どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

興味と体力と時間が無ければ本なんて読めない

こんばんは。さやかです。台風19号に荒らされた3連休の前半でしたが、このブログを読んでくださっている方々はご無事でしょうか。おかげさまで私は身も家族も住処も無事だったので、旅行をキャンセルして予定が真っさらになった週末をのんびりと過ごしております。

久しぶりの更新になってしまった今回は、私が愛読しているブログ「俺の遺言を聴いてほしい」の読みたい本を買って読もうという記事に触発されて、本に関することを書いてみようと思います。いつものように一冊をとりあげて長々と読後感を書くのではなく、読書に関する私の雑感をまとめてみようかなと。ゆるっとふわっと、文字数も抑えめにするつもりです。よろしくお願い致します。

 

優しく諭されるような語り口の本しか読めない夏だった2019

さて文字数を減らそうということで、寄り道しがちな前置きを省いて早速本題に入りますが、私は以前の記事にも書いたように、読むのにそれなりの胆力がいる本が好きです。

情報量が多くて,且つ根拠がちゃんと外部に担保されている文章が好きです。論文を読むのはすごく好きだし,本で言ったら学術書が好き。

なぜあの人は過剰に改行するのか。私はなぜそれを嫌うのか - どんな言葉で君を愛せば、

でも最初に触れた「俺の遺言」の記事でヒデヨシさんも書いていたように、私が普段好んで読み漁るアカデミック寄りの本は、読むのに体力と時間が必要です。

そして名著の名著たる所以なのか、名著は分厚い本が多い。それゆえに読み始めるのに気持ち的な準備が必要で、読み終えるためには時間的な余裕が必要だ。

「後で読む本」は結局読まない。積ん読の予防と対策を考える - 俺の遺言を聴いてほしい

私は本が好きだと公言していることもあって、現実で知り合う人やツイッターのフォロワーから「自分は読書が苦手」とか「特に難しい本は読めたものではない」とか言われることが少なくないのだけれど、きっとその要因は様々だと思うのです。本が読めないときに無いのは気力かもしれないし集中力かもしれないし、時間的余裕かもしれないし、はたまた興味かもしれない。

いくら読書が好きでも、いつもと同じ本に向き合う気力や体力、時間がないときというのは確かにあります。私のような、文字を目で追うこと自体が好きなのかもしれないと思う活字中毒的人間でも、本を手に取る気になれない日はありますし、それがしばらく続くことも頻繁に起こります。

べつに本を読まなくても死なないし、いまどき求める情報を得る手段なんていくらでもあるのだから、本を読む気がないのなら無理をする必要なんて無くて。でも本にしか書かれていないこと、書籍くらいの厚みを通して語られないと体系的に理解ができないことというのは少なくないと私は思っているから、未だに読書なんていうアナログな趣味に好んで多くの時間を割いているに過ぎません。

 

「とにかく原典にあたれ」論の厳しさ

さてここで話をやや横道に逸らしてしまうけれど、「何かを学びたいと思ったとき、原典にあたる以上に良い学習法は無い」という論は根強いです。それが最も良いということに関して、基本的に私も異論はありません。でもたとえば哲学に明るくない人がデカルトの思想に興味を持ったとき、いきなり彼の著作『方法序説』や『情念論』にあたるのはハードルが高く、それこそ日中働いて脳も疲れている社会人が家に帰ってから読むのはなかなか骨が折れるはずです。そこでせっかく興味を持った人に「自分には哲学は難しすぎた」と思わせてしまうのなら、「とにかく原典にあたれ(そうでなければダメだ)」という原典至上主義論は害ですらあると思います。自由に使える時間も体力も限られている大人が新しいことを始めるためには、ハードルは低く低く設定しておく方が良い。

ちなみに、もしもこのブログを読んでいる方の中に「偶然最近デカルトに興味を持ったところだった!」という方がいらした場合、おすすめしたいのがこちらの本。優しく語りかけられるような文体で、デカルト自身もかなり人間らしい存在として描かれている少々変わった入門書になっています。

デカルトの憂鬱 マイナスの感情を確実に乗り越える方法 (扶桑社BOOKS)

(津崎良典『デカルトの憂鬱 ー マイナスの感情を確実に乗り越える方法』扶桑社,2017年。)

 

さらに余談ですが、原典至上主義といえば先週ツイッターで燃えていたのがこちらのツイート。もしかしたらザワついていたのは文系学部出身者が多い私の周りだけで、今ここで初めて見るという方が多いのかもしれません。

