どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

福沢一郎展「このどうしようもない世界を笑いとばせ」に行ってきた

こんばんは。さやかです。

先日,4年間通った大学を卒業しました。私の通う大学はキャンパスメンバーズ加入校だったので,学生証を見せると国立科学博物館等の常設展を無料で見ることができます。私は学生でいる間に何度もその恩恵を受けてきました。ただしそれも迫る3月31日で終わり……悲しい……ということで今日は,最後まで学生証を使い倒してやるぞと息まいて東京国立近代美術館に行って思ったことを書きます。よろしくお願いします。

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このどうしようもない世界を笑いとばせ

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本エントリーのタイトルにもそのまま貼り付けたこのフレーズは,現在国立近代美術館で開催されている企画展『福沢一郎展』のテーマです。ちなみにキャンパスメンバーズは企画展のチケットにも幅を利かせてくれているので,学生証を見せれば500円で入れます。ワンコイン。

「福沢一郎展」公式ページ:福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ | 東京国立近代美術館

キャンパスメンバーズ対象外の方は,公式ページから「開催概要」を開き,下の方までスクロールすると「割引引換券」のリンクがあります。割引画面を提示すると,学生証を剥奪された後の私を含む大人も,1,100円で入場できるようです。大学生なら700円。

たったこれだけで所蔵展も見ることができて,私の場合は美術館にいた2.5時間+このブログの執筆時間+感想を人と話す時間まで楽しめております。趣味においてもコストパフォーマンスを考えてしまうコスパ厨さんにも自信を持っておすすめできます。

 

超現実主義の人、福沢一郎

さて福沢一郎展を訪れた私ですが,美術の知識は基本的に中学で止まっていて,作品の感想は「上手で好き」「よくわからないけど好き」「上手だけど見ていたくない」「よくわからないし苦手」「何が良いのか全くわからないし感想も特にない」くらいのバリエーションしかありません。日本文化史の文脈で日本美術の有名な作品は知っている程度です。福沢一郎という名前も,日本史で聞いたかな?くらいの前知識。

福沢一郎(1898-1992)は、1930年代の日本にシュルレアリスムを紹介して前衛美術運動のリーダーとして活躍し、生涯を通じて社会批評を作品として表現し続けました。「謎めいたイメージ」の中に知的なユーモアをまじえ、社会の矛盾や人びとの愚かさを諷刺的に笑いとばした福沢の多彩な画業を約100点の作品で振り返ります。

(企画展公式ホームページより)

シュルレアリスム。シュールリアリズム。日本語では超現実主義と訳されています。私はルネ・マグリットの超現実主義の作品が好きです。空に浮かぶ「ピレネーの城」や鳥の形が印象的な「大家族」には見覚えがある方も多いのでは?

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 福沢一郎展のポスターに用いられた「扇動者」や,会場で手に入るパンフレット兼出品目録で取り上げられている「ポワソン・ダブリル(四月馬鹿)」は彼のシュルレアリスムの作品です。

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私はこれらの超現実主義や諷刺画に興味があって福沢一郎展を見に行ったのですが,それは彼の作品の一部でしかありません。

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ここまで紹介してきたものとは別人の表現のようにも見える「埋葬(1957年)」というこちらの作品は,東京駅にあるステンドグラス「天地創造(1972年)」の原画になっています。

 

どうして勉強しなくちゃいけないの?

今回福沢一郎展に行ってきたことを報告しているのは,決して芸術を理解する素敵なワタクシというアピールではなく,この企画展が私と同じように美術に造詣が深くない人でも楽しめる素敵な展示だと思ったからです。社会諷刺的な作画意図も,彼の生涯における作風の変化もとてもわかりやすく解説されているし,予習や予備知識なしに行っても楽しむことができます。

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出品目録の紙で問われるこの質問の答えは展示を見ればわかるし,多くの作品においてこのように「どんな意味をもたされた何が描かれているのか」「その表現の由来はどこにあるのか」というようなことがよく解説されています。歴史というか当時の社会のことも必要な分は説明されていて,だから超現実主義や諷刺の対象となっている当時の社会問題を知らなくても十分に楽しめるように作られていると感じました。

