どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

同期が会社を辞めたいらしい。

7月12日、金曜日。私が今年の4月に新卒として今の会社に入ってから、丸3ヶ月と半分近くの時間が経ったことになる。ホテルで2週間も缶詰めになる宿泊研修や2か月以上続いた研修を経て、一緒に入社した同期とはそこそこ連帯感があった。ただ同期と一口に言っても数百人いる中で、たとえば「辞めるかもしれない」と聞いて寂しく思うのはごく一部であったりする。そしてなんと、私にとってのそのごく一部にあたる同期が、今、会社を辞めたがっているらしい。

上司から急に会議室に呼び出され、何かやらかしてしまったかと無い心当たりを探りながら行ってみると、神妙な面持ちで「つらいことや不満はないか。どんなことでも聞かせてほしい」と懇願された。なぜ急な面談でそんなことを尋ねるのか、はっきりとは言われなかったが、隠し事が下手な上司なので話を聞いているうちにどうやら新卒の誰かが辞めたいと言い出しているらしい状況が薄っすらと見えた。私の愚痴を聞きたいという上司の期待には応えられず申し訳なかったが、私には上司につらいと言いたいようなことが無い。確かに上司のことが好きではないけれど、その上司だから言えないという話ではなく、単純に仕事がつらくないのだ。

これは過去において色々なことに取り組んできた経験から言って、新入社員である今は、私にとって特に楽しく感じられる段階の一つである「0を1にする時期」だからだと思われる。少し前まで大学という温室にいた私にとって、会社はわからないことばかりだ。実務の進め方はもちろん、どこにも書かれてはいないけれど絶対性を持っている不文律だって、会社という一つの世界の中で生きていくには覚えなければならないこと。それらを教えられ、または勝手に見て盗み覚えていくのは、私にとっては非常に楽しいことであった。

ちなみに次に来る段階はおそらく「新鮮味がなくなって飽きちゃった!」である。0が1になった後は大抵の場合、恐ろしく体感成長速度が落ちる。その精神的なブランクに耐えられればしばらくすると次のステージが見えてきて、また自分なりのゴールを設定して頑張れるような気がする。私が仕事を辞めたいと万が一にも言い出すとすれば、おそらくこの飽きに襲われる時期であると思う。

……とはいえやはり、今この時期に同期の誰かが「辞めたい」と言い出しているらしいことに、正直信じられない気持ちはある。私たちは入社3か月で脱落者が出るようなハードな働きを強いられてはいないと思うし、そして仕事の流れを掴んだと言うにはあまりにも未熟だ。飽きるような時期でもない。多種多様なハラスメントが問題となるような時代の流れがあるおかげで、ブラックには程遠いライトグレーな弊社において私たちはワレモノ、あるいは腫れ物のように大事に扱われているという印象がある。全体的には。

先日先輩と話していて初めて知ったのだが、私の配属はどうやら少し特殊らしく、それに関して不平や不満の色を出さない私のことをその先輩は「胆力がある」と笑ってくれる。笑って仕事をガシガシ投げてくれる。私にとってはそれが腫れ物扱いされるよりずっと幸せだ。

そこそこ以上の企業規模があれば、配属された事業部や部門によっては、同じ会社にいながらそうとは思えない環境になることが多々ある。私には話しやすい教育担当も色々な意味で憧れの存在であってくれる先輩も、娘や孫のように動向を気にかけてくれるイケオジたちもいるけれど、同期全員がそう恵まれるわけではない。スタンスの違いもある。私のように自分の手を動かす機会を浴びせられて仕事を覚えていくことに幸せを感じる新卒がいれば、言葉通り手取り足取り教えられたい新人だっている。

「石の上にも三年」「入社したらとりあえず3年頑張ってみろ」は理にかなう場合もあるがそうならないこともあるだろう。会社に限らず世界には、一見すると意義のわからない慣習があふれている。中には本当に意味のないものもあるだろうが、ある程度世界の解像度が上がらないと見えてこない意義というのが存在するのも確かだと私は思う。

「この会議は必要か」「これは自分がやるべき仕事か」を常に疑ってかかる姿勢は大切だ。疑った結果として、その意義が見えずに不満を抱く気持ちもわかる。でもそれがわからないのは自分が未熟なためであるという可能性を考えない人は、私の思う以上にたくさんいるのだな、と人の愚痴を聞いていて最近よく思う。私はまだ会社の人間としては赤子だから「これ本当に必要か?」と思ってもそれをジャッジできるのは今の私ではないと思って当面は素直に取り組むし、同時にその疑問を抱いた事自体は忘れないようにしておきたいなと思いながら毎日会社に行っている。

人が会社を辞めたいと思うとき、その気持ちを否定する権利は誰にもない。私の同期の誰かが辞めたい理由が仕事の内容であれ人間関係であれ、はたまた「自分がやる意義を感じられる仕事探し」であれ、辞めるのであれば、そうか お疲れ様 という気持ちで送り出すし、それ以外に私に言えることはない。

