どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

私を私たらしめるもの

好きになった人の好きなものに弱い。

これまでの人生で、新しい音楽を聞くようになるきっかけは大概好きな人だった。アイドルオタクを好きだった頃は一緒になって乃木坂46にハマった。

今回はそれが、バンドだったのだ。

 

私が最近Spotifyでお気に入りに入れた曲も、それに基づいておすすめされる知らない曲も、ほぼ元彼の影響を受けていると言って差し支えない。Spotifyは年末に「今年たくさん聞いた曲」「今年たくさん聞いたアーティスト」など色々な個別ランキングを作成して教えてくれる。そこで2020年私がよく聞いたアーティストTOP5に入ってきたのは、8月まで一度も曲を聞いたことがなかったELLEGARDENというバンドだった。

8月も終わる頃、出会ったばかりの彼に勧められて、名前しか知らなかったエルレガーデンのアコースティック生配信を見た。一瞬で沼に落ちた。原曲は意外とガチャガチャしてるのねと思いながら好きな曲が増えていって、年末の4か月だけで自己年間再生数トップ5に入るほど聞き込んだ。そのデータを基に私に提示されるおすすめは、当然似た雰囲気のバンドに染まっていく。

 

私にエルレを教えたその人は、冬が終わる前に去って行ったけれど、ご丁寧に最後の夜まで自分の好きなバンドの曲を私のアカウントで聞いていた。おかげで、別れた翌日我が家のアレクサに「音楽流して」と頼んだら、真っ先に彼が保存していった知らないバンドの歌が流れ出した。不意打ちすぎて泣いてしまった。我ながら馬鹿だと思う。

 

一番悔しいのは、こんな衝突事故みたいな出会い方をしてしまったそのバンドの曲も、私はめちゃくちゃに好きだってこと。さすがに勘弁してほしい。

でも好きになってしまって、どうせ当たらないと思って応募したライブにも当たってしまって、好きだった人の一番好きなバンドのライブに、一人で向かうことになった。平日の夜にライブに行けるホワイト部署で働いているのは私だけなので、彼に遭遇する可能性は無いと言っていい。たぶん自慢をする機会もないし、本当にただ純粋に簡単に布教された新規のオタクになってしまっている。

別れてもう未練もないはずなのに、自分の行動はそう言っていなくて笑ってしまう。本当に、勘弁してほしい。

 

悲嘆に暮れ続けるのは元々得意ではない。失恋は確かに悲しかったけれど、今は恋愛とか結婚とか自分だけではできないことに振り回されず自分の人生に集中していくべきなのだろうと思ったし、そうすると決めた。

でも何が好きかで自分を語ろうとするとき、それが手を繋いでは離してきた誰かの欠片から成っていることに気づいてしまって。私が自分自身だと思って提示するものは、想像以上に「私」ではないらしいということに、今更少し打ちのめされている。

それでもとにかく私は私として、私のために、ひたむきに日常をやっていくしかないことだけは、はっきりしているのだけれど

「絶対にイエスだと言いきれないなら それはすなわちノーである」

 

大学生の頃、インターンシップでお世話になっていた会社の上司からよく本を借りていた。読書好きの方々がわたしに勧めてくださる本は、どれも当時の私の好みや状況によく合っていたのだけれど、その中でも特に印象に残ったのは、書籍『エッセンシャル思考 最小の時間で成果を最大にする』だった。

 

 

読後、これは手元に起きたい本だと感じすぐに購入したのを覚えている。何度でも読み返して確認しながら、エッセンシャル思考を長期的に自分の軸としようと思っていた。

 

エッセンシャル思考は、より多くの仕事をこなすためのものではなく、やり方を変えるためのものである。(中略)

「やらなくては」ではなく「やると決める」。「どれも大事」ではなく「大事なものはめったにない」。「全部できる」ではなく「何でもできるが、全部はやらない」。

(グレッグ・マキューン(高橋璃子訳)『エッセンシャル思考 最小の時間で成果を最大にする』かんき出版,2014年,pp.14-15)

 

