どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

ほら、寝かせた方が美味しい鯛もあることだし

「異性の友人と関係を拗らせて気まずい!どうしたら元の『良い友達』に戻れるだろう?」。

そういう悩みを一度でも抱えたことがある人は、世のラブソングなんかを聞いている限りそれなりにいるのではないかと思うし、少なくとも私はある。あった。すっかり忘れていたのだけれど。

 

さて、ご存知のとおり世間には「鉄は熱いうちに打て」という諺がある。辞書を引くと「(鉄は熱して柔らかいうちに鍛えて有用な形につくりあげることから)①人も精神が柔軟性に富む若い時代に有益な教育を施さなければならないということのたとえ。②手遅れにならないうちに処置を講ぜよということのたとえ」と出てくる。

確かに人生においては、逃してはいけないタイミングがある。「チャンスの神様には前髪しかない」なんて言葉で例えられたりもするように。でも、そんな話ばかりでもない。全く同じ機会こそ無くとも、幸運は形を変えて巡り巡ってくる。

話を鉄に戻そう。熱いうちに鉄を打ったほうがいいのはあくまでも鉄を打つ人間が冷静なときであって、我を忘れたまま、熱くなっている鉄を何とかしようとしたところで、大火傷をするのが関の山だ。いや、鉄の話に戻しても何のことかさっぱりわからないな。

私が今回報告申し上げたいのは、時間にしか解決できない拗れというものが確かに存在しているようだということ。焼け石に水をかけても無駄だが、石を焼く火は範囲内で燃えるものが尽きれば消えるように、そして焼かれなくなった石は素手で拾えるほど冷えていくように、時間にまかせてさえおけば解消される問題があるのだ。

 

三年前、大学生だった私は拗らせていた。最近会った先輩に「拗らせてるね」と言われてしまった性癖のことではない。友人との関係を拗らせた。人間関係も生活圏もズブズブに被っている学部の男友達を好きになり、いろいろあって寝るようになり、いろいろあって拗れに拗れていた。

基本的には、異性とは一度寝たら寝たことがない異性には二度となれない、それ以上でも以下でもないと思っている。枕を交した程度で壊れるような関係性なんて、最初からなかったのと同じようなものだし、いい友達であることと男女の関係があることは余裕で両立する……というよりも、それぞれ独立した事象であると考えている。

ただ、学生時代に拗らせてしまった彼とは、いろいろあったのだ。いろいろ。性格の相性とかタイミングとか、とにかく全ての要素がお互いに望ましくない方向にはたらいた。当時の私は目の前で熱くなる鉄をどう扱っていいのかわからなかったし、今思えばそれは相手も同じだった。何とかしないといけないという焦りしかなくて、それは全く役に立たないどころか、却って状況を悪化させるような行動にばかり繋がっていたように思う。

どうしようもなかった。すっかり気まずくなったまま別れたし、今後一生気まずいものと思っていた。

 

時は流れ、三年後。気まずさに頭を抱えていたことも忘れた頃になって、ひょんなことから彼と再会した。拗らせ倒していたのが嘘みたいに楽しかった。三年間の私は、問題解決の為の努力は何もしていない。時は最良の薬。果報は寝て待て。待てば海路の日和あり。

実際、関係を拗らせた事実はどこまでいっても無くならない。でも「あの頃私たち拗れてたね」と笑えたとき、出会ってから数年を経た中で、今が一番いい関係だと感じた。

 

熱いまま打って整えようとするほど歪になっていく鉄の塊があって、修復するには万策尽きたと感じたら、諦めて寝かせる方が良いのかもしれない。諦めたことさえ忘れた頃に、冷えたそれを見つけて拾い上げて。そのときそれがどんな歪な形に成っていても、懐かしんだり笑い飛ばしたりすることができれば、十分に克服だとか関係の再構築という名前が似合う結果になっているような気がする。

寝て拗れた関係を三年寝かせた友人と、お寿司屋さんが五日寝かせて熟成させた金目鯛を食べ、その美味しさに感動しながら、そんなことを考えていた。

時間をかけなくても同じ結果になるのであれば、誰も鯛を寝かせたりしない。時間にしか成せないことがあるのだ。

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打ち損じた鉄のかたちは元通りにも理想形にもならないし、拗れた関係も寝かせたからと言って魚のように熟成はしないけれど、時間をおいて対象の熱をとったりそれと向き合う自分たちが年をとったりすることにはやっぱり意味がある。寝かせている間に、それを歪で可愛いと笑える自分たちになっていた。むしろ、拾い上げて振り返るときに愛おしく思うのは、案外綺麗に打たれた鉄より不細工な方だったりもする。

