誘いありがとう、でも明日は(ジムに行く)予定があるから会えない」、これで済む。ただ食い下がってその予定を聞きたがる相手だと参ってしまう。

そして正直に「明日は昼間ジムに行って夜は料理をしたくて」と伝えたときにあっけらかんと「じゃあ会えるじゃん!」「それは予定ないって言うんだよ」と言われてしまったときの絶望感は計り知れない。超えられない壁、埋められない溝を感じる。

誰かとの約束でなくても、自分がしたいと思うこと、すべきだと考えていることに費やすと決めた時間は予定として扱いたい。そしてそれを妨害されることが自分にとってストレスになるらしい、ということも最近わかってきた。

私がそうした自分だけの予定を曲げてでも会いたいのは基本的に好きな人だけなのだが、それをすると確実に私は生活が疎かになり精神を病んで、何もかも良く転ばない。それがわかっているだけで上手くいくのなら、今までもこれからもこんな風に悩んだりポエムを綴ったりする必要はないのだけれど!

 

そんな話をしていたとき、今でもちゃんと好きなもののオタクをしている友人が悟ったように言った言葉を今回のタイトルとさせてもらった。「オタクは性質だからね。辞めたり卒業したりできるものじゃないから」。オタクは才能でも病気でもなく性質らしい。一生の付き合いだ。

あーあ、私も早く土日のどちらかはできるなら一人で好きなことをして過ごしたいと独身の今は思っているようなオタクな性質を持つ人と結婚して、イオンの近くにマイホームを建てて、休日の買い物はミニバンで大混雑のイオンに行くような典型的な幸せを手に入れたいな〜!

 

……というわけで、私の書くものが好きだと言ってくれる人しか読んでいないようなここでわざわざ言う必要もないのだけれど、過去のツイートの微炎上について少し弁明したい。わたしは140字できっちりと言いたいことを言い切れず2,3ツイートで一連の何かを書いていることが多い気がしていて、恣意的に過去のツイートを切り取って持っていかれると、傍からは自分が随分違う人格を持つように見えるのだなと面白くもなった。しかしネットのそうした切り取り文化と他人から突然剥き出しにされる悪意にはやはり怖さが勝る。それを再確認した週末だった。炎上マーケティングをする人たちのメンタルは凄いな。

あと不思議と多くの人の目には見えていないようだけれど、そもそもあのツイートは「」で括っているし、私の自己紹介も、わざわざ私のアカウントページに飛んできて過去ツイートを遡ったりクソリプを送ってくれた一部の人たちの目には入らなかったらしい。わたしがツイートするどんなポエムもあなたのことではないから安心して眠ってほしい。

 

そんなこともあり、小心者のオタクなのでしばらくブログをツイートで流すのはやめます。最後が特に言い訳がましい長文になりましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさいませ。さやかでした。

反面教師はたぶん要らない

こんばんは。お久しぶりです。さやかです。

ここ1ヶ月ブログの更新をサボって何をしていたかというと、労働や受験勉強やジム通いやアプリ婚活等々です。仕事を含めて春から基本的にずっと楽しかった社会人としての生活でしたが、最近はやや息切れしているというか、辛いも感じることが増えてきていて。先月、体力とか時間とか興味がないと本は読めないよねという話をしましたが、この1ヶ月の私はまさにそれでした。書きたいことをそれなりのまとまりをもつ文章にするのは、読書と同じく気力と時間が必要な作業です。ブログを書く余裕をもてないくらい毎日しんどくて、何かに必死になって生きていたつもりなのですが、日記も一緒にサボっていたので振り返ると何をしていたのかよく覚えていません。あんなに精一杯だったし苦しかったのに。

そんな自棄的な日々のさなか、ひょんなことから深夜のファミレスで3時間の耐久レース(ソロ)に臨むことになった夜がありました。経緯はご想像にお任せします。

歓迎されないだろうと思いつつドアを開けたら優しそうな店員のお爺さんがいて「いらっしゃいませお嬢様、おひとり様でございますか?」、お酒とヒールでやや足元がおぼつかない私を見て「足元お気を付けくださいお嬢様」。一体ここはどこで、私は誰だったかしら。思いがけない優しさに触れたことでささくれていた気分が随分落ち着いたのを覚えています。もう知らない土地で終電後に一人でいるのは嫌だけれど、あのお店にはまた行きたいな。

