どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

遊びをせむとや生まれけむ。六本木で垣間見た「遊びの流儀」

こんばんは。さやかです。

ここよりも人目に触れるツイッターでは身バレが怖いのであまり大きな声で言わないけれど、私はとあるメーカーに勤めています。大学の専攻が文系だったこともあり、学生時代の人間関係においてメーカーの人間は多くなく、コンサルとか金融とか広告とか人材みたいな、僻地に自社工場を持っているようなメーカーよりずっとキラキラした場所にいる人がマジョリティーです。そしてある点において、そうした社外の繋がりから聞く話と自社の様子が少し異なっていることが気になりました。体感値なのでデータも何もないのですが、どうもメーカーの人間は全体的に結婚が早いような気がする。三十路以上の先輩や上司は男も女も、相手が社内かそうでないかを問わずとにかく結婚しています。三十路と言わず、20代も折り返す頃には明らかに未婚の人を数える方が楽になっているのです。世の晩婚化とは無縁。そんな世界だから、ジャスサーで未婚の先輩美女は、本当に息を吐くような自然さでふっかけられる未婚イジリを私の目の前で浴びています。明日は我が身と震える日々です。

 

そんな私が社内恋愛は絶対に嫌だな〜とか言いながら同期とちゃっかりデートで行ったのが、サントリー美術館で開催中の「遊びの流儀」展でした。「遊びをせむとや生まれけむ」の一節が有名な梁塵秘抄が出た平安時代から、明治時代に至るまでの日本人の「遊び」の文化に触れることができる企画展です。展示物の年代としてはやはり江戸時代が中心で、特に屏風や図巻など絵画作品が多くなっていましたが、私の印象に強烈に残ったのは数々の双六でした。

双六。すごろく、と聞けばこんなものを振って

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こんな遊び方をするもの……

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だとイメージする人が多いのではないでしょうか。これは絵双六という双六のタイプで、平安時代以前に日本に伝わってきていた西洋由来の盤双六が廃れるのと交代で普及したものです。私は盤双六の遊び方を知りませんが、展示されていた双六盤は重要文化財「清水・住吉図蒔絵螺鈿西洋双六盤」をはじめとしてどれも本当に美しく、すっかり見入りました。

さて、江戸時代末期には絵双六が一般的な双六となっていたため、展示されている江戸時代(19世紀)の双六も後半は絵双六で、「東海道五十三次双六」「男女婚礼振分双六」「御大名出世双六」がこれにあたります。「御大名出世双六」も寺社奉行や御勘定奉行、大目附などよく見覚えのある単語が並び、なかなかに面白いものでしたが、何しろ「男女婚礼振分双六」の上り、つまりゴールが婚礼であったことが強烈に眩しくて全てが吹き飛びました。ふり出しから始まり、生娘、おてんば、飯炊き、御妾、世継ぎ、勘当などを経て、見合いをし、婚礼に至ることを目指すストーリー。目指すところは結婚ただ一つであり、結婚はすべてをチャラにするゴールです。令和時代にこんなものを作ったらネットにたくさんいるらしい何かに怒りたい民草が煩そうだなあと思いつつ、19世紀の人々の人生観が垣間見えて面白かったです。

垣間見と言えば、垣間見って本来は物の隙間からこっそり覗き見ることなのに、展示作品の屏風や図巻の中で美女を垣間見していた昔の男たち、どう考えてもそこから覗いていることが覗かれている女性陣にバレていそうな描かれ方をしている気がするんですよね。全然隠れられていない。まるでツイッターで男性がこっそりいいねしているつもりのえっちなお姉さんの自撮りが、白昼のタイムラインに「♡ 男さんがいいねしました」の文字と共に流れてくるのを見ているようで、えもいわれぬ気持ちになりました。

 

「遊びの流儀」展自体の会期は8/18(日)までですが、途中展示替えがあるので「男女振分婚礼双六」を見られるのは7/22(月)までだそうです。会場のサントリー美術館は、東京ミッドタウンの中にあります。六本木で夜の遊びに繰り出す前に覗いてみると、人によっては思うところがあったりなかったりするかもしれません。良ければぜひ。

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遊びをせむとや生まれけむ

戯れせむとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそゆるがるれ

重すぎるその思いを 持て余して彼を見送る

ただいま東京

と言えるほど私はまだ東京の人間にはなれていなくて、わたしにとって帰る場所は実家なのだなあと思う週末になった。父とドライブして母とお茶して弟と映画を見て妹と買い物をした2日間は、私が学生から社会人になったことなんて何も関係なく相変わらず穏やかにあっという間に過ぎていって、さながらジェットコースターの様相を呈していた情緒は見る影もなく落ち着いた。美味しいものを気のおけない人と楽しく食べて時間を気にせず8時間眠ると、気分は安定するらしい。

