どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

ひまわりと浮世絵と私

ロンドンナショナルギャラリー展

8月のある金曜の夜、仕事を終わらせていそいそと向かった上野駅。上野公園からは、小さい子供連れの夫婦やカップルがたくさん出てきた。自分が逆走しているような居心地の悪さと、すれ違う人間が全然一人じゃないことから来る寂しさで、一人で来たことを少しだけ後悔する。

 

ただ、結果としては「ロンドンナショナルギャラリー展」には一人で行ってよかったように思う。

以前ブログで書いた「オラファーエリアソン ときに川は橋となる(東京都現代美術館・会期終了)」だったり、ブログに書く前に終わってしまった「おいしい浮世絵展(森アーツセンターギャラリー・会期終了)」だったり、わりと普通に会話しながら見て回れる雰囲気の企画展は友人と一緒だと楽しいし、見方によってはデート向きでもある。

それらと比べるとロンドンナショナルギャラリー展は、曜日と時間帯にもよるのだろうが、会話が憚られる重めの空気感。一人で来ている人も多かった。

今回の展示作品は61点すべてが初来日のもので、本来ならたぶんもっと混雑していたはずだ。感染対策のため事前日時指定券購入制になっているおかげで、混み具合は限定的であり、想像より遥かに大きく精緻な作品に圧倒されて立ち尽くしても、誰かに急かされるということはなかった。

 

わたしは大して美術の素養が無いので難しいことはわからないのだが、本展はとにかく作品自体の圧がすごい。圧倒される。適切に表現するだけの語彙力がなくて申し訳ない。でも圧倒的に良いのだ。とにかく想像以上に大きくて、想像以上に描き込みが細かくて、想像以上に立体感があって、想像以上に美しい。まさに美の暴力だった。

わたしの拙い言葉では到底伝えきれないので、ぜひ実物を見に行ってみてほしい。人に聞くのとも写真で見るのとも絶対に違う。開催は10月17日まで。

 

理解できなくても美しいけれど

先程私は「ロンドンナショナルギャラリー展はとにかく圧倒的に良い」と書いた。完全にバカの感想である。1か月以上前のこととはいえ、ゴッホのひまわり以外の作品名がパッと思い浮かばないあたりにも、私が西洋美術を見るときの解像度の低さが表れてしまっている。ざっくり分けると「大好き」「好き」「上手すぎる」「やや苦手かも」「これがすごい絵だってことはわかる」「何もわからない」程度の感想しかもてない。

 

解像度って、基本的に上がると嬉しいものだと思う。例えばテレビだってほら、4Kがどうとか言ってるのは解像度の話に他ならなくて、4Kの何がすごいのかというと画素数が多くて解像度が高いことだ。

このような画素密度の話が解像度の本来の意味ではあるのだが、私は「どのくらい細やかに対象を認識することができるか」ということも解像度という指標で表現できるのではないかと思っている。対象というのは本当に様々で、あるときは絵画であり、あるときは自分の通勤ルートであり、またあるときは旅行で訪れた見知らぬ土地でもあり得る。

電車や車に乗って通り過ぎるよりも自転車で走った方が、自転車で走るよりも自分の足で歩いたり走ったりしてみる方が、世界をより細部まで認識できます。自分のものになる情報量が増えるのです。

同じ理由で私は、特に時間に追われない旅先では、快速電車よりも鈍行電車に乗るのが好きです。もう二度と訪れないかもしれない場所で快速に乗ってしまったら、その電車が止まらない駅の名前や、どんな人が乗り降りする駅で、周りには何があるのかを知ることは無くなりますよね。

世界の解像度が上がると何が嬉しいかというと - どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

世界は解像度高く見える方が絶対に楽しい、と私は思っている。一般に知識とか教養とよばれるものは、そのために身に着けるのだろうとさえ思うのだ。

 

