どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

何を言えるかが知性 何を言わないかが品性

「何を言えるかが知性 何を言わないかが品性」という言葉を有名にしたのはどうやらスピードワゴンの小沢さんらしいけれど、彼の言葉なのか出典が他にあるのかはよくわからない。定期的に誰かが思い出したように自戒の念を込めてツイートしてはバズらせているフレーズで、正直個人的にはもうお腹いっぱいだ

何を言えるかに知性が表れ、何を言わないかに品性が表れる。確かに私もそう思うのだけれど、この言葉はちょっと独り言的だなと思っている。独り言的というか、主に独り言として成立する言葉について語られている気がするというか。だからこそ独り言が多いツイッターの人々にウケてバズるという側面もあるのかなと

 

ツイッターの使い方は人それぞれで、特定の誰かに対して言葉を発するツールとして用いる人もいる。特定の誰かに言うつもりでツイートし続けると自分をその特定の誰かだと思った人がフォロワーになってくれるらしいので、フォロワー獲得の目的で特定の誰かたちに話しかけるような言葉の選び方をする人もいるのだろう

一方、私みたいにただの自分語りかアレクサに話しかける体をとった自分語りしかしない陰キャもまあまあ存在している

こうした誰に向けるでもないし誰に求められているのでもない言葉も含め、とてもざっくりと広い範囲の言葉について語るのが「何を言えるかが知性 何を言わないかが品性」であると私は思うのだ。汎用性が高く、一般的で、だからこそ皆に響くのだろう

 

でも少なくともわたしに限って言えば、ツイッターで不特定多数に向けて発信する言葉と、相手がある状況で何かを伝えようとする言葉は別物である。だからこそ「何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性」と自戒を込めてツイートした後、この素敵なフレーズを日常の具体的な行動に落とし込もうとするとき、その言葉を発した自分が知性的に見えるか上品な人だと見られるかを考えるよりも先にすべきことがあるように思えてしまう

 

個人的に、目の前に相手がいるコミュニケーションにおいては、互いの立場に関わらず必要な言葉を言えるかに大人としての成熟度、相手にとって余計な一言になる言葉を言わずにいられるかに想像力の豊かさが、それぞれ表れる気がしている

「ありがとう」「申し訳ない」このあたりの言葉が本来は必要となる状況でも、部下や後輩等の目下の人を相手とするとき、言いたくない・言わなくてもいいという判断をする人がいる。自分より上の立場の時には、謝るのもお礼を言うのも簡単。言えばその場は自分の格好がつかなくなるように思えても、相手の気持ちを慮って必要な言葉を発せられる人が、私の中で大人の中の大人だ

そして、言わない方がいいことを言わずにいられない人、あるいはそれが言うべきでない一言だと判断できない人に欠けているのは、想像力だと思う。想像力が機能しない理由としては経験の不足や思いやろうとする姿勢の欠如等いろいろあるだろうけれど、いずれにせよ品性云々を語るよりもまず単純に想像力を鍛えようとする方が近道なのではないか


成熟度と想像力。これらはどちらも相手を思って発揮するものであって、自分が知性的に見られたい、品性を備えた人間であると思われたいという志向とは異質なものだと思っている

成熟度不足が知性を、想像力不足が品性をそれぞれ損なって見せる(と自分が思う)ところはあるので、確かに結果的にはすべて「何を言えるかが知性 何を言わないかが品性」になる。なるし、ツイッターではとりあえず知性と品性で語っておけば何かそれっぽくなるので良いと思う

 

でもやはり、自分が相手にどう見られるかということに一番関心がある姿勢が明らかになってしまえば、その様子は上品とは言い難いのではないかと思ってしまう……という品性を欠いた殴り書きでした。最後までお読みいただきありがとうございます。おやすみなさい、さやかでした

ゆるすとは自分を被害者役から解放すること

ご存知だろうか。人一倍自己嫌悪を感じる人は、人一倍自己愛が強い人である。

自己嫌悪感は、自分を否定したり責めたりするように見えて、実は自分を守るために機能している。自己嫌悪感の素の一つは、自分が「本当の自分はもっとすばらしい」と理想の自己を高く評価することで、現状の自分に対して抱える不満だ。そしてその不満で覆い隠すことで、理想的でない自分との直接的な対面を避けてもいる。

ツイッター等でも時々「自己嫌悪感が強い」または「自己肯定感が低い」と自分で言っている人を見かけるけれど、よく見ていくと大抵の場合は自意識と自己愛の問題だ。

 

今回は心理学的な「ゆるし」について書こうと思うのだけれど、今私がこれをとりあげる理由は2つある。

ひとつは時効。昔受けた心理学系の講義で取り上げられていたテーマが「ゆるし」や「自己愛」だった。 身バレの可能性等を考慮してあまり具体的に書いてこなかったけれど、もう数年経ったのでさすがに良いでしょう。ちなみに専攻は心理学と無関係だし、このブログはレポートでも何でもないので根拠となる文献を示す等の学術的な行為は省きます。よろしくお願いいたします