これを毎日揃えられたら私はいつでもハッピーで賢者な女の子でいられるわけだ。深夜に好きな人から連絡が来ないことに悶えたり、悶えて考えて我慢できなくなってLINEを送ったり、なかなか既読がつかないことに気を揉んだり、思わせぶりなことを言われたまま連絡が途絶えて泣くしかなかったりする日々に別れを告げられる。

さて、美味しいものについては普段から食べている。自分で言うのは結構アレだが、私は一人暮らし歴も5年目に突入したので普通に料理ができる。朝も昼も夜もなかなかに美味しいごはんを食べられているので、美味しいものという条件は余裕でクリア。次に8時間睡眠。これもホワイト企業で働いていることと長距離通勤ではないことが功を奏して、スマホを見る時間さえ減らせば難しいことではない。クリアできそう。

問題は「気のおけない人と楽しく」これだ。何せ私は孤独な一人暮らしをしているのである。どうしても気分が落ちてしまう時期、誰かとどんなに楽しくお酒を飲んでも家に帰れば一人だ。家で美味しいごはんを作ったところで、可愛い部屋着を買っておいたところで、どうしようもなく一人なのである。

一人の時間が嫌いではないはずなのに

先ほども書いたように私は一人暮らし5年目で、しかも無趣味な人間というわけではない。一人で外食にも行けるし映画も見られるし美術館にも行ける。国内で1週間の一人旅を楽しむくらいには、おひとりさま力がある。思い返せば一人で本を読む時間や勉強する時間欲しさに、友人からの休日の誘いを断ったこともあった。

それなのに最近の私は趣味の読書もせず近々受ける試験の勉強もせず、気分転換に乗る自転車も雨で出番がなく、とにかく好きな人のことばかり考えて毎日を過ごしていた。最近というのは好きな人に「可愛くして待ってて」と言われてからこちらのことである。

以前ブログに書いたこともあるが、私は実家の犬のような女なので、待っててと言われたら待ってしまう。「忙しいからまた今度」が遠回しのさよならだというクソリプは申し訳ないが要らない。そんな本音と建前の構造は、それを自分自身が男の人に対して使っている私が一番よく分かっているので、もう二度と誘われることなんてないのだと覚悟していた。このツイートのように。

それでも重ねて「君に会えるのを楽しみにしてる」と言われて、「君のことを可愛らしいなと思ってるし そうじゃなかったらこんな風に電話したりしない」と言われて、どうしたら この人は本当に忙しいだけなのかもしれない と期待せずにいられるだろう。好きな人が、このツイートのような考え方をする人なのではないかと。

本当は、本当はわかっている。ダメなのは言葉の裏を読もうとしてしまう私の弱さであり、以前相手に時間が出来たときに「今からどうですか」と誘われて会えた日のことを忘れられずに出来るだけ予定を入れずに待ってしまう私の愚かさであると。

最近の私にとっての一人の時間は、一人で自由に使える時間ではなく「独りになってしまう時間」でしかなかった。好きな人にいつでも会えるようにしておきながらその機会には恵まれない状態は、精神衛生上とてもよろしくない。一人を楽しめない独りの時間は永遠にも思えてそれは絶望に繋がり、相手不在の一人相撲を散々に繰り広げてしまった。期間にすればたった3週間ほどだ。「忙しいから仕事が落ち着いたら」と言われて素直に待っていたとすれば長すぎる日数ではない。

でも私はひとりで、待ち過ぎていたのだ。「時間が出来たら平日に誘ってもいい?」と言われたことと、当日に誘われて会った過去から推測して勝手に期待して、おそらく相手が私のことなど思い出してもいなかった日々に彼からの連絡を待っていた。毎日勝手に待って、毎日勝手に絶望していた。今こうして書き出してみると本当にバカなのだけれど、毎日落胆するのは結構つらいもので、結果として私は爆発的に自滅してしまったのである。乾いた笑いしか出ない

好きな人に「好き」と言いたい人生だった

好きな人が忙しいと、自分は暇になって合わせようとしてしまう。それが良くなかったのだ。それこそが私が軽やかな癒し系の女になれない理由だった。恋焦がれる相手が忙しいときほど自分も忙しくあるべきで、相手のことを好きであればあるほどそうでないように日々を過ごすべきだった。好きな人を特別に恋しく思ってしまうときほど、他の男の人と遊んだり自分の仕事や趣味にふけったりして、時間も気持ちも分散するべきだった。恋愛某学のような結論に落とし込んでしまうのは我ながらとても口惜しいけれど、つまるところ結局そういうことなのだと思う。

最早手遅れな気もするけれど、来週には試験を控えているし今回の帰省で親に大量に買ってもらった本もあるし、好きな人がいない世界で活字の世界に溺れて、好きな人の重荷にならないような自分になって待っていたいと思う。もう少しだけ待ってみたい。告白したりされたりせずに曖昧に恋を終えられるほどまだ大人にはなれないから、ちゃんと振られるまでは馬鹿みたいに好きでいてもいいですか