浮世絵にハマりました

ロンドンナショナルギャラリーは本当に良かった。でも西洋美術に対しては私の解像度は本当に低い。

一方で、日本史の文脈で学んだ「浮世絵」ならば、ある程度の解像度で見られるらしいということに最近やっと気づいた。そして9月は毎週のように浮世絵を見に行き、すっかりハマって今に至るのである。本当は私はこの記事を、上野の東京都美術館で「The UKIYO-E 2020 ― 日本三大浮世絵コレクション」が開催されている間に書きたかった。

 

浮世絵、めちゃくちゃに楽しい。高校大学と日本史を学んだ身でありながら、同じ時代なら西洋の作品はもっとリアルだしなあと浮世絵のことをかなりナメていたのだが、とんでもなかった。奥が深すぎる。

最近見た中で印象深い3つの展示を上げると、

①「おいしい浮世絵展(会期終了)」

②「The UKIYO-E 2020(会期終了)」

③「月岡芳年 血と妖艶」(太田記念美術館で10/4まで開催中)

①はそれこそ、浮世絵がよくわからなくてもライトに楽しいタイプの企画展で、食にフォーカスしたキュレーションがおしゃれだった。②は時代と人ごとに名作がずらっと並ぶ構成は、浮世絵に対する解像度を上げるのに最適な展示だったと思う。

残念ながら①②の2つは終了してしまったのだが、③はまだ開催中なのである。以下に一部の作品を紹介したい。

 

『月百姿』

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月岡芳年 月百姿

こちらは、公家に惚れて都までついて行ったものの身分の差に絶望して海に身投げした巫女。

『月百姿』というシリーズには他にも「夫に先立たれた悲しみで心をやみ様々な場所で大声で文を読み上げるようになってしまった女、千代」も登場する。千代は、現代なら失恋後にツイッターの匿名アカウントでポエムを書き散らす女になっていたのではないだろうか。そう思うと浮世絵が急に身近に感じられてくる。

 

『風俗三十二相』

▽「あぶなさう」

これは実物をよく見ると頬が少し赤い。描かれているのは、酔ってしまい柵につかまり下を向く女。明治時代の限界OLである。

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風俗三十二相 あぶなさう 明治年間当時芸妓の風俗 - 国立国会図書館デジタルコレクション

▽「にあいさう」

遊郭の仮装イベント、俄。仮装して歌舞伎や舞を演じる芸者見たさに多くの人が集まったらしい。実質ハロウィン。

▽「ねむさう」
高いお金を払って買った遊女がベッドで眠そうにしている、と。頑張ってラブホに連れ込んだのに自分がシャワー浴びてる間に相手が寝ちゃってたときの絶望感みたいな感じなのかな。もしかして。

 

『英名二十八衆句』(これは画がグロいので画像はなし)

「勝間源五兵衛」←勘違いで女を殺して腕を組むな
「福岡貢」←勘違いで女を殺した男part2

男たち、訳あって自分に愛想を尽かしたフリをした愛する女を勘違いで殺しすぎ。ちょっと落ち着いてほしかった。

 

という感じで感想を書き出すと止まらなくなりそうな「月岡芳年 血と妖艶」と、とにかく良かったとしか言えないがとにかく良かった「ロンドンナショナルギャラリー展」。どちらもおすすめです。機会か興味か、その両方があればぜひに。

 

開催概要 - 【公式】ロンドン・ナショナル・ギャラリー展(日時指定券購入制)

月岡芳年 血と妖艶 | 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art(事前購入不要)

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます!おやすみなさい。さやかでした。

子どもを公立中学に通わせたいなんて正気の沙汰ではない

最近、中学受験の話題がツイッターのタイムラインによく流れてくる。自分の子どもに中学受験をさせた親、させようと思っている親目線の言葉たちだ。

私は中学受験についてほとんど何も知らない。小学生の頃「中学受験する?」と親に尋ねられたことはあったが、私は友達と離れたくないという理由だけで地元の公立の中学に進んだし、それが大多数だった。1学年200人弱いた小学校の同級生で、私立受験をして出て行く生徒はたぶん10人もいなかったはずだ。わたしの生きていた世界では、中学受験が当たり前ではなかった。今思えば電車で20分くらいの距離に、受験できる中学はいくつもあったのに。