……はい、というわけで本日も前置きが長くなりましたが、今日はそんな眠れない夜にまわらない頭で考えていたことを整理しつつ書いてみたいと思います。

 

脳のお茶目な特性

あなたの身の回りに、事あるごとに反面教師にしようと思わされるような人はいますか?もしもいるのであれば、可能な限り距離をとって目を逸らした方が良い。最近私はそう考えるようになりました。

にわかには信じがたいかもしれませんが、人の脳は否定形・時制・人称を区別できないのだといいます(今回おそらく何度も曖昧に脳という言葉を使いますが、これは人の無意識の領域や潜在意識などのことを指しています)。

「人称を区別できない」とは、特に目や耳などの器官を通して知覚した情報、例えば紙に書いたり声に出したりした言葉について、自分が言った言葉なのか誰かに言われた言葉なのかということも識別できないということ。

それはつまり、誰かに向けて自分が発した「バカ」という言葉は、自分以外の誰かへ向けた言葉として脳に認識はされないということを意味します。人を侮辱したり嘲笑ったりするような言葉はすべて自分の身をも傷つけているということで、その意味では「バカって言ったらお前がバカ」はわりと深い言葉なのかもしれません。

たとえば人に勘違いブスと言われるのが怖くて自分から「私ブスだから〜」と自虐に走っている女の子がいたとして、先に自分で言ってしまうことで自己防衛しているつもりでも、無意識下で自分が受けるダメージとしては自虐は他人にブスと言われるのと変わらないということになります。自虐は読んで字の如く、自分を虐める行為に他ならないのです。

話を戻して、賢いようで意外とポンコツな脳はなんと時制を区別することもできないらしく、過去のもう終わったことを気に病み続けていると、それを現在起きていることのように認知してしまうのだそうです。

そして3つ目、最後のこれが今日私が書きたいことの軸になるポイントなのだけど、なんと私たちの脳は否定形も認識できないらしいのです。なんてお茶目なの!

 

「絶対に○○しないぞ!」←フラグ

否定形を認識できないという脳のチャーミングな一面と「具体的に想像できることほど実現しやすい」というよく自己啓発本などで見かける俗説を重ね合わせると、恐るべき仮説が浮かび上がります。それは「絶対に○○しない」と考え続けることは「絶対に○○をする」と自分に言い聞かせることに等しいのではないかというもの。

眠さゆえに働いていない頭で考えているので多少ガバついていてもゆるしてほしいのだけれど、「僕は/私は、絶対にこうはならない」と思っていた対象に気づけば自分がどんどん近づいてしまっていた、ということは往々にしてあると思います。歌にもよくありません?「ああはなりたくないと思っていた大人に もうすぐなってしまいそう/いつのまにかなってしまっていた」みたいなポエム。

 

「あんな大人にはならないぞ」←フラグ

人が「自分は大人になった/なってしまった」と思うとき多分それには大きく2つのパターンがあって、

①「あんな大人」にも道理があったことを理解する

視野が広がったり視座を高く持てたりするようになることで、幼かったときには見えなかった事情や状況に揉まれ、それを無視できない程度に成熟した自分を発見すること。

②想像できてしまった大人像を実現する

ちょっとわかりにくい話になるかもしれませんが、具体的に想像できることほど実現しやすいという説を裏付けそうな現象として「世代間伝達」があります。

世代間伝達というのは、たとえば「かつて親に虐待された子どもが大人になって親になったとき、我が子に虐待をしてしまうことは珍しくない」というようなこと。

不適切な養育を受けた子どもの場合は,虐待経験に基づいて形成された愛着人物と自己についての内的ワーキング・モデルによって,親子間の虐待-被虐待という関係性の質が,次世代,つまり自分と自分の子どもとの関係に伝達され,養育関係の連鎖が生まれる結果となることが多い。(Buchanan 1996)。

久保田まり「児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略: 発達臨床心理学的視点から」季刊・社会保障研究 45 (4), 373-384, 2010年。

もちろんよく知っているから必ずそうなるという単純な話ばかりではないけれど、人間はよく知る対象に寄っていく傾向があるのは確かで。

「こうなりたくないな」とつい思ってしまうような人とは多分可能な限り距離を置いたほうが良いのだと思います。

ただそれが上司とか同僚とか、接することを余儀なくされる関係であるときにどうしたらいいのかがわからないので私は困っているんですね。今は反面教師として意識しすぎているような気もするので、もう少し自分に余裕ができれば良い距離感を保てるのかなあと期待を持ちつつ、頑張ってみます。