でもたとえば「トイレット・ペーパー地獄」という作品なら,1973年のオイルショックによるデマ騒動を知っている人なら一発で,これはその騒動を諷刺したものだとわかりますよね。それから福沢一郎は「衆合地獄」や「食水餓鬼」など源信の『往生要集』に基づいた作品を描きました。これも衆合地獄が往生要集で八大地獄の三番目とされていることや,現世で罪を犯した者が落とされて猛獣に襲われる地獄であること,『往生要集』が極楽浄土への往生をすすめる意図で作成された書物であるという知識をもっている方が,理解の速度が速く深度が深くなることは間違いありません。

前もって何かを知らなくても楽しめるように整えられているものってたくさんあるし,実際興味があるならヘタに準備に時間をかけるよりはとりあえずやってみようとか飛び込んでみようという行動力も大切だと思っています。でも私は,そうやって飛び込んでみた先で,それまでの自分の知識とか経験が生きたらそれは最高に楽しいし,自分のしてきたことの価値が確かめられるような気がして嬉しくなります。

 

わからなくても死なないけどわかる方が楽しい

このエントリーで私が言いたかったのは,日本の美術を見に行く前には日本史を学べ!ということではなくて。日本史がわかれば日本美術を歴史と照らしながら理解することが容易になるし,それは西洋美術と西洋史の関係とも同じで,さらに西洋史や東洋史と日本史もそれぞれ関係していて,その大きな流れの中に画家自身の人生があり……。そうしてあらゆることは繋がって多かれ少なかれ関連しあっていて,ある企画展の中の1つの作品においてさえ,そうした文脈や意味をすべて理解するというのは無謀ではあるけれど。それでも出来るだけ,自分が見聞きした作品について思考できる知識とか価値観を増やしておくことが,教養をつけるということなのかなと思ったのです。大袈裟にいえば,そんな教養とよべるようなものがある方が人生はもっと楽しくなるのではないかなと思って,それを言いたいがために撮影禁止で紹介できる作品が少ない中で企画展の紹介をしてみました。

ちなみに,企画展のチケットを買えば入れる所蔵展も企画展に対応した展示になっていたので両方見るのがおすすめです。同時開催の「美術館の春まつり(3/19〜4/7)」「杉浦非水展(現在の展示は2/9〜4/7)」も私は好きでした!

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私はこのあと桜を見ながら皇居のまわりを歩いて東京駅に向かいました。美術館からの桜からの東京駅でステンドグラスを見るルート,この時期における健康で文化的なコスパ最高の娯楽だと思います。良かったらぜひ足を運んでみてください♡

最後までお読みいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

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「このどうしようもない世界を笑い飛ばせ」

福沢一郎展 概要

会場:東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー
   〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
   (東京メトロ東西線竹橋駅 1b出口より徒歩3分)
会期:2019年3月12日(火)~ 2019年5月26日(日)
開館時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00)
     *入館は閉館30分前まで
休館日:月曜(3/25、4/1、4/29、5/6は開館)、5/7(火)
観覧料:一般1,200(900)円,大学生800(500)円
*( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。
*高校生以下および18歳未満、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等をご提示ください。
*キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は、学生証・職員証の提示により団体料金でご鑑賞いただけます。
*本展の観覧料で入館当日に限り、「MOMATコレクション」(4-2F)、「イメージコレクター・杉浦非水展」(2F ギャラリー4)もご覧いただけます。

主催:東京国立近代美術館

出品協力:群馬県立近代美術館、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館、一般財団法人福沢一郎記念美術財団

福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ | 東京国立近代美術館

百言は一行に如かず。それでも私は彼の言葉に恋をする

おはようございます。さやかです。飲み会から帰ってきて,酔いが醒めてきた頭で書いていきます。21日のうちにアップする予定だったのに。ツイッターで体調不良をアピールしてしまったためにご心配いただいたみなさま,ごめんなさいありがとうございました。