 

そんな風に自分で選んだ地元の公立中学は、当時ひどく荒れていた。それは前評判でわかっていて、だからこそ親には受験(と学区外への引越し)を提案されていたのだと今になれば思う。当時はよくわからなかったような気がする。

荒れていたという表現に何を見るかは想像にお任せするけれど、心を病んで休職されたり、復帰した矢先にも容赦なく心ない言葉を向けられて二度と来なくなったりした先生は複数いた。

 

私には、洋楽のある1曲を聞くたびに思い出す先生が1人いる。その歌を英語の授業で紹介してくれた若い女の先生。当時まだ2年目で、今の私と同い年だったはずだ。年齢的にも性別的にも、どうしても生徒になめられやすかった。なめられていたというか、あれはもう教員いじめだったかもしれない。先生は時々泣いたし、私も好きな先生が泣いているのがつらかった。

 

近年教員の質が低下しているなどと言われて久しいけれど、私は自ら望んで教採を受けて公立中学の教員になろうとする人のことを本当に心から尊敬する。どんな中学校でどんな3年間を過ごしたのか、一人一人に聞いてまわりたい気持ちになる。私はずっと学校の先生になりたかったけれど、中学校だけは絶対に無理だと自分が中学生の時に思ってしまった。

世間を騒がせる不祥事を起こしたり、私が大嫌いだった部活の顧問みたいに教員以前に社会人として問題があったりする、稀な例外は確かにいる。それでも公立中学の教員をしている人を無条件に特別敬いたいと思うのは、中学生のときにでひとりの人間として扱われない教員の姿を見たからだと思う。

 

中学生時代に特にまぶしい記憶はないけれど、思い出したくもないほど暗い3年間でもなかった。いじめにあうことが無かったのは運が良かったとしか言いようがない。

生来八方美人なのでツイッターでは評判が悪い内申点制度で満点をとるのは簡単だったし、学級委員や部長になって教員とやんちゃな同級生の橋渡し(板挟み)的な役割を果たすことに酔ってもいた。

とにかく、私は運が良かったのだ。中3のときには地区一番の県立高校に受かったし、さらに3年後には国立大学に受かった。県立高校至上主義、国立大学至上主義。非東京ど真ん中の思想に見事に染まった安上がりな娘だけれど、中学卒業後の7年間は楽しかったから全く後悔はしていない。

私立より安上がりとは言えども、小2から大学受験まではずっと進研ゼミを続けさせてもらっていたし、奨学金を背負わなくて良かったのも親が当然のように払ってくれたからだし、親に頭が上がらないことに変わりはない。

 

さて話を中学受験まで戻すと、書いてきたように私は自分の学生時代にはそれなりに満足していて、私立を受験すればよかったなどと今さら後悔することはない。ただ、大人になってからも会うのが小中同じ子じゃなく受験して外に出た小学校の同級生だけなのは皮肉なものだなあと思う。中学高校が一緒だった子とは未だに会うけれど、中学まで同じだった友達と個人的に会うことはたぶんもうない。

 

それから、高校に入学したあとの「部活の先輩って、急にバット投げてきたり○ねって言ってきたりしないの!?1年が部室に入っても怒らないの!?」「休み時間に勉強しても真面目って笑われないんだ!?」という喜びも忘れない。こんな低レベルな感動は、中学校がまともでさえあれば覚えずに済んだものだ。

 

以上を踏まえて、自分が子どもを育てることがあれば中学受験をさせたいし、何らかの事情でそれができないのであれば、できるだけ公立中学の評判が良いところに引っ越す選択は子どもの意志に反してもやる価値があることなのではないかなと思っている。

 

たまに見かけるこうした意見に一理もないとは言わないけれど、避けられたはずの危険や無駄にストレスフルな環境に子どもをさらすリスクを取ってまで見せる価値のある多様性がそこにあるとは思わないです。私は。

 

……生まれてもいない子どもの心配をする前に、まずお前は結婚をしろという話ですね。わかってるわかってる。わかっています。

 

あ〜〜早くエリサラと結婚して出産して子どもの教育について悩みた〜い!

