どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

反面教師はたぶん要らない

こんばんは。お久しぶりです。さやかです。

ここ1ヶ月ブログの更新をサボって何をしていたかというと、労働や受験勉強やジム通いやアプリ婚活等々です。仕事を含めて春から基本的にずっと楽しかった社会人としての生活でしたが、最近はやや息切れしているというか、辛いも感じることが増えてきていて。先月、体力とか時間とか興味がないと本は読めないよねという話をしましたが、この1ヶ月の私はまさにそれでした。書きたいことをそれなりのまとまりをもつ文章にするのは、読書と同じく気力と時間が必要な作業です。ブログを書く余裕をもてないくらい毎日しんどくて、何かに必死になって生きていたつもりなのですが、日記も一緒にサボっていたので振り返ると何をしていたのかよく覚えていません。あんなに精一杯だったし苦しかったのに。

そんな自棄的な日々のさなか、ひょんなことから深夜のファミレスで3時間の耐久レース(ソロ)に臨むことになった夜がありました。経緯はご想像にお任せします。

歓迎されないだろうと思いつつドアを開けたら優しそうな店員のお爺さんがいて「いらっしゃいませお嬢様、おひとり様でございますか?」、お酒とヒールでやや足元がおぼつかない私を見て「足元お気を付けくださいお嬢様」。一体ここはどこで、私は誰だったかしら。思いがけない優しさに触れたことでささくれていた気分が随分落ち着いたのを覚えています。もう知らない土地で終電後に一人でいるのは嫌だけれど、あのお店にはまた行きたいな。

……はい、というわけで本日も前置きが長くなりましたが、今日はそんな眠れない夜にまわらない頭で考えていたことを整理しつつ書いてみたいと思います。

 

脳のお茶目な特性

あなたの身の回りに、事あるごとに反面教師にしようと思わされるような人はいますか?もしもいるのであれば、可能な限り距離をとって目を逸らした方が良い。最近私はそう考えるようになりました。

にわかには信じがたいかもしれませんが、人の脳は否定形・時制・人称を区別できないのだといいます(今回おそらく何度も曖昧に脳という言葉を使いますが、これは人の無意識の領域や潜在意識などのことを指しています)。

「人称を区別できない」とは、特に目や耳などの器官を通して知覚した情報、例えば紙に書いたり声に出したりした言葉について、自分が言った言葉なのか誰かに言われた言葉なのかということも識別できないということ。

それはつまり、誰かに向けて自分が発した「バカ」という言葉は、自分以外の誰かへ向けた言葉として脳に認識はされないということを意味します。人を侮辱したり嘲笑ったりするような言葉はすべて自分の身をも傷つけているということで、その意味では「バカって言ったらお前がバカ」はわりと深い言葉なのかもしれません。

たとえば人に勘違いブスと言われるのが怖くて自分から「私ブスだから〜」と自虐に走っている女の子がいたとして、先に自分で言ってしまうことで自己防衛しているつもりでも、無意識下で自分が受けるダメージとしては自虐は他人にブスと言われるのと変わらないということになります。自虐は読んで字の如く、自分を虐める行為に他ならないのです。

話を戻して、賢いようで意外とポンコツな脳はなんと時制を区別することもできないらしく、過去のもう終わったことを気に病み続けていると、それを現在起きていることのように認知してしまうのだそうです。

そして3つ目、最後のこれが今日私が書きたいことの軸になるポイントなのだけど、なんと私たちの脳は否定形も認識できないらしいのです。なんてお茶目なの!

 

「絶対に○○しないぞ!」←フラグ

否定形を認識できないという脳のチャーミングな一面と「具体的に想像できることほど実現しやすい」というよく自己啓発本などで見かける俗説を重ね合わせると、恐るべき仮説が浮かび上がります。それは「絶対に○○しない」と考え続けることは「絶対に○○をする」と自分に言い聞かせることに等しいのではないかというもの。

眠さゆえに働いていない頭で考えているので多少ガバついていてもゆるしてほしいのだけれど、「僕は/私は、絶対にこうはならない」と思っていた対象に気づけば自分がどんどん近づいてしまっていた、ということは往々にしてあると思います。歌にもよくありません?「ああはなりたくないと思っていた大人に もうすぐなってしまいそう/いつのまにかなってしまっていた」みたいなポエム。

 