 

三年前の私へ。こんなことを言っても信じられないと思うけれど、今一生死ぬほど気まずいと思っているその男と「あの頃死ぬほど気まずかったね」と笑って話す日が来ます。来るし、そのとき私はあなたが彼を好きだった理由を思い出し理解こそすれ、同じように彼を好きになることはありません。大丈夫。全部大丈夫になるので安心して眠ってください。

最後までお読みくださったあなたへ。ありがとうございました。おやすみなさい、さやかでした

悪魔的な味

(※2021年9月19日にnoteで公開した内容です。noteからブログに移した2023年3月7日現在、言及先の二つのネットニュース記事が削除されているため、当該リンクをインターネットアーカイブのページに差し替えています)

 

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常人だと思っている自分の理解がおいつかないような犯罪をおかした誰かを、常人ではないと思いたくなるのはわかる。異常な事件は悪魔だから起こせることで、悪魔さえ見つけ出して捕まえて罰してしまえば他の人間は平和に暮らせると思わないと、平気で他人を信じて生きていけない。その感覚はおかしくないと思う。でも実際、人間はそんなに単純じゃない。一つの顔しか持っていない人は多分いない

 

ここに、一人の女性が起こした一つの事件を取り上げた記事が二つある。同一の事件を扱っても、書き手が当事者にどんな仮面を被せて取材し論ずるかによって、読後、その人について抱く印象は大きく異なる。

  • NHKニュース
  • FNNプライムオンライン

あまりに色が異なり単純に比較できるものでもないが、同一の事件を取り上げて同じ「社会部記者」の方が書いた記事であるという点については共通している。NHKの記事は「夢は、航空会社の客室乗務員になることだった」「誰にも相談できず、1人で悩み苦しんでいた」彼女の顔を照らし、事件の要因を彼女の外である環境にも見ていた。一方、FNNの方は終始彼女の異常性を強調し、彼女の中に悪を見出している……くらいのことは言ってもいいだろうと思う

 

先の両記事を読んだ勢いのままこのnoteを書いている。書きたいのは、女性だけでなく父であったはずの男も罰せられるべきだとか、被告の罪に対して量刑が重すぎるとか、そういうことではない。全くそう思ってはいないわけではないけれど、とにかく今の日本では嬰児殺しは犯罪だ。一人で空港のトイレで出産し(!)、子どもを殺めてそれを隠蔽した彼女の行動に、皆が皆同情すべきと考えてはいない。

でも彼女を悪魔のような女性と見做して酷く罰することで、誰がどう救われるのだろう?世界はどう良くなるだろう?

 

彼女が犯行直後にアップルパイを購入して食べていたのは、我が子を手にかけても平気でいられる悪魔のような犯罪者だったからだろうか。それとも彼女が普通の人間だったからこそ、尋常ならざる事態を受け止めきれず、正常性バイアスが働いてそのような行動に至ったのだろうか。どちらにもとれると思う。そして前者の方がおそらく、多くの人にとって感覚的に正しそうな考えだとも思っている

 

彼女が飛行機の中で産気づき、着陸後に一人でトイレで出産したことについて、いずれの記事も余りにサラッと書いているけれど、尋常ではない。清潔な環境で専門家に取り囲まれて行って、それでも苦しく危険な分娩を、たった一人、公共トイレで遂げた。FNNの記事で「出産から殺害までにかかったのは、わずか43分間だった」と書かれている部分だ。助けも呼べず、文字どおり一人きりで全ての痛みと葛藤を飲み込んだその43分を「わずか」とは、私には言えない

 

しつこいようだが、嬰児殺しは今の日本では犯罪だ。より正確に言うと、嬰児、生まれたばかりの子だけではない。妊娠12週を過ぎると中絶手術 にも役所への届出が必要になり、妊娠22週を過ぎた胎児からは、親であろうとその命を奪うことはゆるされなくなる。そして、彼女が妊娠の診断を受けた妊娠7か月(24-27週)というタイミングは、日本で中絶手術を受けられる妊娠21週と6日までという期間をとうに過ぎている。その時点で彼女には、生むという選択肢しか残されていなかった。