「あの漫画の女の子、私に似てる」という痛みの正体

 

バズるツイートや流行る歌にはいろいろな要素があるしトレンドは確かに移り変わるけれど、いつの時代もヒットを生む定石は「これは私のことだ!」といかに多くの人に思わせるかを考えることだと思うのだ。

 

 

自称発達障害、自称うつ病、自称意識障害の人がインターネットにはたくさんいる。まるでアクセサリーでも着けるかのように自分の属性としてプロフィールに書き連ねている。

そのこと自体が良いとか悪いとかではなく、自分の感じてきた生き辛さが病気だったり障害だったり、何にせよ「名前のある何か」として認められているとわかったときの喜びに似た安堵感は、多分誰もが抱く感情なのだと思う。その度合いには個人差があるけれど。

 

そして、人は同じような属性を持った人たちと繋がりたがる。

「ソーシャルウェブの登場により、多種多様な人々と交流することが可能になった」という考えを抱いてしまうかもしれない。しかし実際は、私たちは自分に似た人々としか交流していない。これは「ホモフィリー(同類を好む傾向)」と呼ばれ、さまざまな角度から研究されてきた現象であり、ソーシャルネットワークにおける基本的な構造のひとつである。

ポール・アダムス『ウェブはグループで進化する』

自分のことをわかってほしい、わかってくれる人と繋がりたいという思いは、人の根源的で普遍的な欲求なのだと思う。

 

私は大学生の頃、心理学系の講義をとるのが好きだった。ある講義で様々な「人格障害」に関する簡単な診断が実施された際、先生が繰り返し言っていたことをよく覚えている。

「障害の有無は、グラデーションを描くように繋がっている。つまり程度の問題であるから、自分が各項目に当てはまると思っても、すぐに障害だと思い悩まないこと。誰にでもそうした特性や傾向はあり、著しく実生活に支障をきたしているのでなければ障害であると思う必要はない」

これは推測だし偏見にすぎないけれど、おそらく自己診断でいろいろな発達障害・意識障害を名乗る人の中には、先生の言ったとおり「当てはまっている!私って○○障害だったんだ!それは苦しいわけだ!」と思ってしまった人がいるのだろうと思っている。

 

人はいつも自分のことを誰かに知ってほしくて、認めてほしくて、簡単に全部わかったつもりになられるのも嫌だけれど、全くわかられないのはもっと嫌で。本当に面倒くさい。

でもそういう面倒な欲求があるからこそ、何かの診断や占いで「すごい!当たってる!」「どうして私のことがわかるの!?」とキャッキャするのが好きなのではないだろうか。

 

余談だが、私は占いの類を信じていないというか、あの人たちって大概何も言っていないなと思っている。「あなたって実は人に認められたい欲求が強い一面があって」とか、「普段本音をそのまま口に出すことはあまりないあなた」とか、誰にでもちょっと心当たりがあるようなことを曖昧に指摘してみせているだけだ。他者からの承認は誰もが求めるものだし、普通に社会性がある人間なら丸裸の本音ばかり言ってはいられない。

こんな風に、占いや診断を伴うことで本来誰にでも当てはまる一般的で曖昧な特徴が「自分を言い当てた言葉」のように聞こえる現象は、バーナム効果(フォアラー効果)と呼ばれる。

 