 

もうひとつの理由は、自分が「ゆるし」を必要とする状況に陥ったこと。

人を恨むのにもエネルギーが要ると知った日から約2か月経った今、幸せになりたいとか結婚したいとか言いつつも、当時の私には全く想像できなかったほど穏やかな気分で毎日を過ごしている。このタイミングで、またいつか誰かをゆるせないと思うかもしれない自分のために、気持ちの整理をつける上で重視したことを書き留めておきたいと思う。

 

 

さて、今回、タイトルからずっと「ゆるし」を平仮名で書いているのにはそれなりの意味がある。裏アカ女子が「好き」をただ可愛い感じがするからという理由で「すき」と書くのとは違う。

 

心理学的な枠組みで語られる「 ゆるし(forgiveness)」は、許可を意味する「許し」とも宗教的意味合いが強い「赦し」とも区別される。それは他者や自分の言動に伴って生じた否定的な認知・感情を変容させようとする概念であり、傷つかない場合を含む「寛容」や、出来事を思い出せば怒りも戻ってくる「忘却」とも異なるものだ。

 

ゆるしは自分自身だけで無く、自分を傷つけた他者との間にも成立するけれど、許しと違うのは相手の謝罪や懇願を必要としないこと。

 

では求められていない「ゆるし」は、なぜ、誰のためにするのか?

自分のためである。自分のためでしかない。

ゆるせないこと(一次被害)を抱え続けると、精神的・身体的な悪影響(二次被害)があると言われている。ゆるしとは、他の誰でもない自分が、ゆるせないという呪いから自分自身を救うために選びとる行為なのだ。

 

 

誰かを若しくは何かをゆるそうとするとき、一番の味方は時間である。ただし、時間が必ず解決してくれるというわけでもない。同じ時間を経てもゆるせる場合とゆるせない場合がある。

 

ゆるせないという結果に繋がりやすい要素はいくつかあり、対象との関わりや感情の表出を避けるといった行動のほか、「自己愛の強さ」が挙げられる。

自己愛それ自体は生きる為に必要なものだ。

特に自己愛に含まれる自尊感情(自分自身をgood enoughと捉える特性、また自分が少なくとも人並みには価値のある人間であると感じること)には、「相手に報いを受けさせたい」「関わりたくない」という報復・回避の欲求を下げるはたらきがある。これは、ゆるしやすさに繋がる。

 

一方で、誇大型自己愛(肯定的な自己評価を高く維持しようとするはたらき)や、過敏型自己愛(他者により自己価値を低められる証拠がないことを確認して自己評価を維持しようとするはたらき)が高いと、ゆるしからは遠ざかる。

誇大型・過敏型の自己愛が高いと、ゆるしたい出来事によって生じた屈辱感(自己を不当に貶められけなされたという認知に関連し、憎悪を喚起し攻撃性を促進する感情)を通して報復に向かってしまう。傷つけられた出来事がそのまま自己価値への直接的な脅威と感じられるため、自己評価を維持する為にはゆるすことができなくなる。

 

大切なのは、自己愛の一部を成す健全な自尊心。 自分は人並みに価値があると感じ、人並みでしかない自分を大きすぎる自己愛や自己嫌悪で包み隠すことなく「これで良い」と認める気持ちである。

 

 

ここまでゆるしを良いこととして書いてきたことに、相手や自分の行為を大目に見てやるべきだとか、泣き寝入りする被害者が賢いと説く意図はない。

何かをゆるせないと強く感じる要因が歪んだ自己愛である可能性があるのは事実だけれど、これを示すことでゆるさないという選択を批判するつもりもない。状況が様々ある中で、ゆるせない理由は常に自己愛で、ゆるすという選択が常に最善だなんてことは無いのだし。

 

ただ私の場合は、その問題にこだわることでこれ以上自分が時間や気力を消耗したくないと思ってしまって、そのための一番の近道が学生時代に聞き齧った「ゆるし」であるような気がしたのだ。

 

 

ゆるすとは、自分が幸せになる為に、過去の出来事を真に消化して、自分を被害者役から解放すること。

 

たとえば信じた誰かに裏切られたとき、悪びれない相手をゆるそうとすれば、それはなかなかに苦しい時間になる。ともすると傷つけられた気持ちを埋めるだけの誠意を相手から取り返したくなったり、相手も同じだけの痛みを味わってほしいと願ったりしてしまう。誰かを恨みながら生きていくのはもっとしんどいと、頭ではわかっていても。

だから私は「私がゆるすのは、相手自身でも相手の行為でもなく、その人を信じた過去の時点での自分だ」と考えることにした。起きたことを認めた上で、信じる相手を間違えた自分をゆるして、幸せになりたいと思った。