このツイートへの言及を見ていると「漢文を学ぶ必要がない」と読み違えている方が多い気がしたのですが、これは明らかに漢文を日本語として読み直す訓読というステップを挟む、書き下して理解するという漢文の学習方法についての批判であって、漢文自体について彼は「中国語で読める漢文を教えてほしかった」とはっきり述べています。

もちろん英語で書かれたものは英語のまま、漢文で書かれたものは漢文のまま読めるに越したことはないのです。書き下すとき、書き下したものを現代語訳されるとき、現代語訳に解説が加わるときに少しずつ原典は濁るという考え方そのものは疑いようがないし、他者の意向によって濁る前の清流に触れられるならその方が良い。でも中国語を一から学んで漢文に臨むよりも、日本語に直す方法を知って、母語である日本語で理解する方が私たち日本人が漢文を理解しようとする上で効率が良いのです。漢文が中国語を学べた者にしか理解できないものであったとしたら、漢文の古典を日本人として基礎的な素養とすることはおよそ叶わなかったと思います。

 

随分回り道になりましたが、今回書きたかったのは2つ。難しいものを難しいまま、複雑なものを複雑なまま理解しようとする姿勢を私はとても尊いと思うけれど、それに縛られる必要もないと考えていること。それから、読書は無理にするものでもないし、名著と名高い古典や誰かの推薦がついている本だからといってそれが自分が読むべき本というわけでもなく、そのときの自分に合った、心惹かれる本を読むのが良いと思っていること。

たとえば漠然と経済に興味を持ったばかりのあまり読書家でない友人におすすめの本を尋ねられたとき、いきなりカール・マルクスの『資本論』などを読んで当然という顔で投げつけて心を折ってしまうのは勿体ない話で、入口として『父が娘に語る経済の話』あたりをスッと差し出してその対象に対する興味を一層強くしてもらって沼に導く、私はそういう優しく残酷なオタクでありたいなと思っているという話でした。

父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

 (ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社,2019年。)

 

改めて言うまでもないとは思うけれど、義務感や人の勧めに追われず、ぜひ読みたいときに読みたい本を、読みたいときに読みたいブログを読んでください。その中に私の紹介した本やこのブログがあるとしたら、それはこの上なく幸せなことですが。

今回も結局長文になってしまいました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

デカルトの憂鬱  マイナスの感情を確実に乗り越える方法

デカルトの憂鬱  マイナスの感情を確実に乗り越える方法

 
父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

  • 作者: ヤニス・バルファキス,関美和
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/03/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

高学歴男女限定マッチングサービスはおすすめできない

少し前にツイッターで、高学歴男女限定マッチングサービス「ブライトマッチ」なるものが話題になった。

男性はほぼ旧帝大と早慶に絞られているのに女性の範囲はもう正直何でもありという印象を受ける。男女格差がすごいし、確かに大学院についてもノータッチなのが謎だ。一応登録には出身大学の判断がつくFacebookのアカウントが必要で、学歴に関してのみ言えば、いくらでも詐称ができる某ィンダーなどよりは信頼性が高いかもしれない。

 

さて、ここからは私の個人的な事情と感想のみを綴っていくことになる。結論から述べると、自分の出身大学が登録対象になっているとしてもブライトマッチへの登録は原則おすすめしない。原則、と付けた理由も含めて書いていくつもりだけれど、どんな体裁をとったところで内容としては「残念な時間とお金の使い方をしてしまったという後悔を何とかブログのネタにすることで昇華した気になりたい」という動機で吐き出す愚痴である。また、内容の都合上どうしても私が上から目線に何かを判断しているようにとれる表現も多いと思われる。不快感を覚えたらすぐに読むのをやめてほしい。

 

ブライトマッチは受け身の人間向き

しつこいようだが、私は自分が常に男性を選ぶ立場であるなどとは思っていない。今回の登場人物は全員恋人がいない男女であることが前提になっているわけで、マッチングサイトなどいわば現時点で決まった相手がいない余り物同士の出会いの場である。言わずもがな私も。

前提を確認したところで、まずブライトマッチの特徴と思われる点から述べていく。

1.登録時に学歴審査がある

2.マッチングは運営任せ

3.プロフィール写真という概念が無い

4.「まずはランチ」という運営からの指示

 