 

毎日同じ葛藤を 私は繰り返している
愚かなこととわかっていても
これ以上の恋なんてない

重すぎるその想いを 持て余して彼を見送る
せめて20歩くらい 後を追って あきらめよう

___ 乃木坂46 / 別れ際、もっと好きになる

別れ際、もっと好きになる

別れ際、もっと好きになる

 

「もう何も信じられない」と言う人で本当に何も信じていない人はいない説

人は思いのほか軽率に他人に命を預ける。その最たるものが他人の運転する車に乗ることだなあと、父親の運転する車の助手席で目覚めた瞬間に思った。

父とのドライブに出かけると、私は平気で眠る。助手席に座った人間が寝ることに憤慨する運転手も世の中にはいるらしいけれど、私の父は「寝ていていいよ」と言ってくれるし、実際に安心感のある走り方をしてくれるので私は安心して眠ることができる。学生の頃から、実家に帰省した復路は大抵の場合、父が運転する車でのドライブになった。明け方に実家を出て、道中私は眠り、起きると自分が一人暮らしをしているマンションに着いていて、父に感謝しながら普通に大学に行った。

そういえば昨日東京から実家に帰ってくるときに使った新幹線だって、何気なく乗ってはいるけれど脱線事故が起これば死ぬかもしれないし、新幹線を気にし出したら毎日通勤に使っている電車だって同じように何が起こるかわからないわけで。それから、これは満員電車に乗っているとたまに考えてしまうことなのだが、身体の表面が見知らぬ他人と密着して身動きが取れないあの状況で、殺意と武器を持った誰かと隣り合わせてしまったら間違いなく死ぬ。自分の横にいる他人は自分に危害を加えないと信じられなければ、自分が乗った車両が目的地まで間違いなく線路の上を安全に走るだろうと信じられなければ、電車なんていう乗物にはとても乗ることができない。

例として車や電車をあげてきたが、これはそうした乗物に限った話ではない。道行く人が危ない人ではないと信じられなければ外を出歩けないし、家に引きこもるにせよその家を建てた業者や人がきちんと仕事をして安全な家を建ててくれたと信じられなければ、建物の中にはとてもじゃないが落ち着いて居られない。本当に何も、誰も信じられなかったら、人里で暮らすことはできないのだ。

人に何か期待して信じて、それが願った通りにはならなかったとき「もう何も信じられない」と言ってしまう人は少なくない。私とて、優しい男の人に優しく思わせぶりな言葉をかけられて、勝手ながら期待して、結局失恋しているような気がする今、もう誰も信じられないと言いたくなる自分の感情を持て余している。裏切られて人間不信になりそうだと、そんな絶望的な台詞を吐く誰もが、大袈裟に言っているつもりはないのだろう。でも「もう何も信じられない」と言う人が本当に何も信じていないことは実際問題有り得ないのだ。私たちは、自分以外の誰をも、何をも信頼せずに生きていくことができない。

私は匿名でツイッターを運用しているが、それは自分で使い方を考えればツイッターは匿名性を保って使えるものだと無意識のうちに信じられているからだ。マシュマロというサービスを利用して私に匿名でメッセージを送ってくれる人とて、マシュマロが匿名性を保ってくれることを信じているからそれを利用していることになる。

信じるとは、何だろう。楽観することと限りなく似ているような気がするのだけれど、信頼と楽観とは何が違うのだろうか。

(関連しそうな回:どんな期待で未来を描けば、私たちは最も幸せになれるのだろう。 - どんな言葉で君を愛せば、

私は自分の、人に素直で良いと褒めてもらえる自分の性格の一面が好きだ。心配になるくらい性善説で生きてるよね と言われたことがある。それが君の良いところだけど、もう少しずるくなれないと悪意ある人間に食われてしまうかもしれない、と。私は確かに匿名でツイッターを始めるまで、自分に悪意を持って礼儀を欠いて向かってくる人や言葉に出会ったことがほぼ無かった。それは恵まれた環境であったと思うし、出会う人に育ちが良いと言ってもらえることはそうした私のバックグラウンドまでまるっと賛してもらえている気がして嬉しいものである。

そんな、基本的に人は自分に対して優しいものだし自分を傷つけようとしてくる人なんていないと思っている、というかそれを当たり前だと思ってきたので「自分は性善説に生きている」なんてわざわざ意識したこともなかった私なのだが、恋愛に関して言えば極端に楽観視ができない。この拗れ方が一体どこからきているのかわからないが、誰かに向ける好意が恋愛感情であると自覚した途端に楽観視が破滅的に下手になり、自分も他人も信じられずに、ここ数年はいつも同じように失敗している気がする。

 どうしたら良いのだろ。

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