 

 

選んできた道と言うと大袈裟だけれど、この2ヶ月を振り返ると、ゆるすという選択は間違っていなかったように思う。そう思えるように行動してきた自分、まだ苦しい部分もある現状も含めていつか「全部意味があった」と笑えるようにと踠けている自分に、今それなりに満足している。

 

儘ならないことばかりだし失敗も後悔も反省もするけれど、実直に、直向きに、人生をやっていくつもりです

 

私の中の3歳児とリクルート

いつからかは覚えていないが、心の中にリクルートを飼っている。飼おうとして飼ったというよりは勝手に棲みつかれたと言う方が適切かもしれない。

何を言っているのかわからないと思うが、私も何を言っているのかわからない。

わからないなりに推測すると、きっかけはおそらく「デヴィ夫人やマツコデラックスや千鳥ノブやハム太郎を脳内にインストールしておくと自分が変に悩んだり要らんことを言ってしまったりしなくて良くなる」というライフハックをツイッターで見たことだ。私の場合はそれがマツコでもノブでもなく、「お前はどうしたいの?」と問い掛けてくるリクルートだった。

 

普段は大人しくしているリクルートが口を出してくるのは、自分が頭で理解している「すべきこと」と感情的に「したいこと」とが一致しないとき。

たとえば、理性が「結婚願望があるのであれば元彼など忘れて新しい人と関係を築き始めるべき」と言っているのに、感情が「彼じゃなきゃ嫌だ」と言っていた夏とか。

 


リクルートに「お前はどうしたいの?」なんて聞かれなくたって、わかっているのだ。自分が本当はどうしたいのか。

心ではずっと、彼がいいのだと叫んでいた。
それを認めたくないから黙っていた。黙ることで、「彼でなければ嫌だ」という自分の本音から目を逸らした。そんな感情は無いことにしたかった。

しかし、無かったことにしたい感情が本当に無いのであれば、頭で理解している「すべきこと」を実行に移せないのはおかしい。そこには理性を邪魔する何か、例えば自分の感情があるはずだということになる。

そうは言っても感情を認めることはしたくない。

ここで登場するのがリクルートである。

自分の理性でも感情でもないリクルートに「お前はどうしたいの?」と聞かれることで、はじめて私は「わからない」と言える。

わからない、ということにできる。

 

そんな風にリクルートに助けられた2020年が終わり、2021年。脳内の居候が増えた。

 

 

3歳児である。

たとえば誰かの悪意に触れてしまったとき、頭では「私ももう大人なのだからこれくらい平然と受け止めなければならない」とわかっていても、苦しいものは苦しい。誠実に向き合った人に不誠実な態度をとられたら悲しい。つらい。泣きたくもなる。

でもそこで泣き出すのは極めて大人らしくないし、これくらい平気だと強がりたい自分もいる。

そんなときは、3歳の女の子に泣いてもらうことにした。泣いているのは私の中の3歳児であって、24歳会社員の私ではない。そういうことにできる。

 

そして、3歳児はある程度言葉もわかるし、今は泣かないでね、大丈夫だよねと言い聞かせて一時的に宥めることもできる。

でもやっぱりまだ3歳だから、ずっと我慢させ続けることはできなくて、一度泣き出されてしまえば手がつけられない。彼女が泣き疲れて眠るまで、私は身動きが取れなくなってしまう。

 

 

3歳児は、泣き出した彼女に気付いて私がその存在を認めるよりも先に、たぶん何度もサインをくれていた。

私がもう大人なのだからと自分が傷ついた事実から目をそらしたとき、理性と相反する感情に対して耳を塞いだとき、たぶん彼女はずっと悲しい顔をしていたのだ。目には涙も溜まっていたかもしれない。

そのサインを無視し続けた結果がアレだったのだと今では思う。

 

 

心の中にリクルートを飼うことで認めずに済ませてきた感情を、今度は心の中の3歳児の声として認める。

理性的に都合が悪ければ抑制しようとしてきた自分の本音を、完全にはコントロールできない幼児のようなものとして捉え、無視するのではなく宥めながら付き合っていく。

何を言っているのかわからないと思うが、私の中ではそういうことに落ち着いた。

 

もしも折れかけたその足に痛みを感じなければ
君は何も知らず歩き続けるだろう
傷ついたことに気付いてと願うその痛み達は
君を守るためにそこにいたんだよ
── RADWIMPS / One Man Live 

 

RADWIMPSは10年以上前にこんな歌を歌っていた。私が手を焼く私の中の3歳児も多分、私を守るために悲しい顔をしてくれるのだ。

 

用いる概念は3歳児でも痛み達でも何でも良いのだけれど、自分の中の醜くて恥ずかしくてどうしようもない本音に気付こうとすること、その声に気付いて真摯に耳を傾けることが、究極のご自愛であるような気がしている