ただ私は相変わらず、自分にしかできないこと、他の誰かではなく私がやるべきことだと心から思える仕事なんて、誰にでもできるような仕事を誰か以上にこなした先にしか無いと思っている。大学の専攻とも全く結びつかない業界に総合職として入った新入社員なんて、数年会社にいて自分より給料が低い派遣の人よりも出来ることが少ないわけで、そう思わないとやっていられないような雑務に追われる日もある。

同期がもし本当にやめるのなら、長い就活を経て入社を決めた会社を3か月で離れる決断力は1つの才だよなあと思うけれど、とりあえず素直にやってみよう、やらないと見えないことがあるから、と考えられる自分のこともたまには褒めてあげたいなと思ったり、そして時には自分の憧れる誰かに褒められたいなと思ったり。

思わせぶりなことを言う人間に、弱い。

私は、言葉を上手につかう人間に弱い。

私が日々ツイッターやブログに晒しているポエムを少しでも読んだことのある方であれば、人間などと大きく言ってみたところで無論これは私にとって異性である男性のことであり、弱いとはつまり「すぐ好きになっちゃう♡」をオブラートに包んだ語であるということは容易に想像していただけるはずだ。

ツイッターには、そんな私がコロッと逝ってしまうような素敵な言葉を紡がれる人がたくさんいる。その筆頭が、ブログ「もはや日記とかそういう次元ではない」の主、熊谷真士さんである。

2016年に初めて「スタバでダベる女子大生に対し畏敬の念を禁じ得ない」を読んだときの衝撃は忘れない。熊谷さんの文章に出会えただけでもツイッターを使っていた意味はあったと思える。更新頻度は決して高くないのに、定期的に見に行っては全ての記事を何度も繰り返し読んでいる。やっていることは完全にオタクだし、もしこれがビデオテープならきっともう擦り切れていた。今がインターネットの海に生きられる時代でよかった。

さて最近になって、そんな熊谷さんが書いていた「言葉の意味は、文脈の中にしか存在し得ない」という文句が私に深く突き刺さった。その言葉自体の文脈は下記ツイート内のリンクの先に存在しているが、一度読みに行くとここには戻ってこられなくなると思うのでご注意いただきたい。

大事なことなのでもう一度書くが「言葉の意味は、文脈の中にしか存在し得ない」。

たとえば男の人に思わせぶりなことを言われ、それをきっかけに好きになったのに、こちらが好きになった途端その人が離れていくという状況。私がバカみたいに繰り返しているありがちな恋愛パターンである。その、思わせぶりな台詞だと思われたものを思わせぶりな台詞にしてきてしまったのは、他でもない私自身だったのだ。

好きな人が夜中に電話をかけてきて「こういう時に君の声を聞きたくなるっていうのは、そういうことだと思うんだよね」と言った、それを思わせぶりなセリフだと思ってしまったのは私が彼のことを好きだからであり、彼の言う「そういうこと」は私が彼に望んでいた文脈におかれて初めて思わせぶりな言葉になってしまったのである。「そういうこと」という語それ自体は何も思わせぶりな言葉なんかではなかったのだ。

「誰にでも言うわけじゃないよ」だって同じだ。2人の女に言っていたって、10人の人間にに言ったことがあったって、それが誰彼見境なく言っているものでなければ「誰にでも言うわけじゃない」は決して嘘ではない。「誰にでも言うわけじゃない」に「君だから言うんだ」という意味までを勝手に重ねたのは私自身の「彼に特別扱いされたい」という願望だったのだ。私の中にある願望という文脈上におかれて初めて彼の「誰にでも言うわけじゃない」は思わせぶりな言葉となってしまったのである。

 

 

 

……いや、そんなわけあるか。

冷静に考えてみてほしいのだが、「こういう時」がどういう時なのかは相手の事情なので伏せるとして「君の声が聞きたくなる」と同じ文脈上の「そういうこと」に期待しない人間がいるだろうか。いるのか、そうか。ごめん。私は期待した。

しつこいようだが、私は言葉を上手に効果的につかう人が好きなのであって、言葉を使って相手を口車にのせて自分の思い通りにしようとする人や相手に喋る暇を与えないほどお喋りな人が好きなのではない。どちらかといえば言葉数は少ないくらいで良く、丁寧に的確に、選ぶように発してくる人が好きだ。

言葉少なに、ちょっとクセのある言い回しをし、とにかく絶妙な間をもたせてくる人を前にすると私はどうすることもできない。会話のペースを相手に握られて、思わせぶりに聞こえてしまう台詞を浴びせられ、気づけば期待に塗れて好きになっている。もう期待なんかしないと毎回決意してるくせに馬鹿だなあと我ながら思う。

酔った人間の言葉をまともに取り合うなんてどうかしている。私も確かにそう思う。でも想像してみてほしい。好きな人が夜中、急に電話をかけてきて「君の声が聞きたくなった」だとか「かわいい」だとか言うのだ。酔っているのが空気でわかったって、聞かなかったことにも気にしないこともできない。

ずるい。ずるいよなあ。無論、この文脈におけるずるいとは「私が簡単に好きになってしまう魅力がある」という意味です。こうしてまたずるい人間に気持ちを掠めとられていくのが人生ならもう22年で十分だな。もうやめたい。

