どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

Fake it till you make it. /その部屋のなかで最も賢い人

最近、『その部屋のなかで最も賢い人 洞察力を鍛えるための社会心理学(原題:The WISEST ONE in the ROOM)』という本を読んだ。

その部屋のなかで最も賢い人 ―洞察力を鍛えるための社会心理学―

世界は、私が自分以外の誰かに対して「賢い!」と言いたくなることで満ちている。ここで「賢い!」と言われて嫌な人がいなければ話は単純なのだが、賢いという言葉は存外扱いが難しい。褒め言葉のようでありながら、あまりに直接的に評価を下す響きをもつ。賢明な人はおそらく、目上の人に対しては勿論、同僚に対しても安易に口にしないだろう。

 

『その部屋のなかで最も賢い人』、その場で最も賢明さを持つ人とはどんな人だろうか。それは単に頭脳明晰な人のことではないというところから本著は始まる。

賢明さには多くの種類がある。(中略)賢明さをどのように分析するのであれ、そこには、人生で最も重要なことには他の人々が関わってくるという事実が反映されていなくてはならない。(中略)したがって、人を部屋の中で最も賢い人にするのは何かを調べるにあたって、人間の心理に着目することになる。それもとりわけ、社会心理学的に。賢明であるためには、人の行動にたいする、最もよくある、最も強力な影響力について理解することが必要になる。さらには、いつ、どんな理由で、人が道を外れ、不完全な判断を下したり、間違った予測を立てたり、下手な決定を下したりしてしまうのかを知ることも必要となる。賢明であるためには、心理学的に賢くなくてはならないのだ。

賢明であるにはまた、見通しの良さも求められる。(中略)賢い人は、個々の出来事を大局的にとらえ、目の前にある問題をより幅広い視野から見ることができる。(中略)賢明さには、手に入る情報が、目の前の問題を解くには不十分であるということを見抜く力も関係してくる。今は正しいことであっても、その先にはまったく違って見えるかもしれないということを理解する力も含まれるのだ。

(pp.9-12 序文)

 

心理学的に賢いとはどういうことか、幅広い視野を持ち見通しを良くするためにはどんなことを知り、何に注意を払うべきなのか。

本書は二部構成になっており、前半では人間の行動についての一般的な原則を扱いながら、賢明さについて確認していく。スタンリー・ミルグラムの電気ショック実験に見る「合理化」する人の弱さ、天災から避難し損ねた人々への非難に繋がってしまうこともある「根本的な誤謬の誤り」など、幅広い事象が取り上げられていた。

事例の数が多いため長い本になっているが、バイアスについて書かれた本を多少読んだことのある人にとって、然程目新しい内容はなかったように思う。またそうした知識がほとんど無い人にとっての入門書として書かれているかというと、そういうことでもない。バイアスは知識さえ備えれば防げるという単純なものでもないので、他で学んだあとこういう一つの流れに沿って広くさらう本に時々立ち戻り、「賢明さ」を血肉にしていく……というような付き合い方が良いのかもしれない。

かなり微妙な書き方になってしまったが、私個人はこの本を面白いと思ったからこのブログを書いているということは間違いない。

 

さて後半では、前半で確認した原則を用いて、幸福の追求などの重要な課題に対処する方法を確認していくこととなる。

部屋の中で最も賢い人はさらに、生活の質を全体的に評価するということは、一瞬一瞬の苦しみや喜びの体験をただ足し合わせていくことではないということもよくわかっている。全体的な評価はむしろ、毎日の体験に自分が与えるもっと幅広い意味によって決まってくる。(中略)自分の仕事について説明するように求められたNASAの二人の掃除係について考えよう。ひとりは、自分の仕事は施設を綺麗にすることだと答えた。もうひとりは、自分の仕事は宇宙飛行士を月に送る手助けをすることだと答えた。どちらのほうが自分の仕事により満足しているかを推測するのは難しくない。

(p.126 部屋のなかで最も幸せな人)

この掃除係の例話については、昔から似たようなものがよくあるはずだ。私は自己啓発本なんかでよく用いられる「三人のレンガ職人」を思い出した。同じレンガを積む作業をしている三人に何をしているのか尋ねたところ、それぞれ「レンガを積んでいる」、「壁をつくっている」、「大聖堂をつくっている」と答えたのだが、このとき三人の中で誰が最も幸せでしょう──もちろん大きな目的意識を持っている大聖堂の人ですよね、という、あの寓話である。

