どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

長女という原罪

20世紀も終わろうとする頃、東京で働く一人の男がいた。年は30。三十路である。

同じ頃、男と肩を並べ勇ましく仕事に生きる女がいた。女の年齢は29。今で言う「バリキャリアラサー独女」であった。

知人の紹介で出会い意気投合した二人が交際を始めて間もなく、男の米国駐在が決まる。それが昇進への確かな道筋であることは誰の目にも明らかであった。

男の心に迷いはなかった。

「僕と結婚して、アメリカについてきてほしい」

しかし結局、男は一人で渡米することとなった。当時の一般的な婚期を優に超えていた女が、求婚を退けて仕事を選んだのである。周囲の人は驚いたが、女の意志は固かった。

やがて数年後に帰国した男による再度のプロポーズによって、二人は結婚する。仕事で東京を離れていた女は同居のため一度やむを得ず職を手放したが、転職して働く計画だった。だが二人きりの新婚生活を楽しむ間もなく、女にとっては予想外の事態が起こる。

妊娠が発覚したのだ。

復職して間もなく身体的な制限が生じ、さらに数年に渡り時間的な制限が掛かることがわかっている中で行う転職活動の厳しさは、想像に難くない。何よりも、妊娠による体調不良が女の気力を削いだ。彼女はキャリアに穴を開ける覚悟を決め、求職活動を一時休戦したのである。

およそ9か月後、お腹も頭も心も痛めつつ産んだ小さな命に、彼女は「さやか」と名前を付けた。

 

母になる前の母について

こんばんは、さやかです。

私の母は、私が物心ついたときには専業主婦でした。私が知っている母は専業主婦であり、私たち兄弟の母親である彼女だけだったのです。でも私自身が大きくなるにつれて、昔の母を知る人たちが私達の母親になる前の母について話してくれるようになっていきました。

「あなたのお母さんは本当にすごい人だったのよ」

「バリバリ働く女性として将来を期待されてね、仕事辞めるって言い出したときも皆に惜しまれて」

最初は嬉しくて仕方ありませんでした。私はずっと父のことは尊敬していましたが、だからこそ、細々としたことに口うるさかったり世間の変化に疎く機械音痴であったりする母を、父がなぜ生涯のパートナーとして選んだのか不思議だったのです。私は母の強さを、他者の評価を通して知覚していきました。大学生になり、父と飲むようになってからは父からも直接そのあたりの話をよく聞いています。

そうして母への尊敬の情を深めていくと同時に、目を背けられない事実が浮かび上がってきました。それは、仕事に生きていた強い母から仕事を、働く女としての人生を奪ったのは、きっと他でもない私であったということ。

 

自分の人生を狂わせた犯人を愛する

自分が母の人生を少なからず母の望まぬ形に変えてしまったという意識は、一度持ってしまってからは将来を考えるときにいつも私の中にあります。ただ、母に愛されていないと思ったことはありません。このブログやツイッターでは何度も書いていることですが、我が家は今も昔も家庭円満で、親子関係も良好です。それこそが母の強さの証であるとも考えています。

だって、母にとって私は自分から仕事という当時の生きがいを奪った張本人です。顔も見たくなかったり、息をしているのも許せないほど憎んでもおかしくはないのではないかと思います。

そうでなくとも、一般的に母娘関係は難しいものです。母親と娘という組み合わせは、親子の関係の中でも特に、親から見たときに子供が自分の一部であるかのように思えてしまいやすい関係性であると言われています。同性であるがゆえに母親は娘に自分を重ねやすく、自分の夢を押し付けやすく、また娘は自分がコントロールできる自分の延長にある存在であると考え、支配できないとわかれば嫌悪し攻撃することも少なくないのです。少し前に「毒親」「母が重い」などのワードが流行ったと思いますが、その時にもやはり親子関係の中でも特に長女や一人娘と母親という組み合わせが多かったように感じました。

 

私は母のように娘を愛せるか

どうして今日唐突に母親語りをしたかというと、昨日なんとなく久しぶりにNewsPicksのWEEKLY OCHIAI「働く女をアップデートせよ」回を見返していたからです。最初に見たときから印象的だったのは、女の先輩は自分たちが苦労して働く女をやってきた自負があるからこそ、下の世代の働く女に対して厳しく当たりやすいのではないかという問題提起でした。これは言ってしまえば働く女だけではなく働かない女にも、働く男にもまだ働いていない男にも言えることなのですけれど、人はつい「自分がした苦労は相応の結果や評価を得たい者であれば当然背負うべきものである」と考えてしまう生き物だと私は考えています。

苦労した人ほどそういう思いにとらわれやすい。だって苦労したんだから。自分が苦労して手に入れたものをあっけらかんと誰かが手にしてしまったら悔しい。せっかく自分のした苦労が、水の泡に思えてしまう。だから上下関係が厳しい部活のような組織の厳しさはよっぽどのことがない限り再生産されるし、無痛分娩も育児家事の外注も一般的に普及するには程遠いままなのだと思います。