さて,若者の活字離れが進んでいるなどと嘆かれて久しいですが,本や新聞が売れなくなっているだけで電子書籍やブログ,SNS等ネット上の文章を含めれば日々文字情報に触れる量自体は多くなっているんじゃないのかなあと思う今日この頃です。私は中身が古い人間なので相変わらず本は電子書籍より紙派ですが,AmazonでKindle版のセールがあればそこで買うこともあります。私はこんな風に,ある程度の好みはありつつもわりと柔軟にそのとき一番良いものを選択して生きているつもりですが,どうしようもなくこだわりが強いものがありました。それは言葉に関することです。

  • こだわりすぎると生きにくい
  • 百言は一行に如かず
  • それでも私は彼の言葉に恋をする
  • 人は言葉で自分を作っている

 

こだわりすぎると生きにくい

私は言葉そのものが好きだし,このブログで書いてきているように言葉をつかって答えがあったりなかったりする何かを考えるのが好きです。それから,言葉を通して人を見るのが大好き。だから「こんばん」とか「〜ってゆう話なんだけど」など口語と文語の区別をつけられない人とか,「どぉかな?」という一昔前のギャルみたいな言葉をつかう人は,どんなに立派な内容の話をしている人でも私は敬えません。まず見ていられません。ツイッターなら一発でミュートします。

我ながら細かいな。でも口語ならともかく,文語は仮名遣いや句読点を入れるタイミング,助詞の使い方などに違和感を覚えてしまうと一気に読みにくくなりませんか?

  1. 「助詞の使い方、などに、違和感を覚えてしまうと、一気に、読みにくくなりませんか?」
  2. 「助詞の使い方などに違和感を覚えてしまうと、一気に読みにくくなりませんか?」
  3. 「助詞の使い方などに違和感を覚えてしまうと一気に読みにくくなりませんか?」

私は1の文章は1秒で読むのをやめてしまいます。文語のリズム感が自分と大きく異なる文章は,読むのに無駄なエネルギーを使う気がして苦手なのです。これは改行の多さを嫌うのと重なる部分もある気がする。

関連記事:なぜあの人は過剰に改行するのか。私はなぜそれを嫌うのか - どんな言葉で君を愛せば、

 

百言は一行に如かず

一般的には人の本性・本意を見たかったら言葉を無視して行動を見ろと言われますよね。たとえば彼氏が浮気を繰り返し,それを咎めるたびに「悪かった。俺にはお前しかいない。もうしないから」と言われたとして,行動を見れば反省もせずに裏切っているのは明らかなのに,言葉に縋ってしまうと関係を切れなくなってしまいます。「妻とは別れる」と口では言う既婚者も言葉を無視して行動だけ見ればあなたよりも妻を選んでいるから離婚をしていないわけで,やっぱりその人の行動から目を逸して言葉だけを信じようとすると碌なことになりません。私だって,好きだとか愛してるだとか,君と付き合う人は幸せだろうねとか君みたいな子と結婚したいなんて言葉よりも,ニコライバーグマンのフラワーボックスとかメイソンピアソンのヘアブラシとか婚約指輪とか記入済みの婚姻届の方が欲しい。

有名な言葉に,百聞は一見に如かずで始まるこんなものがあります。

百聞不如一見
百見不如一考
百考不如一行
百行不如一効
百効不如一幸
百幸不如一皇

同じ雰囲気の造語になりますが,私の価値観は「百言不如一行(百言は一行に如かず)」です。たとえばたくさんの言葉で愛を告げられるよりも,行動で示されたいのです。口数は少なくていいし好意や愛情を言葉で伝えるのが上手な人じゃなくていい。ただ会いに来てくれたり贈り物をしてくれたり,行動で示してほしい。プレゼントとかお金を使ってもらうことが全てではないけれど,愛情を示す一つの指標ではありますよね。

最近だと,父親のマンションに泊まったとき,食器棚に並ぶ高級なグラスの中に,私が以前手土産として父親に買って行ったモロゾフのプリンの器が何食わぬ顔で存在していて,そのことから父の愛を感じました。父はシャイな純ジャパだし,私に対して言葉で「大切に思っている」なんて言ったことはほぼないのですが,大した金額でもないのに私が買ったものだからと大事に残してくれている,そのことだけで言葉は無くとも私は大変幸せな気分になれたのです。