ところが、最近の私はといえば、できるだけ早く資格試験に合格したいと思いながら、できるだけ早くいい人と出会い結婚したいと真剣に考えていた。同時に目の前の仕事でもできるだけ評価はされたいし、できるだけ勉強もしたいけれどできるだけ友達と遊ぶ時間も欲しい。さらにはできるだけ婚活も進めないといけないような気がしていた。選択ができず、全部やろうとしていたのである。

年始に躓いた恋愛に関しても、結婚したいという気持ちがある以上は何かしていないといけないように感じて行動していた部分が大きい。この人がいいという決め手はないけれど恋人ができるチャンスを逃すのは惜しい気がするとか、断るのを申し訳なく感じるとか思いながら、気乗りしない誘いを予定に入れて、我ながら自分を見失っていると感じていた。

 

欲しくもない好印象を得るためにノーと言えなかったツケを払い、後悔と疲労感を抱えて帰宅し、何もかも中途半端な自分が嫌になった日曜の午後、ふと本棚の白い背表紙が目に止まった。『エッセンシャル思考』だった。

 

エッセンシャル思考とは、「すべてやらなくては」ではなく「やると決める」、やることをでたらめに増やすのではなく計画的に減らす考え方である。これを選んだ人は、本当に重要なことを見定め、自分の中に明確な基準を持って機械的に判断を下す。その基準を満たさなければチャンスに思える話にもいたずらに手を伸ばさない。

 

要するにエッセンシャル思考とは、自分の力を最大限の効果につなげるためのシステマティックな方法である。やるべきことを正確に選び、それをスムーズにやりとげるための効果的なしくみなのだ。

(グレッグ・マキューン(高橋璃子訳)『エッセンシャル思考 最小の時間で成果を最大にする』かんき出版,2014年,p.24)

 

最近の私は、資格の勉強も仕事も友達との交際も婚活も全部できるだけやろうとしていた。自分が本当に望んでいたのかもわからない機会さえ逃すのは惜しい気がするとか、断るのは申し訳なく感じてしまうとか寝言を言いながら。

しかしやはり、本書の言うとおり「絶対にイエスだと言いきれないならそれはすなわちノー」だったのである。

自分が“最”優先できることはいつも1つしかない。そのたったひとつの重要なことを自分で決めて、本質目標を定める。その後の無数の選択は、毎回本質目標に立ち返ってシステマティックに行う。選択肢に向き合うたびにひどく葛藤したり不安になったりしていたら、身が持たないばかりか結局正しい決断を下すこともできない可能性が高い。

 

私の場合、結婚は最も重要なことと本質目標との両方に関係がないものだと整理した。「乗り気じゃない今しなくてもいいかもしれないもの」程度に感じていた婚活は、はっきりと「今手を出すべきでないもの」になったのだ。若い方が婚活は有利だという可能性には目を瞑る。

そしてこれを「結婚を諦める」ととらえる代わりに「目標を優先し一途になる」と考える。必要なトレードオフを「どうすれば両方できるか?」と無視したり「何を諦めなくてはならないか?」と悲観したりするのではなく、「自分はどの問題を引き受け、何に全力を注ぐのか?」という問いにするのがエッセンシャル思考であるからだ。

 

 

さて、他人との関係性の中で生きるわたしたちが、自分でエッセンシャル思考をもって生きると決めたとして、自分の中に明確な基準を持ったとして。その時には大抵の場合、自らの中で弾き出された「ノー」という決断を、いかにして自分以外の他者に示すべきかという問題が浮かんでくるだろう。

断るのを申し訳なく感じてしまうとか寝言を言って、大体結局後悔している私のように。

 

そこで、自戒を込めて、本書の第11章「拒否──断固として上手に断る」に示されているいくつかのコツを書き留めてまとめとしたい。

 

上手にノーという技術
  • 判断を関係性から切り離す
  • 直接的でない表現を使う
  • トレードオフに目を向ける
  • 誰もが何かを売り込んでいると意識する
  • 好印象よりも敬意を手に入れる
  • あいまいなイエスはただの迷惑と考える
断り方のレパートリー
  • とりあえず3秒黙ってみる
  • 相手に歩み寄る代替案を出す
  • 「予定を確認して折り返します」
  • 自動返信メールをつかう
  • 上司には「どの仕事を後回しにしますか?」
  • 親しい間柄なら冗談めかして断る
  • 肯定を使って否定する
  • 別の人を紹介する