 

あー!ジム行ったあとブログ書いてたらもう眠い!今日中に更新することを重視した結果、結論が迷子になってしまっていますが、また進捗があれば報告します。おやすみなさい。さやかでした。

今見直したい「常識」の価値

少し前にツイッターをざわつかせた血液クレンジング。

私が今回の騒ぎで最初に「血液クレンジング」の文字を見たときには、血液透析とか血液浄化療法の新しいおしゃれな言い方なのかな、美容目的でカジュアルに使おうとするお金持ちがいるのかしら……くらいにしか思わなかったので特に情報を追わずにスルーしていたのだけど、フォロイーのブログでそれが血液をオゾンで酸化させるものであると知りました。

私は血や傷を見るのが苦手で、残酷だったり血がもろにお目見えしていたりするものは創作物ですら怖いので、芸能人やインフルエンサーが載せる施術中の血液の写真は怖くてほとんど見ていません。でもそんな写真よりもさらに怖いのが、自分の血を一度身体から外に取り出してその「血をオゾンで酸化させる」ことに対して何の疑問も恐怖も抱かない人の存在です。施術中の写真に写る、彼女たちの笑顔です。怖すぎる。だってオゾンですよ。血を、オゾンで、酸化させるんです。そんなトンチキ美容というかトンチキなだけで済むかどうかもわからない妖しい施術をあんな笑顔で受けて、しかも人に勧めるなんてどうかしてる。

 

オゾンの有毒性なんて常識じゃないのか

オゾンが毒性を持った気体であることなんて、義務教育で習いませんでしたっけ?理科とか、或いは理科は苦手でまともに理解できていなかったという人でも、環境学習を不真面目にでも通っていれば、オゾンと聞いてまず思い浮かぶのはオゾン層とフロンガスの関係辺りになるのでは?そして何となく人の身体に入ったらヤバそうな感覚を覚えるのでは?

……と思ったのだけれど、私が小学生の時に環境学習に取り組んだのは総合的な学習の時間で、これは2000年にスタートした制度なのでもしかしたらおじさまおばさま方は義務教育では教えてもらえなかったのかもしれません。或いは、総合的な学習は実施する内容が各学校に委ねられているので、若い人でも学校が環境学習を選択していなければオゾンは理科の時間に酸素の同素体としてさらりと紹介されただけだったのかも。

血液をオゾンで酸化させる血液クレンジングに飛びついてしまう人がいることは、義務教育の敗北というかなんというか…….何年も前から血液クレンジングに目をつけていた(のか目をつけられて広告塔になっていたのかはわかりませんが、とにかく血液クレンジングについてツイートしていたらしい)インフルエンサーの某ちゅうさんは確かkiou卒ですよね。私は比較的学歴厨な人間ですが、残念ながら学歴はきちんと義務教育で常識を身につけてきたことの証明にはならないのだなあと頭を抱えたくなります。

でもたとえ義務教育でオゾンそのものについてきちんと教わらなかったとして、それなら自分の血をそんな得体のしれないものに触れさせる前にオゾンについて多少知りたくはなりませんか?理科の教科書なんて見なくても、辞書を引くかググるかすれば一発で有毒の文字に出会います。

「酸素の同素体。特有のにんにくのような生臭いにおいをもつ微青色の気体。化学式O3。空気中で放電したり紫外線を当てたりすると発生する。酸化力が強く殺菌・消毒・漂白などに利用される。目や呼吸を冒すので有毒

ツイッターやインスタでハッシュタグ血液クレンジングで検索をかけるよりも先にオゾンをググれば、Wikipediaにもきちんと人体に有毒であることが書かれています。昨今は「ググれカス」が流行った時代から一周して、ググってもカスみたいな記事しか出てこなくなったからSNSの投稿検索の方が精度が高い情報に触れられる、という意見をよく見かけるようになってきました。主にツイッターで。

かくいう私も新作化粧品の評判を見たり、好きで行くカフェやパン屋を探したりするときにはよくインスタやツイッターの投稿検索機能を使っています。でもやっぱり、それだけを情報源にしてしまうのは危険すぎるのだな、と今回の件で改めて思いました。

 