好きになった方が立場が弱いから待っててなんて言われたら待ってしまうし、会えないくらいで泣けるほど弱い女でもないから今日も会社に行く、本当は何もしたくないのに。バカみたい

多様性を愛する人が愛しているのは本当に多様性なのか

“多様性”を愛する人が“多様性”を愛しすぎるあまりに結果として多様性を認めない人になっているのを見るのは悲しいなと思いました。いつも唐突でごめんなさい。何を見てそう思ったのかはご想像におまかせします。

 

たとえば、たとえばの話ですが、太ったモデルが自分の好きなブランドの広告塔になったとして、それを既存のモデル体型のような美と異なる美も肯定する素晴らしい試みだと絶賛する人の考えも、自分の好きなブランドの顔となる人には誰もが羨む美貌や細い体型を持っていてほしいと思う人の感覚も、どちらも尊いとするのが真に多様性を認めるということなのだと私は思っています。

でも「多様性を認めよう」系のメッセージを絶賛する人ってかなりの確率で「自分が好きなものを好きだと言わない他者」を攻撃しているイメージがあって。それは多様性を愛する人のジレンマだと思ってきたのだけれど、結局その人が愛しているのって多様性でも何でもなくて「これまでの概念にとらわれない私」「わかっちゃってる私」みたいなことになってしまっていないかな、と最近は考えています。もちろん全員ではありません。ツイッターでまわってくるのはラウダーマイノリティーの声だけなので。

 

「多様性であるとされるものを認めない在り方も認めるのが多様性」という哲学のようなことを言っていてはどうにもならないことがあるのもわかるのです。洋服や化粧品のポスターなら好き嫌いの問題で済みますが、たとえば同性同士の結婚を法的に認めるかどうかという問題。

同性婚を認めたくない人の意見も多様性だと考えてしまうと「多様性を認めて同性婚に権利を与えろ」という主張が通らなくなってしまいます。だから「同性婚は異性婚という枠におさまらない現代の多様な結婚のあり方である」、同時に「同性婚を認めない人は多様性を認められない人である」という図式をつくって自らの立場の弱さと悲壮感をアピールして権利を勝ち取ろうとせざるを得ないのかなと。

私自身は、今後のことはわからないけれど、少なくとも今までは公的な社会のシステムがざっくり「男女が結婚して子どもを産み、その子どもが生産者となって社会を回す」ことを前提としてきた以上は、制度上の結婚が異性婚に限られることは当然かなと考えてきました。

以前、どこかの国の議員が「同性婚を認めてもあなた方の生活は何も変わりません(だから無意味に反対するのをやめてくれ)」と主張した動画が共感を呼び大変バズっていましたが、何も変わらないと言いきってしまうのはどうなのだろうと思っています。

これは何もマイノリティーは偏見に晒されるか隠れて生きるべきだと言いたいわけではなくて、偏見をなくすことと制度上で認められるということはイコールではないと思っていて。制度的に認められることは偏見を無くすための手段であると言われればまあそうなのかもしれないのですけれど、今回書きたかったことからは脱線しすぎているので話を戻します。

 

太ったモデルが起用された広告や、あえて既存の美しさから遠ざかるようなメイクを施し自らを「ネオかわいい」存在であると自称するミュージシャンに対して誰がどんな感想を抱こうがそれは自由であって、どんな意見でも同じように一個人のものとして「その感想が存在すること」は認め合うのが多様性を認めるということなのであると私は思っていて。でもモデル体型でないモデルの起用とか一定層に反感を買っているような何かを絶賛する人ってどうも「それを認めて多様性を愛する私たちとわからないお前ら」という色が出やすいような気がしていて……もしかしたらSNSの発信だとどうしても煽りの要素が入ってしまいがちなだけで、ツイッター以外の世界ではそんなことはないのかもしれませんが。

 

私は「ネオかわいい」とか「雰囲気かわいい」とか「ブサかわいい」とか、そういう言い方全部をあまり好ましく思っていません。それらは新しい概念だとか何とか言う人がいるけれど、わたしには結局そういう、可愛いに何かを付随した言葉を使う時点でただの「可愛い」では認められない何かなのだという宣言を自らしてしまっているように思われて仕方ないのです。ブサかわいいは論外として、ネオかわいいとか雰囲気かわいいだとか、言われて本当に嬉しいですか?どちらも単に「かわいい」と言わないことによって(顔はブス)ってカッコ書きが透けて見えてしまっていませんか?言われて嬉しくないことを自ら主張する必要がありますか?その概念を認められない人を攻撃する意味はありますか?

このブログを読む人の中には多分、多様性を愛そうと声高に叫ぶ人も、その人たちに攻撃されるような人もいないし、私だってそのどちらでもないし、ネオかわいいとか雰囲気かわいいだとか言われたこともないし、じゃあなんでこんなにそれについて文字を書いてきたんだよという話になってしまうのですが……。

 

自分の好きなブランドの顔となる人には誰もが羨む美貌や細い体型を持っていてほしいと思う古い価値観に生きる22歳の独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。おやすみなさい。さやかでした。