順番に説明していきたい。先述の通り、登録時にはFacebookアカウントを使って学歴を確認される。本人確認やクレジットカードの登録、プロフィールの入力が済むと、あとは運営側が「ご紹介」してくれるのを待つだけだ。個人差はあるかもしれないが、私の場合は登録した日かその翌日には最初の紹介を受けたように記憶している。

紹介を受け、相手の簡略なプロフィールを確認してデート希望エリア(恵比寿/代官山/中目黒、銀座/丸の内、六本木/麻布、青山/表参道、その他)を選択すると、メッセージのやりとりが許可される。運営からの「まずは気軽なランチデートを推奨しております」という文言が表示されることもあって、挨拶もそこそこに具体的な日時の調整に入ることが多いのではないかと思う。

さて、もうお気づきかと思うがブライトマッチは自分で良い方に働きかけられる範囲がとても小さい。例えどんなに自分の好みの男性が会員として存在していたとしても、紹介されなければ巡り合うことはない。ただし紹介さえされてしまえば、顔写真すら見たことが無い人とも自然にまずは会ってみようという流れになるように設計されている。この誘う段階で気を揉まなくて良いということがどれほどのメリットであるかは個人差がある部分だと思うが、大まかに、女性をデートに連れ出すことに苦手意識がある男性にとっては強烈なメリットになり得るだろう。誘い方がわからなかったり、顔写真を載せられるほどルックスに自信がなかったり、他の主体的に行動する必要があるマッチングサービスではなかなかデートまでたどり着けない男性には優しい設計になっていると思う。マッチング後の食事が前提になっているサービスには某イナーというものもあるけれど、私は使ったことがないのでコメントを控えておく。

 

ブライトマッチを人に薦めない理由3つ

人と書いたが、男女ともにあてはまる部分と、特に私と同じ女性にしか関わらない部分があると思う。あえて書き分けることはしないので、自分の立場から取捨選択をしつつ読んでほしい。

3つの内1つはもう上に書いてしまった。このサービスは、途轍もなく受け身の人間向きだ。私は1か月ほど前に失恋し、他の出会いを求め、同時に好きだった人以外に対しては積極的に会おうと思えないことを自覚した。そのため半ば強制的に出会えるこのサイトに登録してみたのだが、わかったことがひとつ。私は、受け身の男性があまり好きではない。ユーザーが受動的であるというか、在らざるを得ないこのサービスがぴたりとハマってしまう男性を、おそらく私は好きにならない。

これは好みの話なのであまり言っても仕方ないのだけれど、普段顔見知りの男性に普通に誘われたり、デートをするということに限って言えば他のアプリでも特に困っていなかったりする女性があえて戦場にすべきサービスではないように思う。

 

すすめられない理由2つ目、顔が見えない。私はツイッターを通じて人と会う機会があるので、顔が見えない人と会うこと自体をあり得ないこととする感覚があるわけではない。それでもツイッターならその人が何について語り、何については語らず、またどういう言葉を使う人なのかを見ていると少なからずどんな人なのかはわかってくる。ツイッターでヤバすぎる人と出会ったことはまだない。一方ブライトマッチでは紹介された相手の顔は会ってみるまでわからない上に、アプリ版がなく開くのが面倒なので、デートの日時と待ち合わせ場所を決める以上の言葉のやり取りに積極的になれない。私は指定された待ち合わせ場所についた時、そこにいた20代後半の男性の頭が禿げ上がり、胸元のポロシャツのボタンが2つ外れ、これからハイキングにでも出かけるのかと思うようなリュックと運動靴を身に着けているのを見て帰りたくなった。ドタキャンなどできる質ではないので意を決して声をかけたけれど、思えばあの瞬間にブライトマッチを退会しようと思ったような気がする。

 

3つ目。マッチングの解除ができない。普通のマッチングアプリというか、何が一般的かはよくわからないのだが、広く知られている中で私も使ったことがある某アーズや某ィンダーはマッチングの解除ができたはずだ。解除とはつまり、最初にプロフィールを見た時点ではいいなと思った相手がメッセージのやり取りや実際に対面する中でヤバ男あるいはヤバ女だとわかったときにその相手との繋がりを断つ仕組みだ。マッチングが解除された相手はもう自分にメッセージを送れなくなったり、プロフィールを見られなくなったりする。ブライトマッチにはそれがないのだ。

