どんな言葉で君を愛せば、

22歳新卒、OL人生のスタート

反面教師はたぶん要らない

こんばんは。お久しぶりです。さやかです。

ここ1ヶ月ブログの更新をサボって何をしていたかというと、労働や受験勉強やジム通いやアプリ婚活等々です。仕事を含めて春から基本的にずっと楽しかった社会人としての生活でしたが、最近はやや息切れしているというか、辛いも感じることが増えてきていて。先月、体力とか時間とか興味がないと本は読めないよねという話をしましたが、この1ヶ月の私はまさにそれでした。書きたいことをそれなりのまとまりをもつ文章にするのは、読書と同じく気力と時間が必要な作業です。ブログを書く余裕をもてないくらい毎日しんどくて、何かに必死になって生きていたつもりなのですが、日記も一緒にサボっていたので振り返ると何をしていたのかよく覚えていません。あんなに精一杯だったし苦しかったのに。

そんな自棄的な日々のさなか、ひょんなことから深夜のファミレスで3時間の耐久レース(ソロ)に臨むことになった夜がありました。経緯はご想像にお任せします。

歓迎されないだろうと思いつつドアを開けたら優しそうな店員のお爺さんがいて「いらっしゃいませお嬢様、おひとり様でございますか?」、お酒とヒールでやや足元がおぼつかない私を見て「足元お気を付けくださいお嬢様」。一体ここはどこで、私は誰だったかしら。思いがけない優しさに触れたことでささくれていた気分が随分落ち着いたのを覚えています。もう知らない土地で終電後に一人でいるのは嫌だけれど、あのお店にはまた行きたいな。

……はい、というわけで本日も前置きが長くなりましたが、今日はそんな眠れない夜にまわらない頭で考えていたことを整理しつつ書いてみたいと思います。

 

脳のお茶目な特性

あなたの身の回りに、事あるごとに反面教師にしようと思わされるような人はいますか?もしもいるのであれば、可能な限り距離をとって目を逸らした方が良い。最近私はそう考えるようになりました。

にわかには信じがたいかもしれませんが、人の脳は否定形・時制・人称を区別できないのだといいます(今回おそらく何度も曖昧に脳という言葉を使いますが、これは人の無意識の領域や潜在意識などのことを指しています)。

「人称を区別できない」とは、特に目や耳などの器官を通して知覚した情報、例えば紙に書いたり声に出したりした言葉について、自分が言った言葉なのか誰かに言われた言葉なのかということも識別できないということ。

それはつまり、誰かに向けて自分が発した「バカ」という言葉は、自分以外の誰かへ向けた言葉として脳に認識はされないということを意味します。人を侮辱したり嘲笑ったりするような言葉はすべて自分の身をも傷つけているということで、その意味では「バカって言ったらお前がバカ」はわりと深い言葉なのかもしれません。

たとえば人に勘違いブスと言われるのが怖くて自分から「私ブスだから〜」と自虐に走っている女の子がいたとして、先に自分で言ってしまうことで自己防衛しているつもりでも、無意識下で自分が受けるダメージとしては自虐は他人にブスと言われるのと変わらないということになります。自虐は読んで字の如く、自分を虐める行為に他ならないのです。

話を戻して、賢いようで意外とポンコツな脳はなんと時制を区別することもできないらしく、過去のもう終わったことを気に病み続けていると、それを現在起きていることのように認知してしまうのだそうです。

そして3つ目、最後のこれが今日私が書きたいことの軸になるポイントなのだけど、なんと私たちの脳は否定形も認識できないらしいのです。なんてお茶目なの!

 

「絶対に○○しないぞ!」←フラグ

否定形を認識できないという脳のチャーミングな一面と「具体的に想像できることほど実現しやすい」というよく自己啓発本などで見かける俗説を重ね合わせると、恐るべき仮説が浮かび上がります。それは「絶対に○○しない」と考え続けることは「絶対に○○をする」と自分に言い聞かせることに等しいのではないかというもの。

眠さゆえに働いていない頭で考えているので多少ガバついていてもゆるしてほしいのだけれど、「僕は/私は、絶対にこうはならない」と思っていた対象に気づけば自分がどんどん近づいてしまっていた、ということは往々にしてあると思います。歌にもよくありません?「ああはなりたくないと思っていた大人に もうすぐなってしまいそう/いつのまにかなってしまっていた」みたいなポエム。

 

「あんな大人にはならないぞ」←フラグ

人が「自分は大人になった/なってしまった」と思うとき多分それには大きく2つのパターンがあって、

①「あんな大人」にも道理があったことを理解する

視野が広がったり視座を高く持てたりするようになることで、幼かったときには見えなかった事情や状況に揉まれ、それを無視できない程度に成熟した自分を発見すること。

②想像できてしまった大人像を実現する

ちょっとわかりにくい話になるかもしれませんが、具体的に想像できることほど実現しやすいという説を裏付けそうな現象として「世代間伝達」があります。

世代間伝達というのは、たとえば「かつて親に虐待された子どもが大人になって親になったとき、我が子に虐待をしてしまうことは珍しくない」というようなこと。

不適切な養育を受けた子どもの場合は,虐待経験に基づいて形成された愛着人物と自己についての内的ワーキング・モデルによって,親子間の虐待-被虐待という関係性の質が,次世代,つまり自分と自分の子どもとの関係に伝達され,養育関係の連鎖が生まれる結果となることが多い。(Buchanan 1996)。

久保田まり「児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略: 発達臨床心理学的視点から」季刊・社会保障研究 45 (4), 373-384, 2010年。

もちろんよく知っているから必ずそうなるという単純な話ばかりではないけれど、人間はよく知る対象に寄っていく傾向があるのは確かで。

「こうなりたくないな」とつい思ってしまうような人とは多分可能な限り距離を置いたほうが良いのだと思います。

ただそれが上司とか同僚とか、接することを余儀なくされる関係であるときにどうしたらいいのかがわからないので私は困っているんですね。今は反面教師として意識しすぎているような気もするので、もう少し自分に余裕ができれば良い距離感を保てるのかなあと期待を持ちつつ、頑張ってみます。

 

あー!ジム行ったあとブログ書いてたらもう眠い!今日中に更新することを重視した結果、結論が迷子になってしまっていますが、また進捗があれば報告します。おやすみなさい。さやかでした。