「あんな大人にはならないぞ」←フラグ

人が「自分は大人になった/なってしまった」と思うとき多分それには大きく2つのパターンがあって、

①「あんな大人」にも道理があったことを理解する

視野が広がったり視座を高く持てたりするようになることで、幼かったときには見えなかった事情や状況に揉まれ、それを無視できない程度に成熟した自分を発見すること。

②想像できてしまった大人像を実現する

ちょっとわかりにくい話になるかもしれませんが、具体的に想像できることほど実現しやすいという説を裏付けそうな現象として「世代間伝達」があります。

世代間伝達というのは、たとえば「かつて親に虐待された子どもが大人になって親になったとき、我が子に虐待をしてしまうことは珍しくない」というようなこと。

不適切な養育を受けた子どもの場合は,虐待経験に基づいて形成された愛着人物と自己についての内的ワーキング・モデルによって,親子間の虐待-被虐待という関係性の質が,次世代,つまり自分と自分の子どもとの関係に伝達され,養育関係の連鎖が生まれる結果となることが多い。(Buchanan 1996)。

久保田まり「児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略: 発達臨床心理学的視点から」季刊・社会保障研究 45 (4), 373-384, 2010年。

もちろんよく知っているから必ずそうなるという単純な話ばかりではないけれど、人間はよく知る対象に寄っていく傾向があるのは確かで。

「こうなりたくないな」とつい思ってしまうような人とは多分可能な限り距離を置いたほうが良いのだと思います。

ただそれが上司とか同僚とか、接することを余儀なくされる関係であるときにどうしたらいいのかがわからないので私は困っているんですね。今は反面教師として意識しすぎているような気もするので、もう少し自分に余裕ができれば良い距離感を保てるのかなあと期待を持ちつつ、頑張ってみます。

 

あー!ジム行ったあとブログ書いてたらもう眠い!今日中に更新することを重視した結果、結論が迷子になってしまっていますが、また進捗があれば報告します。おやすみなさい。さやかでした。

今見直したい「常識」の価値

少し前にツイッターをざわつかせた血液クレンジング。

私が今回の騒ぎで最初に「血液クレンジング」の文字を見たときには、血液透析とか血液浄化療法の新しいおしゃれな言い方なのかな、美容目的でカジュアルに使おうとするお金持ちがいるのかしら……くらいにしか思わなかったので特に情報を追わずにスルーしていたのだけど、フォロイーのブログでそれが血液をオゾンで酸化させるものであると知りました。

私は血や傷を見るのが苦手で、残酷だったり血がもろにお目見えしていたりするものは創作物ですら怖いので、芸能人やインフルエンサーが載せる施術中の血液の写真は怖くてほとんど見ていません。でもそんな写真よりもさらに怖いのが、自分の血を一度身体から外に取り出してその「血をオゾンで酸化させる」ことに対して何の疑問も恐怖も抱かない人の存在です。施術中の写真に写る、彼女たちの笑顔です。怖すぎる。だってオゾンですよ。血を、オゾンで、酸化させるんです。そんなトンチキ美容というかトンチキなだけで済むかどうかもわからない妖しい施術をあんな笑顔で受けて、しかも人に勧めるなんてどうかしてる。

 

オゾンの有毒性なんて常識じゃないのか

オゾンが毒性を持った気体であることなんて、義務教育で習いませんでしたっけ?理科とか、或いは理科は苦手でまともに理解できていなかったという人でも、環境学習を不真面目にでも通っていれば、オゾンと聞いてまず思い浮かぶのはオゾン層とフロンガスの関係辺りになるのでは?そして何となく人の身体に入ったらヤバそうな感覚を覚えるのでは?

……と思ったのだけれど、私が小学生の時に環境学習に取り組んだのは総合的な学習の時間で、これは2000年にスタートした制度なのでもしかしたらおじさまおばさま方は義務教育では教えてもらえなかったのかもしれません。或いは、総合的な学習は実施する内容が各学校に委ねられているので、若い人でも学校が環境学習を選択していなければオゾンは理科の時間に酸素の同素体としてさらりと紹介されただけだったのかも。

血液をオゾンで酸化させる血液クレンジングに飛びついてしまう人がいることは、義務教育の敗北というかなんというか…….何年も前から血液クレンジングに目をつけていた(のか目をつけられて広告塔になっていたのかはわかりませんが、とにかく血液クレンジングについてツイートしていたらしい)インフルエンサーの某ちゅうさんは確かkiou卒ですよね。私は比較的学歴厨な人間ですが、残念ながら学歴はきちんと義務教育で常識を身につけてきたことの証明にはならないのだなあと頭を抱えたくなります。