私は前述の一度会った男性から連投されるメッセージに辟易して解除について運営に問い合わせたところ、「ご紹介済のお相手を解除することは出来ません。やりとりの中で迷惑行為などを受けた場合は、ユーザー通報メールにてご報告をお願いいたします。よろしくお願いします。」というお返事をいただいた。おそらく「月○人以上の紹介」という金額設定の都合上、解除を許してしまうとその数字が担保できなくなって困るということなのだろう。

個人的には解除ができなかったのでとても困った。清潔感や常識がない人と一緒に食事をしなければならなかったこと、それ自体が私としては猛烈に恥ずかしかったのだけれど、それを以て迷惑行為とすることもできない。本人に「もう連絡しないでください」なんて言うのは嫌だし、悪い人ではないと思うので通報するのも違う。一般的にマッチングサービスを使うことの良さは、合わない相手と巡り合ってしまったときにそれを気軽になかったことにできる点にあると思っていたのだけれど、ブライトマッチでそれができないことは盲点だった。

 

私が高学歴男女限定マッチングサイト「ブライトマッチ」への登録を誰かにすすめるとするなら、審査基準の学歴を持っていることは前提として、その中でも「自力でデートに漕ぎ着ける自信がない男性」に限る。ルックスや経験の乏しさ等を要因として自分から女性を誘うことに強烈な苦手意識があったり、様々な理由で顔を出すことが当然になっている他のマッチングサイトでは戦えなかったりする男性にハマるサービスなのだと思う。

私は4人の男性としか会っていないのでこれを一般化するのはとても危険だけれど、このサービスの作り方としてどうしても「ルックスに自信がない」「異性経験に乏しい」「対人コミュニケーションが得意でない」というような特徴を持った男女が増えるのは自然だと思われる。それを理解した上で、他者によって結び付けられた、学歴以外の顔や性格などがよくわからない異性と会う意味があると感じるのであれば登録してみるのが良いと思う。

 

私の場合、学生時代の友人は皆ブライトマッチの基準で言えば高学歴男性なわけだが、ブライトマッチで会ったあるコミュニケーション激ヤバオタクのような人はいなかった。彼は他のマッチングアプリで写真などを見ていれば絶対に会わない層(4人が4人ともそうだったわけではない)だったのだけれど、実際はこの人と同じ土俵に立っているのだという現実に突き当たって結構凹んだ。

色々と書いてきたものの、魅力的な人ではないと外見だけで判断できた時点で仮病なり何なり使って帰らなかった私が悪いし、コミュ障オタクの話を頑張って引き出して楽しませて勝手に疲れた私が悪いし、こんなに思うところがあるくせにそれを本人に改善点としてフィードバックもせずこんなところで愚痴を書く私が悪いし、そもそも彼氏がいないからマッチングサイトなんか使おうと思った私が悪いし、もう全部私が悪いです 自己責任でしかない 早く死にたい人生イヤイヤ期

映画「アイネクライネナハトムジーク」を見ました

こんばんは。さやかです。今夜は金曜日に見てきた映画の話をしようと思います。まず最初に断っておきますが、本記事はネタバレをするつもりで書くわけではないにせよ、何がネタバレになってしまうかは人によると思うので、映画「アイネクライネナハトムジーク」を見ていない方で、これから見る可能性のある方はブラウザバック推奨です。よろしくお願い致します。

f:id:oyasumitte:20190929173928j:image

思い立ったが吉日

さて、映画を映画館で見るのは5月に『愛がなんだ』を見て以来でした。それから今日に至るまで見たかった映画は数多くあり、中でも推しである深川麻衣ちゃんの出演作『空母いぶき』と、人に薦められて見ようと思っていた『アルキメデスの大戦』との2つは見る日まで決めていたのに結局行けずに上映期間が終わってしまった為、印象に残っています。どちらもAmazonで買えるようになったらすぐに見るつもりです……悔しい。

私の中では映画に対する興味には結構明確にレイヤーがあって、予告とか告知を見て気になったあと、その興味は自動的に来年にはAmazonで見られるようになるしたぶん地上波でも公開されるだろうという篩にかけられ、それでも今映画館でお金を払って見たいと思ったときに初めて上映している劇場や時間を調べます。その篩というかハードルを飛び越える要因はいくつかありますが、好きな俳優が舞台挨拶に選抜されるような役で出演しているとか、自分がある種の尊敬を感じている人が絶賛していたり私に薦めてくれたりしたという場合が多いような気がします。