避妊をするかしないか、妊娠を疑うか疑わないか、妊娠を知って親や誰かに相談するかしないか。傍から見れば彼女は確かに誤った方を選び続けてしまったように見える。ただ、しなかったのではなくできなかったのではないかと考えないと、結果的に彼女のような選択をしてしまう人を減らすことはできないだろうと思っている

 

嬰児殺しは殺人だ。被告は殺人犯にあたる。それは間違いがない。ただ彼女の他の行為についてまで、異常な人間性の根拠として論うのは何のためだろう。

中絶手術を受けること、病院で産み育てること等が経済的に難しかったと証明する必要があって、裁判でお金の使い道について掘り下げられるのは当然だ。そもそも彼女が風俗で働き客の子を妊娠したところから事件が始まっている為、なぜその仕事をするに至ったかも十分に事件の文脈となっている。

それでもマスメディアの社会部の記者が「客とのあいだにできた赤ちゃんは、就職活動に邪魔だったのか。それとも“アイドルの追っかけ”の足手まといだったのか。何のための美容整形なのか」と、彼女を貶めるような記事を書いてどうなるのだろう、と思わずにいられない。社会どころか一人の人間についてさえ、一面的にしか書いていない。個人的には、本来ツイートやnoteで吐き出しておくべきお気持ちポエムでしかないと感じた

 

ネットではFNNの記事を好意的に(書き方を面白がり、被告を人にあらずと断ずるように)受け止めている人が多い様子だ。つまりウケている。

それはそうよね。タイトルだって「誰にも言えなかった妊娠」より「“就活女子”赤ちゃん殺害後にアップルパイ 法廷で語る風俗バイトとアイドル追っかけ」の方が明らかに異常で人の興味を引くし、あの書き方をされたら読み手が彼女をヤバい女と断じて面白がることは本当に簡単。書き手としては、お手軽に注目を集められておいしいのでしょう。

でもそれって本当に、大きなメディアのニュースサイトが、一人の元大学生の尊厳を傷つけてまでする価値のある仕事でしょうか。

FNNプライムオンラインは、FNN(フジ・ニュース・ネットワーク)が運営するニュースサイトです。
編集方針として掲げているのが「“これまでの常識が通用しない”未来を予見するサイト」です。
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「FNNプライムオンライン」はどんなサイト?|FNNプライムオンライン

 

ここまで書いてみて改めて、わたしがFNNの当該記事を批判する理由に不快感以上のものはないとわかってしまったのだけれど、それでもやっぱり言わずにいられない。どうなんですか、あの記事

 

特殊性癖

 

好きな人に撮られた自分の写真写りがいいと嬉しい。確かに好かれているなと感じる。

変なタイミングで妙な写りの写真を撮られるのは恥ずかしくて嫌だ。だが一方で、そこには別の喜びがあったりしなくもない。

寝顔とか化粧中に鼻の下が伸びている顔とか、撮られているとわかったら恥ずかしいので絶対に嫌がる。嫌がるけれど、そんな可愛くないところを楽しげに撮影され見せられると、正直なところ嬉しくなってしまう。好きだよと言葉で言われるよりずっと刺さる。

こういう風に顔を横に伸ばして笑われるとかも無理だ。愛が深くて震えてしまう

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近年のありのままの自分を認めようムーブというか、生きてるだけでえらい!みたいな無責任言葉の流行が、私はあまり好きではないのだけれど。それでもやはりわたしの中にも、よそ行きじゃない自分を認められたいみたいな気持ちがあるのかしら。「だから好き」より「でも好き」の方が強いとか、思っちゃってるのかしら

 

でも本当に、好きだよって口で言うのは簡単で。事に及んでいるときなら尚更。簡単だから意味がないわけではなくて、勿論それが必要なとき、簡単だからこそそれをされないことの意味を考えてしまうようなときもある

 

ただ、時間を割いて会いに行ったり顔を触って遊んだり、それって私の中では一言「好きだよ」と言うよりもずっと相手を選ぶことだ。両手で頬を伸ばしてそれを笑うなんて、本当に愛おしく思っている相手にしかできない。私はね

自分がそうだから相手もと考えるのは乱暴かもしれないし、己の「好きだよ」という言葉を私よりずっと重く見て「簡単に好きとか言うと言葉が軽くなる」という論理で動く恋人と衝突してはいるので、気をつけようとは思っているのだけれど。とにかく私はこういう行動に愛を見出す性癖持ちですというカミングアウトでした

 

「好きだよ」もキますけれどね。実際。

言葉より態度とか、時間を割く割かないとか、全部相対的な話です