でもたとえ義務教育でオゾンそのものについてきちんと教わらなかったとして、それなら自分の血をそんな得体のしれないものに触れさせる前にオゾンについて多少知りたくはなりませんか?理科の教科書なんて見なくても、辞書を引くかググるかすれば一発で有毒の文字に出会います。

「酸素の同素体。特有のにんにくのような生臭いにおいをもつ微青色の気体。化学式O3。空気中で放電したり紫外線を当てたりすると発生する。酸化力が強く殺菌・消毒・漂白などに利用される。目や呼吸を冒すので有毒

ツイッターやインスタでハッシュタグ血液クレンジングで検索をかけるよりも先にオゾンをググれば、Wikipediaにもきちんと人体に有毒であることが書かれています。昨今は「ググれカス」が流行った時代から一周して、ググってもカスみたいな記事しか出てこなくなったからSNSの投稿検索の方が精度が高い情報に触れられる、という意見をよく見かけるようになってきました。主にツイッターで。

かくいう私も新作化粧品の評判を見たり、好きで行くカフェやパン屋を探したりするときにはよくインスタやツイッターの投稿検索機能を使っています。でもやっぱり、それだけを情報源にしてしまうのは危険すぎるのだな、と今回の件で改めて思いました。

 

「常識」とは

所謂インターネットリテラシーというか、インターネットに限らず、情報リテラシーがないと学力的には問題がない人でも思わぬ落とし穴にハマってしまうのだなあと思います。日常的にはインターネットリテラシーという言葉は、名前や顔などインターネットにむやみに載せると危険なものがわかっていて、それをしないという「危機管理能力」的な文脈で用いられているような気がしていて。もちろん発信者側に立つときのそれもネットリテラシーの一面なのだけれど、見ている受け手にも受け手としてのリテラシーが求められているのですよね。誰もが気軽に発信できるからこそ、発信者側にあまり誠実さを期待しすぎない方が良いのだと思います。

今回の血液クレンジングで言えば、オゾンで血を酸化する方法だとわかった時点で、「血液クレンジングの口コミ」ではなく「オゾンが何であるか」を調べてみるとか。この「オゾンって体内に入れて大丈夫なものなんだっけ」という何となくの感覚がどこからくるかというと、それが結局、常識と言われるものなのではないかなと思うのです。昨今散々壊せとか捕らわれるな等と言われがちな常識こそ、情報リテラシーの基礎なのではないでしょうか

「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」とはアインシュタインの言葉ですが、私は小中学校の義務教育(と場合によっては高等教育も含む)で身につけることが期待される知識や判断力が、最も多くの他人に共通して求めることができる常識なのではないかと思います。

ここで改めて常識の意味を引いてみると、「一般の社会人が共通に持つ、また持つべき普通の知識・意見や判断力」とあります。常識は当然持っていることが期待される知識のことも指しますが、定義にあるように持つべき普通の判断力もまた常識の構成要素です。常識という言葉が英語のCommon senseと対応していることを考えると、常識の持つ判断力という色が見えやすくなるかと思います。

このところ「常識にとらわれない柔軟な発想」というようなフレーズをよく耳にしたり、「常識的に考えて」と言った人が「今は常識も多様なのに」と責められたりと、これまでの常識をとにかく悪いものとしたい人たちがたくさんいるのだなと感じています。確かに変化の多い時代の中で何でもかんでも歴史があるものが頼れるものとも限らないけれど、それでもオゾンに毒性があることは明らかにとらわれるべき常識でしょう。

 

集めた常識を更新しながら生きていく

健康や美容に興味があるなら、老化の大きな要因として糖化・酸化があることを知っていれば、血液にオゾン(O3)どころか酸素(O2)を呼吸で得られる以上に取り入れる必要があるのかどうかも気になって立ち止まれるのではないでしょうか。

ただこのような医療的な知識など、どこかの誰かが日々続けてくれている研究によってもたらされる変化が大きい「常識」があるのも事実です。18歳までに身につけた適切な偏見のコレクションだけで生きていけるほど人生は短くありません。