 

仕事の話で例えてしてしまうと何だかいかにも意識の高い、自己啓発本に頻出の話題に思えてしまうけれど、作業ではなくもっと好ましいものに置き換えるとどうだろう。生活の質を全体的に評価するということは、個別の経験の足し合わせではない。それはもしかしたら、お得感の積み重ねはそれだけでは幸福な人生を構成しない、という話でもあるのではないか。

 

安くて多くて美味しいお店を紹介して人気を集めるインフルエンサー。長時間の作品から触りだけ切り取ったショート動画を見て満足する人たち。コスパ(費用対効果)にしろタイパ(時間対効果)にしろ、自分のかけたものから最大の見返りを引き出すことを多くの人が求めている時代。「中学受験で苦労して中高一貫校に通った挙句、最終学歴がその大学ではコスパが悪い」なんてツイートを見かけることも少なくない。

でもそのお得感は、自分の人生が幸せだったかを考えるとき、本当に意味を持つだろうか。中学受験をせずに中学受験をした人たちと同じ難関大学に受かり、費用対効果の良さを基準に食事を選び、時間対効果の高そうな動画を見ることを趣味として、嗚呼なんてコスパの良い人生だろうと、喜びに打ち震える日はいつか来るだろうか。

 

あまり親しくない友人たちとの飲み会を断って一万円をセーブしたときの「浪費しなかった」というささやかな満足感を、そっくりそのまま思い出すことはきっとない。たとえばその節約が留学費用の捻出という目的のあるものだったら、留学という記憶に紐づけて、そういう我慢もあったといつか笑うかもしれない。あるいは断らずにその会に参加したら、より親しくなった友人たちとの良い思い出になり、いつか話題に上がることもあったかもしれない。でも、楽しかったかわからない会にお金を払わず過ごしたこと、そのこと自体に感じた達成感は、自身の人生の幸福度評価に影響するとは考えにくい。

 

では幸せな人でありたいとき、お得感よりも何が力を持つのだろう?

詳しくは本書の別章で触れられているところだが、行動は感覚や信念に影響を与えるという。人は外的な行動から内的な状態を推論するが、これは他人に対してだけ行われるのではない。たとえばロックとクラシックどちらが好きかと聞かれたら、より時間やお金をかけて聞いているのはどちらかを思い起こして答えるはずだ。誰かのことをどれくらい好きかを考えるとき、その尺度として(その人のために)何をどれくらいしてきたかを用いるだろう。そうなれば話は簡単だ。自分は幸せだと思いたいのなら、振り返ったときに幸せそうだと思うことをし続ければよい。

幸せな人のように行動すれば、幸せな人になることがもっと容易になるだろう。選ばなかった道や選択を悪く言うことにエネルギーを費やしてはならない。自分が損な役割を押し付けられるような社会的な比較を避ける。今の生活において欠けているかもしれないことについてくよくよ考えるよりも、かつて体験した素晴らしい時期や過去に味わった幸せを大切にする。それと同時に、今現在の自分の幸せをもっと高めてくれるような体験を見つける。(略)

自分の幸福感や満足度を高めるための具体的な助言を記した本は数えきれないほどにある。(中略)そうした膨大な数の本の内容をここで要約はしない。それに、豊かな社会生活を送ったり、心が温かく人を惹きつける相手を選んだり、満足を得られる仕事を見つけられるよう勧めたりもしない。こうしたことがらは幸せと強く関連しているが、個人が完全にコントロールできることではないからだ(満足を得られる社会生活を送ろうとか、愛情深く刺激的なパートナーや充実した職業をもとうと自分で決めることはできない)。

(p.221 部屋のなかで最も幸せな人)

「幸せな人のように行動すれば、幸せな人になる」。そんなことわかっている、と言いたくなっただろうか。

誰かに幸せそうだと見られていることと、実際に本人も幸せであると感じていることとの間には、確かに相関関係があるそうだ。そして幸福と強く関連していることがらは、大抵外的な環境や他者との間に存在している。

 