「働く女をアップデートせよ」で言われた通り、関係の濃くない職場ですら世代間で分断が避けられない女、というか、人間。赤の他人でさえその有様なのに、自分の一部のようにも思える血の繋がった母娘(子)という濃い関係性があり、しかもその子どもを産むことと引き換えに、女性は多くの場合何かを失うのです。それは自分の身体を好きに扱える自由かもしれないし、自己投資や仕事に費やせる時間かもしれないし、私の母のように仕事自体かもしれない。

自分が仕事を諦めて産んだ娘の「一生働きたい」という言葉に「いいね!」と笑い、常に気にかけ、それでも干渉せずに見守ることができる母親に、いつか私もなれるのでしょうか。

 

正直に言ってしまえば、その自信が全く無いので今はまだ胸を張って子供が欲しいと言えません。だから確実に避妊をしたいのに、彼氏でも夫でもないくせに平気で危険を冒そうとする男の人の多さに驚きます。「出さないから大丈夫」って、それ本気で言ってるなら小学校の保健体育からやり直した方がいいです本当に。

とにかく母は偉大なので、まずは私も、仕事を理由にプロポーズを断った相手から諦められずにもう一度プロポーズされるような、代替不能な女になるべく精進したいと思います。おやすみなさい。さやかでした。

天才だ凡人だなんて言葉に振り回されたくはないよね

おはようございます。さやかです。

社会人3か月目の経過報告

昔、と言っても半年ばかり前のことですが、私は「自分が凡人なことはもうわかったから凡人なりに凡を究めて非凡に至りたい」ということをこのブログに書きました。私は就活を通して、今の自分が応募要件「大卒・学部不問」の誰にでもできそうな仕事にしか就くことができない状況にあることを痛感し、私にしかできないことなんてどこにもないのだと思ったのです。そしていい仕事、やりがいの大きな仕事というのは、誰にでもできる仕事を自分にしかできない仕事としてアウトプットできるような人になって初めて与えられたり挑戦できたりするものなのだろうと考えるようになりました。考えるようになったというより、前向きになるためにはそう考える必要がありましたと言う方が正確かもしれません。

実際のところ

弊社はなかなか研修期間が長く、自分が働く部署に配属されてからはまだ一月も経っていません。それなのになぜこのタイミングで自分語りブログを書いているかというと、若かりし半年前の自分が考えたことがあながち間違っていないのではないかと思える出来事がいくつかあったからです。そのうちの一つがこれでした。

配属後のここ2週間ほどは、OJTの先輩に付き従って仕事を教わりながら部署独自の暗黙の了解となっているルールを覚えたり上司に頼まれた雑用をこなしたりしていました。新人だから当然といえば当然なのだけれど、教わらないとできないことばかりな状況がつらかったです。

でもだからこそ、一度教わったことはもう先輩に尋ねなくても良いように努めました。教わった時にはメモやスクリーンショットで保存しておいて、休憩時間や始業前の時間をつかって、他の人に見せるつもりで内容をまとめるようにしたのです。それから、雑用は進んでやりました。先輩の雑務は全部自分が吸収するようなつもりで、指示がなくとも自分ができることであれば済ませた後で「やっておきました」と報告したし、自分が手を出せる範囲がわからないときには「何かできることありますか?」と聞きに行くようにしていました。

意外と人は自分を見ている

私が少しでも早く一人前になりたくて何かしている姿を見てくれている人はいて、私が「来年以降入ってくる後輩には自分が同じ指導をするのよね」と思い、未だ教わる身分でありながら同時に自己満マニュアル的なものを作っているところは上司が見ていて。そして先日上司から、自分の本来の仕事に加えて直属ではない先輩の仕事を手伝うことを指示されました。私がこの数週間でしてきたことが影響しているのかどうかはわからないし、事実としては自分の担当があって身動きがとれない先輩方と比べてまだ動かしやすい私が消極的に選択されただけなのかもしれないけれど。私は「自分がやらなければならないことに加えてやった方がいいと思うことも実行していたら、憧れの先輩の仕事を手伝えるチャンスが降ってきた」と思う方が自分のモチベーションが高まるので、とりあえず今はそう思っておくことにしています。

 

私は凡庸なOLだし、少し任される仕事の幅が広がったくらいで大げさに喜ぶチョロい女だけれど、今のところ会社に行くのがわりと楽しみなことは幸せなことだなと思っています。天才になれなくても努力したいし、バリキャリを自称できなくてもちゃんと自分の仕事を誇りに思えるようにしたい。ここは匿名ブログなので曖昧な書き方しかできないけれど、時にはこうして意識が高いときの気持ちを書いて保存していこうと思います。いつか落ち込んだ時の私とか、私のような器用貧乏っぽい人の糧になったら嬉しいです。

お読みいただきありがとうございました!さやかでした。

 