そういえば私は最近「前から思ってたのだけど、あなたは過剰適応の気があるよね」と言われた。占い師よりは信用できる人からだった。

いつからかは覚えていないが、苦しいときも気丈に振舞ったり相手に自分を合わせたりしておきながら、その相手が私をいい子だと評価してくれたときに、暗い気持ちを抱くようになっている。自分が心の内と違う行動を取っておきながら、それを他人に気付かれないのが面白くて悲しくて。

 

たとえば会社の先輩に、辞めそうな後輩のことが心配だと相談されて「私は大丈夫に見えてるのね、全然大丈夫じゃないのに」とか思うくらいなら、私もつらいと示せばいいのにそれができない。自分のお気持ちを仕事に持ち込みたくない気持ちが勝つ。

たとえば誰かに、失恋をもう笑い話にして強いねと言われたら「強く見えるのね、よかった」と満足する。私がありたいのはそういう強い女だし、実際は泣くほどつらいなんて人に言うことでもない。でも虚しくなるのは、私が強い女になんてなれずに毎日泣いていることを、私は知っているからだ。

 

我ながら自分で自分の首を絞めていて頭が悪いと思うが、そういう面を踏まえて指摘されたのが先の「過剰適応の気」だ。

「過剰適応の気」がある私にとっては、誰かに自分を評されたときに「そう見えるのね、実は違うのだけれど」と思うことは悪手ではないらしい。自分の外面と内面が違うことを意識的に認めることは、他者評価から自分を守ってしんどさを軽減する方法として有効だというのだ。

 

自分の虚しさの原因に名前がついたとき、私は妙に安心してしまった。「本当は違うのに」と自意識を拗らせていることを正当化されて微かに嬉しかった……とはいえ、先刻こんなことを書いたばかりだ。

「あなたって実は人に認められたい欲求が強い一面があって」とか、「普段本音をそのまま口に出すことはあまりないあなた」とか、誰にでもちょっと心当たりがあるようなことを曖昧に指摘してみせているだけだ。他者からの承認は誰もが求めるものだし、普通に社会性がある人間なら丸裸の本音ばかり言ってはいられない。

組織や集団の中で生きていれば誰だって外面と内面はある程度違ってくるはずで、失恋程度で会社にいても仕事が手につかなくなるような人の方が問題というか、特別だろうと思う。どうしようもなく悲しくてもそうでないときと同じような態度で同じような生活を続けるのは、あまりにも普通のことだ。どれくらいありふれているかと言うと、左右非対称の目くらいありふれている。誰もが人には見えない何かを抱えながら、何でもない顔をして電車に揺られたり会議に出席したりしているはずだ。

 

自分にしか見えていないようだった悩みに名前があったときの嬉しさと、占いで自分を言い当てられたと思い込むときの快感は、やっぱりちょっと似ていると思う。

そして、失恋のあと生傷を抉るように失恋の歌ばかり聞いてしまうのも、方向は違うけれどそれを欲する気持ちの出処は近いような気がする。歌詞やポエムは「これは私のことだ」という共感を呼びやすいように、敢えて曖昧に描かれることが多いと思うのだ。そもそも字数にもある程度制限があるし。

そんな曖昧な歌詞と自分の経験とを重ねて聞くときの痛みは、誰かに自分の内面を理解された喜びに多分近い。今の自分と同じような気分でいた、いつかの誰かを愛おしく思う。わかったような、わかられたような気分になれる。だからこそ、その痛みがたまらなく気持ち良いのではないかしら。

 

あなたに言われたひどいこと

そんなの全部忘れたわ

だけど涙が止まらないのは

あの漫画の女の子が惨めで可哀想だから

私に似て可哀想だから

きっとあの漫画のせい - song by SHISHAMO | Spotify

 

人はいつも自分のことを誰かにわかっていてほしくて、それなのに理解されるように動いていないのは自分だったりして、一方で誰かのことをわかりたくて、そう努めても相手の欲求を上手に満たせないことは珍しくなくて。いや、「人は」じゃなくて「私は」なのかもしれないけれど