しかし無力感に苛まれる必要はない。自分自身でコントロールできる範囲にも、できることはあるという。

例えば「ピーク・エンドの法則」。休暇を素晴らしいものにしたいなら長さよりも体験の中身が大事で、その体験の最高な部分を休暇の最後に計画できるのが一番良い。仕事に感じる憂鬱さを軽減したいなら少しでも楽しい仕事を最後に持ってくること。

それから、物質的な所有よりも体験にお金をかけること。体験という買い物は有形のそれと違い、他人と比較してその良さが減少することがほとんど起こらないらしい。パソコンや車、マンションについて他人のものの方が良く見えれば惨めな気持ちになるが、自分の体験をほかの誰かのもっと楽しそうな思い出と取り替えたいとは感じないのが人だという。

そして、能動的に目標に向かって活動し続けること。幸福を促進したり気分の落ち込みを解消したりするのに有効なのは、何かを所有することではなく、何かをすること、できれば目標に目を向けた努力や前進であるという。テレビを見ることよりは読書をすることの方が良い。活動に没入するフロー状態から得られる満足感は、行動なしには得られない。

ほとんどの人は、したけれども悪い結果に終わったことよりもしなかったことに注目する傾向がある。実験の被験者たちが最大の後悔を挙げるよう求められると、二対一の割合で、行動したことよりも行動しなかったことについての後悔を口にする。さらに具体的に、人生における最大の後悔は、自分がしたことに関わるものか、自分がしなかったことに関わるものかと質問されると、後者と答える人の方が三倍多かった。

(pp.231-232 部屋のなかで最も幸せな人)

 

本著の序文にあったとおり、「賢明さをどのように分析するのであれ、そこには、人生で最も重要なことには他の人々が関わってくるという事実が反映されていなくてはならない」。後半の課題対処の章で語られたとおり、「豊かな社会生活を送ったり、心が温かく人を惹きつける相手を選んだり、満足を得られる仕事を見つけ」たりすることは、「幸せと強く関連しているが、個人が完全にコントロールできることではない」。自己完結する世界はとても限られている。

だが、自分の人生を幸せなものにするために自分で動くことが必要なこともまた確かだ。行動して悪い結果に終わったことよりも、行動しなかったことの方が人の心に影を落としやすい。「選ばなかった道や選択を悪く言うことにエネルギーを費や」さないためにも、単にそう意識するだけではなく、自分や誰かの幸せのために動いている方がいいはずだ。「今の生活において欠けているかもしれないことについてくよくよ考えるよりも、かつて体験した素晴らしい時期や過去に味わった幸せを大切に」すること、そして、していることへの没入状態から得られる深い満足こそが、私たちを幸せな人にしていく。

 

私が一番苦しかった時期に、ある種そこから逃れるように入れ込んだ大好きなバンドも、そんなことを歌っていたっけ。

It's easy to give someone the finger

But it's a waste of time

I'll clean my room

I'll focus on what I got

Cigar Store - song and lyrics by SHANK | Spotify

 

そういえば、こんなフレーズも昔からある。

“Fake it till you make it(うまくいくまで、うまくいっているふりをしろ)”.

私たちが何者であるかを決めるのは、所有物でも信仰でもなく私たちの行動、つまり何に時間を費やしているのかであるという。幸せなときならそうするだろうと思うことを、どんなに小さく思えても、今の自分では値しないかもしれないと思っても始めてみる。そのささやかな一歩が思いもよらぬ大きな結果に繋がっていくことは、“Fake it till you make it.”の周知性が示すとおり大衆知であり、この本が改めて明らかにしていることでもある。

 

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさい、さやかでした

「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか」

私が社会人になって丸四年が経った。この春入社してくる学部卒の新入社員は、もうほとんどが大学すら被っていない世代だ。

年が近ければ気持ちがわかるなんてことは残念ながらないけれど、二年前ならきっと思い出せた当時の不安が今の私にはもう見えない、そこにあったことすら忘れてしまっている、そういうところはきっとある。

 

さて、インターネットの海は夥しい量の文字で満ちていて、一秒視界を通るだけの「新社会人へ」みたいなツイートは勿論、数分かけて読んだ論文ほどの長さのブログだって、一年経って思い出せることの方が少ない。ほとんどが自分をただ通過するように滑り落ちていく。新卒の頃の悩みと同じように、忘れたことすら忘れてしまう。