「常識」とは

所謂インターネットリテラシーというか、インターネットに限らず、情報リテラシーがないと学力的には問題がない人でも思わぬ落とし穴にハマってしまうのだなあと思います。日常的にはインターネットリテラシーという言葉は、名前や顔などインターネットにむやみに載せると危険なものがわかっていて、それをしないという「危機管理能力」的な文脈で用いられているような気がしていて。もちろん発信者側に立つときのそれもネットリテラシーの一面なのだけれど、見ている受け手にも受け手としてのリテラシーが求められているのですよね。誰もが気軽に発信できるからこそ、発信者側にあまり誠実さを期待しすぎない方が良いのだと思います。

今回の血液クレンジングで言えば、オゾンで血を酸化する方法だとわかった時点で、「血液クレンジングの口コミ」ではなく「オゾンが何であるか」を調べてみるとか。この「オゾンって体内に入れて大丈夫なものなんだっけ」という何となくの感覚がどこからくるかというと、それが結局、常識と言われるものなのではないかなと思うのです。昨今散々壊せとか捕らわれるな等と言われがちな常識こそ、情報リテラシーの基礎なのではないでしょうか

「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」とはアインシュタインの言葉ですが、私は小中学校の義務教育(と場合によっては高等教育も含む)で身につけることが期待される知識や判断力が、最も多くの他人に共通して求めることができる常識なのではないかと思います。

ここで改めて常識の意味を引いてみると、「一般の社会人が共通に持つ、また持つべき普通の知識・意見や判断力」とあります。常識は当然持っていることが期待される知識のことも指しますが、定義にあるように持つべき普通の判断力もまた常識の構成要素です。常識という言葉が英語のCommon senseと対応していることを考えると、常識の持つ判断力という色が見えやすくなるかと思います。

このところ「常識にとらわれない柔軟な発想」というようなフレーズをよく耳にしたり、「常識的に考えて」と言った人が「今は常識も多様なのに」と責められたりと、これまでの常識をとにかく悪いものとしたい人たちがたくさんいるのだなと感じています。確かに変化の多い時代の中で何でもかんでも歴史があるものが頼れるものとも限らないけれど、それでもオゾンに毒性があることは明らかにとらわれるべき常識でしょう。

 

集めた常識を更新しながら生きていく

健康や美容に興味があるなら、老化の大きな要因として糖化・酸化があることを知っていれば、血液にオゾン(O3)どころか酸素(O2)を呼吸で得られる以上に取り入れる必要があるのかどうかも気になって立ち止まれるのではないでしょうか。

ただこのような医療的な知識など、どこかの誰かが日々続けてくれている研究によってもたらされる変化が大きい「常識」があるのも事実です。18歳までに身につけた適切な偏見のコレクションだけで生きていけるほど人生は短くありません。

学ぶべきときに学ぶべきことを学びながら大人になった上で、大人になってからも常に自分の常識をメンテナンスしていくことが必要なのだと思うのです。でもその更新に際して致命的なバグを生んでしまわないためには、やはり教育システムの中で然るべき知識と判断力を身につけ揺るがない基礎を固めておく必要があって、今のところインターネットはそのための義務教育や学校という制度を代替できるような環境ではないと私は思っています。

だから学校に行くのって原則大事なことだと思うし、一方で高学歴でも血液クレンジングに対して違和感を覚えないような(違和感を持っているのに人に勧めているとしたらもっと悪質ですが)某ちゅうさんのような方々を見ていると、学校には行けばいいというものでもないことがわかります。

大事な教育を担う教員の働き方の厳しさやごく一部の教員による過激な教員間のいじめ行為が話題になり、それにより教員を志望する人がさらに減って人手が足りなくなり労働環境が悪化、結果的に優秀な人材は教職を選ばない悪循環が起きていたり、ある教員資格の試験は台風の騒ぎの裏でひっそりと試験中止・全員合格なんていう事態になりかけていたり……ネット上の発信者が常に自分に対して誠実であると期待しない方がいいように、公教育や学校という環境に対しても過度な期待や信頼は禁物なのだと思います。無論、インフルエンサーの投稿と学校で用いられている教科書の内容とは並べて語れるようなものではないのですが。

 

こんな私もいつか子どもを産み、育てるのかもしれません。自分の子どもには、うっかり血液クレンジングに手を出さないくらいの常識を備え、リストランテで「おなかが空いていない」と言われた時に想像力を働かせ機転を利かせられるような人になってほしいと思うけれど、そのためにはどうするのが良いのかなあということをつい考えてしまいました。まずは彼氏をつくるところからかな。

最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。