 

 

本書では、様々な詩や格言から印象的なフレーズが引用されている。今回ブログの冒頭に載せたのは、その中でも私が一番好きな言葉で、アメリカの詩人メアリー・オリバーの「The Summer Day」の一節だ。

 

教えてください、あなたは何をするのですか

その激しくかけがえのない一度きりの人生で

“Tell me, what is it you plan to do with your one wild and precious life?”

 

「あなたは何をするのですか」、この問いにドキリとした方や、箇条書きにした上手に断る技術が気になった方にはおすすめの本です。よろしければぜひ

 

言葉は文脈が9割

私は、ひとつの言葉や発言をその文脈から切り離して考えることは基本的に不毛だと思っている。

会話の中で出た言葉であれば二人の関係性を無視して何かを判断できるわけがない。公人の発言であれば、記事の全文や番組全体の演出、発信するメディアの持つバイアス、それらすべてが文脈として存在する。

 

文脈から切り取られた一個人の発言が炎上の火種になった例は枚挙に暇がない。

そうした言葉の切り取りが横行していることが明らかな現代において、発言する側はそれらの文脈から切り取られたときに自分の言葉がどう受け取られるかを念頭に置いて話す方が賢いとは思う。でも常に賢くいないといけない世界は息苦しいから、人は非公開にしたツイッターアカウントや有料note、fans等の「誰も自分の言葉を切り取って燃やさない安心できる世界」を作って本音を話すようになるのだ。

 

話が逸れてしまった。

 

先に書いたように私は、原則としては言葉は文脈から切り取るべきではないと思っている。ただ、24年の人生の中でいくつかの例外を知ってきた。

たとえば、仕事で腐りそうだった1年目の冬に、当時付き合っていた先輩に言われた「あなたもちゃんと働いたでしょ、胸を張りなさい」。

情けないけれど、彼と会わなくなり社会人2年目が終わろうとしている今になっても、未だにこの言葉に縋るようにしてやっと自分の仕事を肯定する日がある。文脈の大部分を占める相手との関係性を失っても、私の中で言葉自体の価値が変わっていない。

 

会話の内容という文脈を綺麗さっぱり忘れてしまっても、残った響きだけで自分を救ってくれるフレーズもある。

それはたとえば、大学生の頃に友人が何気なく発した「仕方ないね、神の設計ミスだから」。

通勤時に前を歩く人が残高不足で改札にビターンと止められる些細な苛立ちから、仕事で遭遇する強めの理不尽まで、深浅大小問わず舌打ちしたくなるような瞬間に思い出すのだ。

神の存在を信じているわけでは全くないけれど、誰のせいにもならないように誰かのせいにすると、身体から力が抜ける。便利な言葉。

 

 

わたしは、言葉の意味は誰が誰に向けてどのように発したかで9割ほど決まると思うし、これからも原則として、誰かの発した言葉をそのような文脈込みで理解・判断するようにしたいと思っている。

同時に、文脈を失っても、或いは認識できない状況であってもその言葉自体の持つ力は変わらないという例外も確実に存在することを忘れたくない。

 

 

今回書きたかったのは、誰がどのように言うかは確かに大事だけれどそれが全てではないし、「仕方ないね、神の設計ミスだから」は本当に便利な言葉なのでお口に合えば心の中で呟いて楽になってしまってくださいねという話でした。

 

 

完全に余談ですが、皆で口を揃えて「仕方ないね、神の設計ミスだから」を言い訳にすることができなくなった私たちについて書かれた本が面白かったのでご紹介しておきます。

「神は存在せず、善悪を自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった」

神の亡霊: 近代という物語

神の亡霊: 近代という物語

 

2020年読んだ中で一番好きだった気がする。本についてブログを書くと猛烈に時間がかかるので、後回しにし続けて年を越しました。試験が一段落したら頑張ります。

 

最後までお読みいただきありがとうございます!

おやすみなさい、さやかでした