でも一度そうして読み流してしまったって、その文章の価値は、重みは、必ずしもそこで確定しないとも思うのだ。

 

わたしがまだ大学生だった、2017年の春。

あるテキストサイトに「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか」と題された文章が投稿された。導入はこのとおり何の変哲もなく、とても春らしいものだった。

就活生は入社に際して希望部署というものを会社に届けでるのだが、希望というのはあくまでも望みに過ぎず、多くの場合希望とは異なる部署へ配属される。

ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか? – 夏目新舎

 

私は学生時代から、これを書いた人のファンだった。インターネットの海が広く深くても、彼の書く日本語以上に好きなそれは、今でもなかなか見つからない。

それなのにこの記事を初めて読んだときのことを、私は覚えていないのだ。当時必ず読んでいたはずなのに。

学生時代過ごした自室よりも、気持ちはぐちゃぐちゃに散らかったまま、与えられた仕事だけはこなしていつか悔しいとか苦しいとかも思わなくなっていた。

「まあこれからだよな」なんて、自分に言い訳もするけど不安じゃなかったって言ったらもちろんウソだった。むしろ、不安だったからこそ心の中は自分の言葉でいつもうるさかったんだろう。わかっていた

私がこれをもう一度発見してボロボロ泣いたのは、社会人になってから、更新が途絶えてしまったそのサイトを未練がましく読み返していたときだった。三年経ち会社員になった私は、学生の頃には記憶にも留めなかった言葉を、拾い上げることができるようになっていた。

 

カニにだって、ヤツなりに希望とかあったんじゃないか。俺は一度だってカニの気持ちを聞いたことがあっただろうか。

カニの気持ちを想像していたら、いつの間にかカニと俺が同化して涙が溢れそうになってきた。俺も思うところがあるから、泣いてしまう。カニが自分の仕事をどう受け止めるか。それはカニに残された尊い自由だから、誰にも否定はできない。誇らしく思うのも、恥ずかしく思うのも彼次第だ

読んだ私も、思うところがあるからボロボロ泣いてしまう。カニは俺であり私だし、もしかしたらあなたでもあるかもしれない。気になる人は「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度だって考えたことありますか? – 夏目新舎」を読みに行ってほしい。

 

たしかにカニじゃなくて他のポケモンにひでんワザを覚えさせてもクリアはできただろうし、代わりがきかない仕事ではなかったかもしれない。けれど代わりがきかない仕事なんてのはこの世に数えるほどしかないと思うのだ。

自分が望んだ役割でなくとも、関わった一部が結果となってどこかに残ればそれはとても尊いことだ。きれいごとや言い訳を言いたいのではなくて本当にそう思う

 

残念ながら「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度でも考えたことありますか」が掲載されたテキストサイトは既に閉鎖されていて、普通に検索して読むことはできない。

希望とは異なる部署へ配属され、誰がどう見たって代わりがきく仕事ばかりをして、本当にこんなふうに日々を過ごしていていいのかと、ごく一般的な不安を抱える新入社員。そういう普通の人が不安の中で藁にもすがる思いで読むのが、普通の不安を甘く煽って退職をすすめるようなインフルエンサーの無責任な言葉より、「ひでんマシンばかり覚えさせられているポケモンの気持ちを一度でも考えたことありますか」だったらいいなと思って、今回ウェブアーカイブから勝手に引っ張り出してきている。

 

「自分が望んだ役割でなくとも、関わった一部が結果となってどこかに残ればそれはとても尊いことだ」。 最初からそんなふうに達観する必要はない。

それに、ポケモンの気持ちを考えていたら泣いてしまった人の文章を読んで泣いてしまう私を、意味がわからないと思われるのも全然いい。まともな感覚だ。

 

でも普通の人が、自分が望んだ役割で自分が望んだ結果を得られなければ幸せじゃないとか、それだけが自分の人生を自分で掴み取るってことだとか、そんなふうに煽られて世界を狭めて、手中にある何かを捨てようとするとき。そんなとき、そういえば地味な仕事ばかりさせていたポケモンの気持ちを考えて泣いた人とそれを読んで泣いていた人たちがいたなって、ふと思い出して踏みとどまるきっかけになることがあるなら、それ以上の幸せはないと思っている

 

 

ところで、本だったら読み返したいときに読み返せるのに、ネットの文章は静かに消えてしまうことがあるのって本当に怖いですね。もしかして他人が閉じたサイトを、単純に好きだからという理由でアーカイブから共有する私の方が怖いですか?