それにしても映画って、しばらく上映してるわけだしいつでも見に行けるよねと思っている間に勝手に上映期間が終了していることが多すぎませんか?有効期限1か月だしのんびり考えよう~と思っていたバカみたいにお得なクーポンと同じくらい勝手に期限切れになっているような気がするのですが。いい加減にしろ。これはもちろん、映画を見たりポイントを使ったりするのを先送りにするのはいい加減やめにしろという自戒です。

私は人のオススメを受けて「絶対見ます!」とか「試してみます!」とか言っておきながら実行に移さない人があまり好きではなくて、「さやかちゃん肌綺麗!使ってる化粧品教えて!」と尋ねてくるから愛用品を答えたら「え……高級品使ってる自慢ですか?」と返して来るようなイカれた女と変わらないと思っています。いや、それはさすがに言い過ぎたけれど、人に質問したりツイッターで情報収集アカウントなるものを作ったりしておきながらそこで得た情報をもとに行動を起こせない人って、手段が目的になってしまっているというか、情報に触れていることに自己満足して終わってしまう人なんだなと思ってしまうというか。

無論これは、私が薦めた本を読んでみないヤツは馬鹿だと言っているわけではありません。矛盾するように聞こえるかもしれませんが、私がこのブログやツイッターで自分が良いと思ったものを紹介して、それを読んだ人が実際にその本とか映画を見るかどうかということはあまり気にならないのです。それは「この間書いてたあれ読んだよ!」とか「同じ分野でもう少し専門的な内容の本があれば教えて」と言われたらそれ以上に嬉しいことはないけれど、この文章は特定の誰かのために時間を作って考えているというわけではないので、読んでくれた人のアンテナに触れるかどうかはわからないし。

長々と書いてきましたがつまり、私は情報を得て感化されたときにそれを実行に移す機動力とか体力がない他人が嫌いというよりは、自分がそういう状態で在りたくはないなと思っているというだけのことです。『空母いぶき』と『アルキメデスの大戦』は私にとって映画館で見るという行動に移すべきだと思った作品だったので、それができなかったことを反省し、見ようと思った時に即刻チケットを予約したのが『アイネクライネナハトムジーク』だったのでした。

Eine kleine Nachtmusik

アイネ(或る)クライネ(小さな)ナハト(夜の)ムジーク(曲)。ドイツ語です。英語にするとa little night musicとかになるのかしら。映画の原作は伊坂幸太郎の同名小説ですが、文脈なしにアイネクライネナハトムジークと言われれば多くの人が思い浮かべるのはモーツァルトのセレナード第13番ト長調だと思います。ちなみに米津玄師の名曲アイネクライネは日本語にすると「或る小さな」なので、「どんな言葉で君を愛せば、」と読点で終わっているこのブログのタイトルと同じようにその後に続く言葉を読み手に委ねるつくりになっています。

もう2000字近く前置きを話してきてしまったのでそろそろ本題に入りますが、私が映画『アイネクライネナハトムジーク』を見た理由は、最推し俳優・三浦春馬くん主演の映画が「映画は見たいと思った時に見ないとダメだ」と強く思っていたタイミングで公開されたからであり、感想を簡潔に述べるなら「人生におけるタイミングの重要性を再確認した」、これに尽きます。

タイミングの重要性というか、自分の人生で何が起きるか、どんな結果を得られるかということにおける時機が占める割合の重さに希望と絶望を感じました。『アイネクライネナハトムジーク』は『愛がなんだ』と同じ今泉力哉監督の作品ですが、私は監督のファンというわけではなく、どちらにも自分の好きな俳優がキャスティングされていたというだけの偶然です。人物の描写が薄味であまり没入感が無いのは今泉監督作品の仕様なのか『アイネクライネナハトムジーク』の原作が短編集だからなのかは2作品しか見ていない私には判断できませんが、とにかく強い情動を誘う映画ではありませんでした。これだけ登場人物がいて誰一人として自己投影できる対象がないのも珍しいなと若干冷めた思いで見つつも、終わって全体を振り返ってみると「ああ、あるよねこういうこと」と頷いてしまったり、「星の数ほどのこういう偶然のタイミングが重なって今の私があるし、これからの人生もそうやってつくられていくのだよな」としみじみ思ったり。