天才だ凡人だなんて言葉に振り回されたくはないよね

♪ あのこのゆくえ / yonige

「自分は共感能力が高いので」で自分語りを始めていいのは就活の自己PRだけだと思う

自己規定が過剰な人々

私です。これは大学時代に自分が身を置いた環境の弊害の一つなのですが、ツイッターなどSNSを使う際にいかにイタくない使い方をするかということに心血を注いでしまうのです。悪癖になるのでおすすめしませんが、保身のために便利なテンプレートがあります。ツイートの冒頭を自虐にすることです。たとえば「訳あって彼氏に付き合ってることを口止めされてるけど、他の女の子にも同じように言えば浮気し放題なことに気づいてしまって不安に駆られている」状況を嘆きたいときは「クソ女だから誠実な彼氏に交際を伏せられているというだけで多股を邪推してしまう」とする。相手が浮気しているのではないかと思うのは自分が浮気しているからだとか、考えすぎるメンヘラだとかいうあらゆるツッコミを先回りの自虐で抑えるのです。子供っぽいことなら「心が五歳児だから」とか。「童貞だから」とか「オタクだから」なんかも便利ですね。繰り返しますが悪い癖になるのでおすすめしません。

自分語りは本来難しい

ツイッターやブログで私のように自分語りをするのは、まあそこそこイタいけれど無しではないと思っています。それは読み手に、読みたくなければ読まなくていいという自由があるから。書き手側としても、自分語りって楽です。楽だし、読まれれば自己顕示欲が満たされて幸せになれます。

でも、対面ではそうもいかない。目の前の相手が自分語りを始めたら逃げ場がありません。お互いに相手に興味関心が高かったり、語られる内容が個々の具体的な経験談であったりすればその限りではないけれど、基本的には対面コミュニケーションにおいて「私って○○なタイプじゃない?」で始まる性格の自己診断とかステータス自慢とか大体どうでもいい。知らんがな。

あなたの性格の良さやコミュニケーション能力の高さは話を聞いていくうちにこちらで判断させてください。これは個人的な意見ですが、コミュニケーション能力が高い人は「私コミュ力高いから、」という出だしで自分語りを始めないし、共感能力が高い人は「俺、人の気持ちがわかっちゃうから、」と自分語りを始めたりしません。だって自称コミュ力高い彼女も人の気持ちがわかってしまうらしい彼も、目の前で聞いてる人間の感情に鈍すぎる。私が今あなたの話をかなり引き気味で聞いてることに全然まったく気づいていないじゃない?

他人を惹き付けながら自分のことを話す、しかもその内容が相手に違和感を与えない、というのは至難の業だと思うのです。自分を客観視する力と客観視しても尚自慢するに値する能力と、それを聞き手に飽きさせずに語る話術。全部揃ったら確かにそれは「コミュニケーション能力が高い」ということになると思います。

自信があるのは良いこと、だけど

私たち人間は、基本的に優越性のバイアスを抱えています。優越性のバイアスについては、以前楽観性のバイアスについてブログを書いたときに少し触れていたので引用します。

困ったことに私たちは,優越性の錯覚(優越性のバイアス)も抱えています。それは,自分がたいていの肯定的な特性で上の方にいると“思うことができる”力です。私たちは誰しも,自分が平均的な人よりも魅力的で,実力がある人物だという自信を持っています。

(中略)

このように,私たちは自分自身にまなざしを向けるときは優越性の錯覚や内観の錯覚に陥り,盲目的になりますが,他人のバイアスにはよく気付きます。

どんな期待で未来を描けば、私たちは最も幸せになれるのだろう。 - どんな言葉で君を愛せば、

優越性や楽観性のバイアスで世界が薔薇色に見えなければ、私たちは前向きに生きていくことができません。それらによって持てる自己肯定感や自信は幸せに生きるための大きな強みです。

でも、それって自分の心に留めておいたり言動を裏打ちするものであったりすることに価値があるのだと思っていて、相手に対して直接語ってしまうと、優越性のバイアスを介さずに見る他者からしてみれば自信過剰だとか、お前言葉に全然行動が伴ってねーじゃん、ということにもなりかねません。しかもまともなコミュニケーション能力がある人間はよっぽど気心知れた関係でもない限り「お前ナルシストだな」とは言わないので、自信があり、かつ自分語りをする人はますます自信を深めます。すると自己イメージと客観的な人物像に埋まらない溝ができる。同じ人を見ているはずなのに見えているものが全く違って、自分と相手の間に隔たりがあるように感じたとき初めて、私の中で相手はイタい人になります。

そう、これは私の好みの話です。今回は自分語りを良しとするか否かは当人次第で外野が口を出すことではない、が、わたしは好かんということを言いたかったのでした。自信がない人よりある人の方が好きだと思っていたけれど、やっぱり過ぎたるは及ばざるがごとしなのかなあと思っています。私にどんな性格傾向があって、どんな良さや力がある人間なのかを判断するのはいつだって私の言動を見聞きしている目の前の相手や周囲の他者だし、それを柔軟に聞き入れて自己分析する姿勢を忘れないようにしたいです。

6月も頑張りましょう〜!さやかでした。