学ぶべきときに学ぶべきことを学びながら大人になった上で、大人になってからも常に自分の常識をメンテナンスしていくことが必要なのだと思うのです。でもその更新に際して致命的なバグを生んでしまわないためには、やはり教育システムの中で然るべき知識と判断力を身につけ揺るがない基礎を固めておく必要があって、今のところインターネットはそのための義務教育や学校という制度を代替できるような環境ではないと私は思っています。

だから学校に行くのって原則大事なことだと思うし、一方で高学歴でも血液クレンジングに対して違和感を覚えないような(違和感を持っているのに人に勧めているとしたらもっと悪質ですが)某ちゅうさんのような方々を見ていると、学校には行けばいいというものでもないことがわかります。

大事な教育を担う教員の働き方の厳しさやごく一部の教員による過激な教員間のいじめ行為が話題になり、それにより教員を志望する人がさらに減って人手が足りなくなり労働環境が悪化、結果的に優秀な人材は教職を選ばない悪循環が起きていたり、ある教員資格の試験は台風の騒ぎの裏でひっそりと試験中止・全員合格なんていう事態になりかけていたり……ネット上の発信者が常に自分に対して誠実であると期待しない方がいいように、公教育や学校という環境に対しても過度な期待や信頼は禁物なのだと思います。無論、インフルエンサーの投稿と学校で用いられている教科書の内容とは並べて語れるようなものではないのですが。

 

こんな私もいつか子どもを産み、育てるのかもしれません。自分の子どもには、うっかり血液クレンジングに手を出さないくらいの常識を備え、リストランテで「おなかが空いていない」と言われた時に想像力を働かせ機転を利かせられるような人になってほしいと思うけれど、そのためにはどうするのが良いのかなあということをつい考えてしまいました。まずは彼氏をつくるところからかな。

最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

興味と体力と時間が無ければ本なんて読めない

こんばんは。さやかです。台風19号に荒らされた3連休の前半でしたが、このブログを読んでくださっている方々はご無事でしょうか。おかげさまで私は身も家族も住処も無事だったので、旅行をキャンセルして予定が真っさらになった週末をのんびりと過ごしております。

久しぶりの更新になってしまった今回は、私が愛読しているブログ「俺の遺言を聴いてほしい」の読みたい本を買って読もうという記事に触発されて、本に関することを書いてみようと思います。いつものように一冊をとりあげて長々と読後感を書くのではなく、読書に関する私の雑感をまとめてみようかなと。ゆるっとふわっと、文字数も抑えめにするつもりです。よろしくお願い致します。

 

優しく諭されるような語り口の本しか読めない夏だった2019

さて文字数を減らそうということで、寄り道しがちな前置きを省いて早速本題に入りますが、私は以前の記事にも書いたように、読むのにそれなりの胆力がいる本が好きです。

情報量が多くて,且つ根拠がちゃんと外部に担保されている文章が好きです。論文を読むのはすごく好きだし,本で言ったら学術書が好き。

なぜあの人は過剰に改行するのか。私はなぜそれを嫌うのか - どんな言葉で君を愛せば、

でも最初に触れた「俺の遺言」の記事でヒデヨシさんも書いていたように、私が普段好んで読み漁るアカデミック寄りの本は、読むのに体力と時間が必要です。

そして名著の名著たる所以なのか、名著は分厚い本が多い。それゆえに読み始めるのに気持ち的な準備が必要で、読み終えるためには時間的な余裕が必要だ。

「後で読む本」は結局読まない。積ん読の予防と対策を考える - 俺の遺言を聴いてほしい

私は本が好きだと公言していることもあって、現実で知り合う人やツイッターのフォロワーから「自分は読書が苦手」とか「特に難しい本は読めたものではない」とか言われることが少なくないのだけれど、きっとその要因は様々だと思うのです。本が読めないときに無いのは気力かもしれないし集中力かもしれないし、時間的余裕かもしれないし、はたまた興味かもしれない。

いくら読書が好きでも、いつもと同じ本に向き合う気力や体力、時間がないときというのは確かにあります。私のような、文字を目で追うこと自体が好きなのかもしれないと思う活字中毒的人間でも、本を手に取る気になれない日はありますし、それがしばらく続くことも頻繁に起こります。

べつに本を読まなくても死なないし、いまどき求める情報を得る手段なんていくらでもあるのだから、本を読む気がないのなら無理をする必要なんて無くて。でも本にしか書かれていないこと、書籍くらいの厚みを通して語られないと体系的に理解ができないことというのは少なくないと私は思っているから、未だに読書なんていうアナログな趣味に好んで多くの時間を割いているに過ぎません。