私はどうしても劇的な人生に憧れてしまうところがあって、それは毎日を会社と自宅(とジム)の往復だけ、しかも会社での仕事をそれほど負荷にも感じていない、という快適で健全で単調な暮らしをコンプレックスに感じることと直結しています。辛くなければ頑張っていない、頑張っていない自分はダメだと思ってしまうのは体育会のノリを忘れられていないだけなのかもしれないし、それなら激務な職を選べばよかったじゃないかというセルフツッコミで毎日心をこじらせて死にそうになっているわけです。が、この映画を見て当然の如くそうして悩んでいるのは自分だけではないのだよなということ、それから他愛もないありふれた、でも同じ時間同じ場所では二度と起こり得ない出来事が積み重なって、あとから振り返ってみればそれがドラマになるのだよなということを考えて、少し肩の力が抜けたような気がします。

もし主演が三浦春馬くんではなかったら、もし私が『アルキメデスの大戦』を見逃したばかりではなかったら、おそらく見ることはなかった作品だけれど、今ここでこの作品を見たことが将来自分の身に起こる何かと意味をもって繋がるのかもしれないと思うようになりました。出会いも別れも結婚も恋愛もほぼタイミングの一言で説明がついてしまうし、「あの時に見た映画がアイネクライネナハトムジークで本当に良かった」と思えるそんないつかの夜だってきっと不意に訪れるのだろうけれど、その偶然は必ず私が語るに足らないほどの日常を積み重ねた上にあるのだろうなと。そういう意味で、見て良かった作品だなと思います。

可視化されない過程について

随分懐かしいツイートを思い出したので引用してみますが、このブログを始める前、去年の冬に私はこんなことを考えていました。当時は大学生だったので、上司というのはインターン先でお世話になった社会人の方です。

ツイートの文脈は忘れてしまいましたが、当時は私がネットで知った憧れの人に会いに行って、そこで言われるがままにさやかというアカウントをつくったことを指してすごい行動力だと言ってくれた人が多かったように思います。実際にはその人に会ってみたいと思いながらそれを申し出る勇気はないという無行動の期間が1年以上あったり、そのオフ会の企画にも応募していいものかどうかで悩んだりといった紆余曲折があって、私は常にそういった過程を踏まえて自分は優柔不断なのだと思っていたわけですが、そんな私しか知らない過程は外から見たら無いのと同じなので、私の印象が「会いたいと思った人にはすぐに会いに行くすごい子」になるのですよね。

またもや古いツイートを掘り起こしますが、仲の良い友人にもこんなことを言われました。

私は大学生の時によく旅行をしていたのですが、たとえば一人で飛行機のチケットと宿だけは予約して北海道に行ってきたというインスタの投稿を上げると友人から「一人で!?急に北海道!?」と驚かれるのです。でも私がはじめて北海道に行ってみたいと思ったのは小学生の時で、そこから実際に海を渡って降り立つまでに10年以上かかってしまったわけで、とてもじゃないけれど興味を持って即行動に移せる人間だというエピソードにはなりません。

人から見れば無いのと同じというのはだから無意味だということではなくて、多分そこで大切になってくるのは想像力なんだろうなと思うのです。つまり、劇的なことは何も起こらないけれど毎日それなりに仕事をして生活している日常とか、自分なりの結論を出す前の思考って語る機会も語られる機会も基本的にはあまり無くて、自分のそういう紆余曲折は見えるけれど、何か行動を起こしたり大きな成果を収めたりする他者のそれは見えにくい、見えにくいけれど確実に在るのだということを忘れないようにしたいなと。人のことは表面しか見えないし、自分も人には可視化された言動でしか判断されないということを意識して行動しつつ、自分が誰か自身やその人の成した成果を見る時にはその見えない過程の部分にも思いを馳せられる人でありたいなと改めて思いました。

また映画の感想を書くはずの回が壮大な自分語りになってしまいました。想像力と同時にレビュー力もつけたい今日この頃です。せっかく始めにネタバレ注意と書いたので最後に少しだけ具体的な内容に触れてみますが、最近までドラマ『TWO WEEKS』で逃走していた春馬くんが彼女を追いかけて走り回るシーンは見ものでした。それから、主人公のプロポーズ(失敗)のシチュエーションは結構私の理想です。昔付き合っていた人に夜景の見えるお洒落なレストランで結婚したいと切り出されたのも良かったけれど、どちらかというと今は何でもない日に何でもないことのように「そろそろする?」「何を?」「結婚」と言われたいというか、そういう会話が延長線上にある日々に憧れます。まずは彼氏をつくるところからですね……ははっ……

おやすみなさい。また一週間頑張りましょう。さやかでした。

アイネクライネナハトムジーク (幻冬舎文庫)

映画『アイネクライネナハトムジーク』公式サイト