 

それでも私は彼の言葉に恋をする

でもやっぱり,ブログに「どんな言葉で君を愛せば、」というタイトルをつけてしまうくらいには私は言葉が好きで。

以前好きだった人は,口数こそ多くないものの,ふとした瞬間に出てくるワードセンスが抜群な人でした。ストレスを感じるけれど,だからと言って何か対策ができるわけでもない,どうしようもないことに対して「神の設計ミス」という表現が咄嗟に出てくる感覚が素敵だと感動してしまい,すっかり恋に落ちました。行動で愛情を示されたいと言いながらも結局口が上手い男性に惹かれがちなところは何とかしなければならないと思っています。遊び人の言葉遣いは本当に巧みだし,私は言葉遣いが巧みな人が好き。どうしよう。

さてそんな経験もあり,私にとって誰かの人格とか人間性って,つまりその人が話す言葉それ自体なんじゃないかと思っていたわけです。

 

人は言葉で自分を作っている

私が最近読んだ本に『人は誰もが多重人格』『あなたはあなたが使っている言葉でできている』という2冊があります。

人は、誰もが「多重人格」 誰も語らなかった「才能開花の技法」 (光文社新書)
 
あなたはあなたが使っている言葉でできている  Unfu*k Yourself

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  • 作者: ゲイリー・ジョン・ビショップ
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どちらもタイトルに惹かれて読んだのですが,2冊とも私が好きなタイプの本(逐一エビデンスが示される学術書的書籍)ではありませんでした。まず前者は対談形式で,質問者の理解度が低くて話がトントン拍子に進まないのと,抽象的な話を具体化するのに文字数を割きすぎていて,私の読書のリズムに合わなかったのです。

『あなたはあなたが使っている言葉でできている Unfu*k Yourself』の方も,外国人著者だったので勝手に私の好みに合うのではないかと思ったけれど,読んでみると全く違い,自己啓発色が全開の本でした。こちらも論拠が曖昧で情報量は少なく,言葉が強いだけという印象を受けました。とにかく誰もにわかりやすく書くということを重視すると,こうなってしまうのだなあと。ただ「勝ちグセ」の話は面白かったです。

さて,それらの本でも述べられている通り,私達は自らの言葉で自分自身を規定して,それにハマるように自分の行動を選択していくことになります。就活でマストと言われる自己分析や適職診断では,まず質問に答える時点で「自分の思う自分像」に寄せて回答していくのです。そして「自分の思う自分像」通りの結果が出て安心し,自分の人格イメージを強固なものにします。そしてその結果に基づいてある程度業界や会社を絞り,就活を進めることになるわけですが,その「自分像」や「人格イメージ」は多くの人が相手によって使い分けているものであって,その人のすべてではないということに注意する必要があります。

たとえば私が最近「私自身のイメージや印象として言われた言葉」には,女神っぽい,裏表がない,少女漫画に出てきそうで現実にはあまりいないタイプ,育ちが良さそう,愛されて育ってきた感じがする,クズ,腹黒い,しっかり者,隙が多い,優しい,柔軟,頑固,感情がわかりやすい,感情がわかりにくい,などがあります。裏表がないよねと言われた私も,腹黒いと言われた私も,感情がわかりやすいと言われた私も気難しいと言われた私も,すべて同じ私です。柔軟と頑固も真逆ですよね。これは,相手やシチュエーションによって,同一人物の話しぶりやその内容が大きく変わることの例です。人がそうして顔を使い分けることを「多重人格」と評したのが書籍『人は誰もが多重人格』でした。

紹介した2冊はどちらも私の好みのリズムで読める本ではありませんでしたが,内容はわりと筋が通っていると思うし,情報量が多くない分わかりやすかったので自己啓発本が好きな人にはハマるんじゃないかしら。

私は図書館で読んだので帯がなかったけれど,今見たら『多重人格』の帯には「隠れた才能が現れる」,『Unfu*k Yourself』の帯には「人生はうまくいく!」とありますね。完全に自己啓発本でした。サクッと読めて良かったです。よかったらぜひ。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます。さやかでした!