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。おやすみなさい、さやかでした

『コンサルティング会社 完全サバイバルマニュアル』

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こんにちは、さやかです。私はミーハーなので、みんなが買っているメン獄さん著『コンサルティング会社 完全サバイバルマニュアル』を読みましたし、みんながやっているようにこういう写真も撮りました。

今回は、これってアレじゃん…こんなんさァッッ 絶対コンサルじゃなくても役に立つじゃん!という話です

 

ミーハーかつ隙有らば自分語りな私は、これは自分の今の仕事で言うとここの話だな、活かせるやつだなと手の届く範囲に落として考えがちです。こと実用的な本に関しては、今の自分のレベルに落として考えるのはそう的を外してもいないと思っているところがあり……

実際、業務の流れを考えれば、押さえて進むべきポイントは本著に書かれているコンサルのお仕事とそう変わらないと思うのです。決定権を持つ人に頷いてもらわないことには進まないし、関係者と仲良くなる必要はなくても互いにある程度の敬意と信頼がなければ最良の結果は望めない。通常業務で考えてもそうだし、社内のプロジェクト単位で考えてもそう。

誰もが不確定なことに対して決断を行うのは抵抗感があるし、特に企業で働く一般社員であれば、その決断にどの程度の責任が伴うのかを慎重に考えるだろう。

では、どのようにしてクライアントが抱く抵抗感を払拭するのか?

(p.206  クライアントの承認を勝ち取る)

コンサルとクライアントはお金を払われる側と払う側としては立場がはっきりしていて、それが故の苦労は本著でも描かれていましたが、縦割り組織内の人間同士で実行する部署横断のプロジェクトには、また別のやりにくさがあります。

誰がそれを決められるか、その背中を押せるのは誰の賛成とどんなデータかといったことが肌感覚レベルでわかることが多いのは強みになりますが……

できる人・できない人とラベリングしてしまうような思考は、自ずと接し方や口調に表れる。表面上、取り繕っても、敬意のない人間の行動にまわりはすぐ気づくものだ。そんな一つひとつの振る舞いの綻びが人間関係の不信感へとつながり、関係者間に深い溝をつくってしまう。(略)上層部から与えられたミッションを持った中央・経営側の人間として振る舞い、現場の声や懸念点に十分な関心を払わずに、一方的な仕事の進め方をすれば、現場からの不信感は日々膨れ上がっていく。やがて、あらゆることに現場サイドの協力を得ることが難しくなり、窮地に追い込まれることだろう。

(pp.155-156  社会人3年目病に気をつけよう)

読んでいて、自分もある業務では「現場の人」でありながら、別軸のプロジェクトに入ると別の「現場の人」を話の通じる人かどうか、承認を得ないといけない人かどうかを、どこかで常に考えてしまっていることを思い出して心臓がヒュッとなったり。一方でミッションを持った人間としてことを進めなければならないときに、「現場の人」としての自分のポジションは少し居心地の悪いものになっていったことを思ったり。

 

はい。例の如く自分語りになりましたが、それくらいコンサルでなくても全然自分のものとして読めるということ、その上で、自分の人生には起こらなさそうなエピソードから展開してこの着地になる面白さを伝えたかったので問題ないです。私はこのマウスの話が好き。

私がExcelをマウスを使って操作しているのを見たヤマウチは、マウスを取り上げ、「次マウスを使っているところを見たら、手を切り落とす」と言い放った。

(p.31 コンサルタントのアイデンティティとしての“速さ”)

上のポジションの話は自分が上がったときに読むともっと感想が厚くなるだろうな。『コンサルティング会社完全サバイバルマニュアル』という名の会社員サバイバルマニュアル、面白かったです。

そういえば、これってアレじゃん…こんなんさァッッ 絶対コンサルじゃなくても役に立つじゃん!という感想から書き始めましたが、本の帯にしっかり「どんな業界でも使える門外不出の秘技!」と書いてありました。こんな風に注意力不足によって見落として、わざわざ再発見して喜ぶちいかわでも楽しく読めます。ぜひ。