 

「とにかく原典にあたれ」論の厳しさ

さてここで話をやや横道に逸らしてしまうけれど、「何かを学びたいと思ったとき、原典にあたる以上に良い学習法は無い」という論は根強いです。それが最も良いということに関して、基本的に私も異論はありません。でもたとえば哲学に明るくない人がデカルトの思想に興味を持ったとき、いきなり彼の著作『方法序説』や『情念論』にあたるのはハードルが高く、それこそ日中働いて脳も疲れている社会人が家に帰ってから読むのはなかなか骨が折れるはずです。そこでせっかく興味を持った人に「自分には哲学は難しすぎた」と思わせてしまうのなら、「とにかく原典にあたれ(そうでなければダメだ)」という原典至上主義論は害ですらあると思います。自由に使える時間も体力も限られている大人が新しいことを始めるためには、ハードルは低く低く設定しておく方が良い。

ちなみに、もしもこのブログを読んでいる方の中に「偶然最近デカルトに興味を持ったところだった!」という方がいらした場合、おすすめしたいのがこちらの本。優しく語りかけられるような文体で、デカルト自身もかなり人間らしい存在として描かれている少々変わった入門書になっています。

デカルトの憂鬱 マイナスの感情を確実に乗り越える方法 (扶桑社BOOKS)

(津崎良典『デカルトの憂鬱 ー マイナスの感情を確実に乗り越える方法』扶桑社,2017年。)

 

さらに余談ですが、原典至上主義といえば先週ツイッターで燃えていたのがこちらのツイート。もしかしたらザワついていたのは文系学部出身者が多い私の周りだけで、今ここで初めて見るという方が多いのかもしれません。

このツイートへの言及を見ていると「漢文を学ぶ必要がない」と読み違えている方が多い気がしたのですが、これは明らかに漢文を日本語として読み直す訓読というステップを挟む、書き下して理解するという漢文の学習方法についての批判であって、漢文自体について彼は「中国語で読める漢文を教えてほしかった」とはっきり述べています。

もちろん英語で書かれたものは英語のまま、漢文で書かれたものは漢文のまま読めるに越したことはないのです。書き下すとき、書き下したものを現代語訳されるとき、現代語訳に解説が加わるときに少しずつ原典は濁るという考え方そのものは疑いようがないし、他者の意向によって濁る前の清流に触れられるならその方が良い。でも中国語を一から学んで漢文に臨むよりも、日本語に直す方法を知って、母語である日本語で理解する方が私たち日本人が漢文を理解しようとする上で効率が良いのです。漢文が中国語を学べた者にしか理解できないものであったとしたら、漢文の古典を日本人として基礎的な素養とすることはおよそ叶わなかったと思います。

 

随分回り道になりましたが、今回書きたかったのは2つ。難しいものを難しいまま、複雑なものを複雑なまま理解しようとする姿勢を私はとても尊いと思うけれど、それに縛られる必要もないと考えていること。それから、読書は無理にするものでもないし、名著と名高い古典や誰かの推薦がついている本だからといってそれが自分が読むべき本というわけでもなく、そのときの自分に合った、心惹かれる本を読むのが良いと思っていること。

たとえば漠然と経済に興味を持ったばかりのあまり読書家でない友人におすすめの本を尋ねられたとき、いきなりカール・マルクスの『資本論』などを読んで当然という顔で投げつけて心を折ってしまうのは勿体ない話で、入口として『父が娘に語る経済の話』あたりをスッと差し出してその対象に対する興味を一層強くしてもらって沼に導く、私はそういう優しく残酷なオタクでありたいなと思っているという話でした。

父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

 (ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社,2019年。)

 

改めて言うまでもないとは思うけれど、義務感や人の勧めに追われず、ぜひ読みたいときに読みたい本を、読みたいときに読みたいブログを読んでください。その中に私の紹介した本やこのブログがあるとしたら、それはこの上なく幸せなことですが。

今回も結局長文になってしまいました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

デカルトの憂鬱  マイナスの感情を確実に乗り越える方法

デカルトの憂鬱  マイナスの感情を確実に乗り越える方法

 
父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

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  • 作者: ヤニス・バルファキス,関美和
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