クソ男に泣かされるのは私がクソ女だから?

クソ男に泣かされるのは私がクソ女だから?

なんだかツイッターの話が多くて申し訳ないのですが,今日も懲りずにツイッターを使っていて思ったことを書くつもりです。ツイッターって少し見ているだけでも雑多な情報が入ってくるので,ついいろいろと考えさせられてしまうんですよね。見なければ間違いなくストレスは軽減しますが,それはまあ面白くない気がする。ブログを書くにも人と話すにも「そういえばツイッターでさ,」という導入ばかりになってしまうと個人的には気になってきますが,私がそうなら話す相手も大抵そうだし,それだけツイッターが生活に紐付いてるということでそろそろ納得するべきかもしれない。

さて,そんな私の情報源・ツイッターでは,鍵アカウント以外で異性に限らず人間関係の愚痴を言うと,それが知らない人の目に触れる数が増えれば増えるほど「関わる人間はお前自身の質」みたいな調子でなぜか自分の身に起きたことをただ嘆いただけのこちらが叩かれるようになります。叩かれるというかクソリプがついたりクソ引用RTで言及されたりします。炎上というほど激しいものではなくても,こちらがすでに傷ついた状態で発したツイートに文脈も何もわからない外部の人間から突然平手打ちが飛んでくる現象は,まさに泣きっ面に蜂です。踏んだり蹴ったり。弱り目に祟り目。今日も「事故物件男に行き遭ってしまったことを嘆いている女は,まず自分が事故物件でないかを確認したほうがいい」という言葉を見て,胸の詰まる思いがしました。

 

いじめられるのはいじめられる側にも問題がある?

自己責任論というか,お前自身に問題があるのだという論も一理あると思います。自分が変わって解決する部分は確かにあるし,あまりにも他責的で自分が変わろうとしない人は私も好きになれません。私自身,他人の私に対する態度で自分のレベルを測ったりしますし,自分で身を置く環境を選ぶことである程度嫌な思いをすることが減らせると考えていたりもします。

また,過去にこのブログでもこんなことを書いていました。

(中略)セフレに泣かされたり,Tinderの非モテくんへの不満をこぼしたりしている方がツイッターではわかりやすくウケる一方で,そうした負の発信は人の悪意を引き寄せやすく,自分にとってプラスにならないことも実感し始めました。クソ男を叩くツイートはクソ男を叩きたい男女とクソ男を叩く人間を叩きたい人間しか呼ばないんですよ。

ここで一度話が大きくなりますが,私はこれまでの人生で基本的には人に恵まれてきたと思います。人の剥き出しの悪意に触れたり,誰かを陥れようということばかり考えている人と出会ったりすることは,ツイッター以外では全くと言っていいほど経験がありません。

その要因は,勿論ネットと違い匿名性が低いということがありつつも,私自身が選んで身を置いてきた環境が良かったことにもあると思っています。であれば,ツイッターもできるだけ居心地の良い場所に自分で寄せていくべきだろうと。こんな素敵な人と関わりたいな,こんな人たちに囲まれていたいなと思えるような人物像にまずは自分を近づけることが一番だと思いました。

もはや前置きとかそういう次元ではない。 - どんな言葉で君を愛せば、

でもこれって強者の論理というか,原則であってすべてではないというか。ツイッターで140字で語られた前後の文脈もわからない一事実を全てこの「クソ男に悩むのはお前がその程度の女だから」という論に落とし込んで,それを本人にぶつけるっていうのはあまりにも乱暴ではないかと思うわけです。「関わる相手のレベルがお前のレベル」という言い方だとまあ確かに…それはそうだな…と思いますが,たとえば「いじめにはいじめられる側にも原因がある」という話になれば,違和感を覚える方もいるのでは?

ラーメン屋に行くような女だから結婚できないわけではないだろうし,多分ラーメン屋に行けるような女だから結婚できるというわけでもないでしょう。私も好きな人と付き合えなかった時にはすべて自分に原因を求めて「私がもっと可愛かったら」とか「私があのとき◯◯していれば」とか何でも自分を責めるように考えてしまうし,それは就活で行きたかった会社に内定を貰えなかったときも同じでしたが,相手がいることに関して自分にすべての原因があることは滅多にないはずなのです。

だからこそ就活に関しては,就活はマッチングだからと落ちた人を擁護する論調も出てくるのですよね。あなたの能力が低かったとは限らないとか,採用側にも都合があってやむを得ず不採用にされた可能性も高いから,落ちた会社に落ちた理由を聞くよりは受かった会社に受かった理由を聞く方が良いとか。就活は恋愛(婚活)と似ているとかいうことをいう人も,選考落ち勢を擁護する人もたくさんいるはずなのに,そこで似ているとされている恋愛とか人間関係の話になると急に「お前が悪い!」になるのはどうしてなのでしょう。

 

時に行き過ぎる自責論

140字程度で説明できることなんて限られているし,何かを嘆いている人を見てその原因がどこにあるかなんて部外者がパッと見ただけで理解できるわけがないと思うし,またその必要もないと思っています。またツイッターに限らずブログで何文字もかけて説明したところで,私のような匿名アカウントの場合は身バレを防ぐために様々な情報を隠して話す必要があるわけで,結局傍から見て問題の要因を正確に分析することができるわけがないのです。

愚痴を見て一般論にあてはめて分析するのも,男の愚痴を吐く女を見てレベルが低いと見下すのも勝手だけれど,それを本人にぶつけるのはあまりにも乱暴で失礼ではありませんか。

ツイッターならミュートすれば良いとお思いかもしれませんが(確かに私はあまりにも失礼な人間はミュートしますが),「関わる人間のレベルがお前のレベル」論にあてはめれば「クソリプがつくのはお前がその程度のレベルにいるから」ということになりませんか?私はそうやって「クソリプをもらうレベルの人間に見られる」ことが嫌なので,クソリプがついたツイートは多少拡散されて伸びていても削除したことがあります。

でもよく考えれば,どんなにツイッターで良くブランディングしたって,大きな影響力を持ってツイッターアカウントとしての格を上げたって,クソリプはつきますよね。むしろツイートが多くの人の目に触れるようになればなるほどクソリプは増えます。大拡散されたツイートのリプ欄を見ればすぐにわかると思うのですが,大抵そこは地獄です。

つまり,自分のレベルを上げれば完全に嫌な思いをすることが無くせるかといえばそんなことはありません。見ず知らずの人間の泣きっ面に突然平手打ちをキメてくるような人は,特にネットにはたくさんいます。でも私の中には自責論もあって「クソ男に泣くのはお前がクソ女だから」というクソリプは無視したくても胸に刺さってしまうし,「愚痴を言うことは自分がその程度の人間であることを晒すこと」だとか「関わった男を悪く言うことは自分の格を下げること」だと言われれば黙るしかなくなってしまう。

自分の身に降り掛かったことをツイッターでネタにしていいねを集めて,それでやっと飲み込めるくらいの大きさになる感情もあるんですよ。それを赤の他人にいきなり針のような言葉でチクリと刺されたりとか,お前が低レベルで弱いからそんなことが起こるんだと叩かれたりとか,そんなの辛すぎるじゃないですか。

理解してくれとは思いません。ただ,ただ放っておいてくれればいいのに。これは前から思っていたことでしたが,以下の婚活中の女性の一連のツイートを見ていて本当に悲しくなったので,このタイミングでブログに書きました。

本当はこんなに長々と書いてきたので解決策を提示して終わりたいところですが,どうしたらツイッターで自分のことを打ち明けて共感を得ながらクソリプは見なくて済むように匿名アカウントを運用できるのか,私にはわかりません。クソリプと引用リツイートによる説教が嫌いだということ,自責論は行き過ぎると問題だと思うということしか言えなくてごめんなさい。

今夜も酷い言葉を浴びせられている善き人たちが,どうか嫌なことを忘れてゆっくり眠れますように。おやすみなさい。さやかでした。